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【ぬらりひょんの章】第1幕「奇妙な老人が来た」
【ぬらりひょんの章】第1幕 「奇妙な老人が来た」
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【 同じく1月17日 横須賀 】
「ピピピ・・、ピピピ・・・」。
無機質なアラームの音で、龍燎太郎は目をさました。
『AM6:00』
真っ暗で窮屈なカプセルホテルの室内で光っているのは、デジダル時計の文字盤だけだ。アラームを止めた後も、すぐに起きあがる気になれなかった。
足下のスクリーンカーテンを上げずに、暗闇の中にしばらく寝転がっている。
大人一人が入るのが精一杯の空間に身じろぎもせずに横たわっていると、まるで自分が火葬場の棺桶の中にいて、これから焼かれるのを待っているような気がする。
(いっそ、このまま骨まで焼き尽くしてくれればいい。)
そう考えると、左の側頭部に激しい痛みが走った。
妻が死んでから、左の生え際にヘルペスができた。抗ウイルス剤を飲んでいるが、いっこうに良くなる気配がない。医者の話では、できた場所が「最悪だ」そうだ。
目にも脳にも近い。ウイルスが視神経に侵入すれば、失明する危険があり、脳に入り込めば脳炎を引き起こしたり、顔面麻痺が残ることもあるらしい。
(失明でも脳炎にでも、なっちまえばいいんだ。)
そうなれば、思い出したくても、友香の事を思い出すことができなくなる。両目がつぶれてしまえば、机の引き出しから友香の写真を取り出して眺めることもなくなるだろう。
思い出ごと、どこかに消し去ってしまいたい。
その方が、どれだけ楽か・・・。
薬など飲むのを止めてしまおうか、とも思う。
友香が生きていた頃は毎朝目覚まし時計から流れてくるのは、茶目っ気たっぷりに吹き込んだ彼女の声だった。
「起きて!起きないと、くすぐっちゃうぞ!チューしちゃうぞ!」
友香とは一回り年が違った。耳の奥に友香の声がわき上がる。頭の中でぐるぐると反響する懐かしい声を聞きながら、冷たい天井を見つめた。葬式が終わってから、ずっと、駅近くのカプセルホテルに寝泊まりしている。
子供もいないし、家はつぶれて跡形もない。
署長には、署の独身寮に泊まったらどうか、と言われているが、四六時中、顔見知りに囲まれて過ごすのは、どうにも息が詰まった。
皆が哀れみの目で、俺を見る。
ねぎらいの言葉を掛けられるのも辛かった。
かといって、たった一人でいるのは、もっと嫌だった。一人になると、友香の思い出が脳の中に溢れ、両耳からこぼれ落ちそうになるからだ。
カプセルホテルには、いつも誰かしら人がいた。
飲み過ぎて終電がなくなったサラリーマン。金髪のチンピラ風の若者。見知らぬ他人同士、干渉してくることもない。それでいて、人のぬくもりだけは感じられる場所だ。
(いまの俺には、ここだけが世界で唯一、居心地のいい場所だ。)
毎晩酔いつぶれては、カプセルホテルの「棺桶」に潜り込んで眠る。
あまりの孤独感に叫びだしそうな時もあった。そんな時は大浴場の隣りの休憩スペースで寝た。ホテル備え付けの安っぽいガウンを着て、何人かの男たちが思い思いに寝転がっている。話し声やつけっぱなしのテレビの音を聞いているうちに、なんとか眠りに落ちることができた。
重い体で起き上がり、「棺桶」を出て、所々がペコペコとへこんだロッカーの扉を開け、中に吊ってある茶色い背広に袖を通す。
しわだらけのステンカラーコートをはおって、ホテルの玄関を出た。
外はまだ薄暗かった。東京湾の方角から吹きつける寒風が頬に痛い。吐く息が白く変わった。コートの襟を立てて、署まで歩く。
崩れ落ちた我が家の瓦礫の下からは衣類を引っ張り出せなかったので、コートも背広もあの日に着ていた物だ。 毎日「着たきり雀」だが、もう気にもならなくなった。身の回りの品はほとんどコンビニで手に入る。洗濯も面倒なので、紙製の使い捨てパンツをはいている。ワイシャツは近くの大型スーパーで特売品の3枚組を買って、日替わりで着ている。その点でもカプセルホテルは便利だった。クリーニングのサービスがあるからだ。
横須賀中央警察署までは歩いて5分ほどだ。
署の正面玄関をくぐると、若い警官が敬礼をしながら立ち上がった。
「おはようございます」
確か、交通課の巡査だ。名前は葛本とかいったか。声を出すのもおっくうで、軽く会釈だけを返して、通り過ぎようとすると、
「龍!」
と、奥から自分を呼ぶ声がした。
振り向くと、当直長の田原が立ち上がるのが見えた。署内きっての堅物で、下の者が少しでも不真面目な勤務態度を取ることを許さないことから、『鬼軍曹』というあだ名をつけられている交通課の係長だ。警察学校の同期でもある。無理に笑顔を作りながら、近づいてくる。
「ずいぶん、早い出勤じゃないか」
「目がさめちまったもんでな」
「ちゃんと寝てるのか。ひどい顔してるぞ、まるで幽霊が歩いてるみたいだ」
「そうかな」
右手で顔をなぞってみる。伸びっぱなしの無精ひげが、ぞろりと掌に触れた。
「四十九日も納骨も済んだんだろう。休暇でもとったらどうだ。いい温泉、紹介するぞ」
「何をしてても、あいつの事を考えるだけだからな。仕事をしてる方がまだ気がまぎれる」
「それもわかるが。俺でできることがあれば遠慮なく言ってくれ。女房も心配してるから」
「ああ」
ありがとう、という言葉を飲み込んで、古びた階段をのぼる。
同期というのはありがたいものだ、とは思う。しかし、だからといって何かしてほしい、とは思わなかった。
田原とは、家族ぐるみのつきあいだった。奴のかみさんの佐和子さんと友香は同じスポーツクラブの会員で、友香を紹介してくれたのも彼女だった。お互い子供がいなかったから、一緒に料理やフラワーアレンジメントの教室に通い、家族をかえりみない亭主たちを置いて、年に2,3回は一泊の温泉旅行に出かけたりもしていた。それだけに田原や佐和子さんと顔を合わせれば、お互いに友香を思い出して辛くなるだけだ。
デカ部屋に続く二階の廊下は薄暗かった。切れかかった蛍光灯が重たく歩く龍の影を床に浮かび上がらせていた。廊下の一番奥にある刑事課の部屋に辿り着き、立て付けが悪く重たいドアを押し開けた。
二十畳ほどの部屋は、静かだった。今は特に大きなヤマを抱えているわけでもない。椅子を並べて眠りこけている若い刑事の姿もなかった。
インスタントコーヒーでも入れて一服するか、と左の奥にある自分の席を見て、ぎょっとした。
そこに、小さな老人が背中を丸めて座っていたからだ。
年齢は、ゆうに八十歳を超えているだろう。顔はしわだらけで、カラスのように痩せていた。
こちらに笑いかけているのか、細い線となった両目が、しわの中に埋没していた。
十センチほど伸びた白いあごひげが、老いた山羊を思わせる。
かなり年期が入ってくたびれてはいるものの、仕立ての良さそうな茶のツイード・ジャケットを着ていた。白いワイシャツに、赤い縞模様のネクタイをきっちりと締めていた。
だが一番の特徴は、あまりに長い顔だ。
体が小さいから余計に長く見えるのかもしれないが、こんなにひょろりと細長い顔を今まで見たことがなかった。奇妙といえば、頭の形もだ。おでこの部分が異常なほど前方に飛び出しているのだ。
そう、あれに似ている。昔、テレビのコマーシャルで見たナポレオンフィッシュ。あんな、感じだ。
老人はまるで自分の家に居るかのようなリラックスした態度で、煙草をふかしている。
「誰だ、おまえ?俺の席で、なにやってる?」
老人は、また顔をしわくちゃにして笑いながら、楽しそうに答えた。
「いやあ、刑事さんにお話があってうかがったら、まだ誰もおらんかったものですからな。ここに座って、待たせてもらっておりましたんじゃ」
しわがれてはいたが、甲高い、張りのある声だった。
「下の当直の連中は何も言ってなかったぞ」
「はて、わたくしが入ってきた時は、誰にも何も言われませんでしたがな」
そんなはずは、ない。
ここは、警察署だ。部外者が入ってきて、2階に上がろうとすれば、徹夜で勤務している当直員に必ず誰何されるはずだ。
「いやあ、煙草はやっぱり、両切りのピースにかぎりますなあ。フィルターを付けてニコチンをカットするなぞ、もってのほかだ。毒は毒のままで、存分に味わい尽くさねば」
老人は、さもうまそうに煙を胸一杯に吸い込むと、ほとんど根本まで吸いきった煙草を灰皿でもみ消した。そしてすぐさま机に置かれたピースの缶からもう一本抜き出して百円ライターで火をつけた。
濃紺の缶には見覚えがあった。だいたい、デカ部屋で缶ピースを吸うのは俺しかいないのだ。
「そのピース・・・」
「ああ、これですか。机の引き出しに入っていたものですから」
「俺の引き出し、勝手に開けたのか」
「女性の写真もありましたな」
耳の奥までカッと熱くなった。
「見たのか?」
「実にきれいな方だ。原節子さんによく似て」
「誰だよ、原節子って」
「麗しの女優さんですよ。『永遠の処女』と呼ばれた。小津安二郎監督の映画をご覧になったことは?『東京物語』に『秋日和』、『麦秋』はご存じないのですか?」
「いったい、いつの映画だよ」
「『東京物語』は昭和28年、『秋日和』が昭和35年、『麦秋』は昭和26年ですな」
「生まれてねえよ!」
「田中徳三監督の『怪談雪女郎』も名作でしたな。雪女郎を演じた藤村志保さんがすばらしく美しかった。昭和43年の作品です」
「まだガキだぜ。そんな映画見るかよ」
「失礼ですが、あなた、おいくつでいらっしゃる?」
「もう49のオヤジだよ」
「それは、お若い」
「おんたから見れば、誰でも若いよ」
「映画はご覧にならないので?」
「何年か前に深夜テレビでダイハードを見たきりかな」
老人は巨大な頭を抱えて、大きくひとつため息をついた。
「なんと嘆かわしや。49歳にもなる大和おのこが日本の美しき文化を理解する知能すら持ち合わせないとは」
「余計なお世話だ。それより、お前、いったい何者だ。事と次第によっちゃあ、不法侵入で現行犯逮捕だぞ」
老人はもう一度、顔中をしわだらけにして笑ってから、「たばこ、あと3本だけ、もらっておきますよ」と缶から煙草を抜き、すばやくジャケットの内ポケットにしまいこんだ。「おまえ、またっ・・・」慌てて止めようとすると、その内ポケットから一枚の名刺を取り出して、俺の鼻先に突き出した。
「ご挨拶が遅れてしまいました。わたくし、こういうものです」
名刺には『沼来 兵衛』と、名前だけが書かれていた。
「ぬまく・・ひょうえ・・?」
老人は大げさに首を振った。
「そうではありません。『ぬら・ひょうえ』、と読みます」
初めて聞く名字だった。
「えらく珍しい名字だな」
「そうですかな。遙か昔から続く、由緒正しき名字ですがね」
名刺を裏返すと、達筆な手書きの文字で
『 住所:神奈川県逗子市神成町3-8 神成小学校体育館 』
と書かれていた。
小学校の名前に、ぴんときた。
『三浦半島南部地震』が起きて以降、繰り返し繰り返しテレビのニュースで耳にした名前だったからだ。
そして、あの忌まわしい事件の現場としても・・・。
「じいさん、避難所で暮らしてるのか」
「ええ、ええ。神成小学校で暮らしておりますよ。いささか名前は気に入りませんがね、なかなか快適です」
老人は顔中をしわだらけにしながら、うなずいた。
「もう2か月になりますかなあ」
それから、まるで近所のうわさ話でもするような口調で言った。
「避難所の一家4人殺しね、あれ、あたしが犯人なんですよ」
「ピピピ・・、ピピピ・・・」。
無機質なアラームの音で、龍燎太郎は目をさました。
『AM6:00』
真っ暗で窮屈なカプセルホテルの室内で光っているのは、デジダル時計の文字盤だけだ。アラームを止めた後も、すぐに起きあがる気になれなかった。
足下のスクリーンカーテンを上げずに、暗闇の中にしばらく寝転がっている。
大人一人が入るのが精一杯の空間に身じろぎもせずに横たわっていると、まるで自分が火葬場の棺桶の中にいて、これから焼かれるのを待っているような気がする。
(いっそ、このまま骨まで焼き尽くしてくれればいい。)
そう考えると、左の側頭部に激しい痛みが走った。
妻が死んでから、左の生え際にヘルペスができた。抗ウイルス剤を飲んでいるが、いっこうに良くなる気配がない。医者の話では、できた場所が「最悪だ」そうだ。
目にも脳にも近い。ウイルスが視神経に侵入すれば、失明する危険があり、脳に入り込めば脳炎を引き起こしたり、顔面麻痺が残ることもあるらしい。
(失明でも脳炎にでも、なっちまえばいいんだ。)
そうなれば、思い出したくても、友香の事を思い出すことができなくなる。両目がつぶれてしまえば、机の引き出しから友香の写真を取り出して眺めることもなくなるだろう。
思い出ごと、どこかに消し去ってしまいたい。
その方が、どれだけ楽か・・・。
薬など飲むのを止めてしまおうか、とも思う。
友香が生きていた頃は毎朝目覚まし時計から流れてくるのは、茶目っ気たっぷりに吹き込んだ彼女の声だった。
「起きて!起きないと、くすぐっちゃうぞ!チューしちゃうぞ!」
友香とは一回り年が違った。耳の奥に友香の声がわき上がる。頭の中でぐるぐると反響する懐かしい声を聞きながら、冷たい天井を見つめた。葬式が終わってから、ずっと、駅近くのカプセルホテルに寝泊まりしている。
子供もいないし、家はつぶれて跡形もない。
署長には、署の独身寮に泊まったらどうか、と言われているが、四六時中、顔見知りに囲まれて過ごすのは、どうにも息が詰まった。
皆が哀れみの目で、俺を見る。
ねぎらいの言葉を掛けられるのも辛かった。
かといって、たった一人でいるのは、もっと嫌だった。一人になると、友香の思い出が脳の中に溢れ、両耳からこぼれ落ちそうになるからだ。
カプセルホテルには、いつも誰かしら人がいた。
飲み過ぎて終電がなくなったサラリーマン。金髪のチンピラ風の若者。見知らぬ他人同士、干渉してくることもない。それでいて、人のぬくもりだけは感じられる場所だ。
(いまの俺には、ここだけが世界で唯一、居心地のいい場所だ。)
毎晩酔いつぶれては、カプセルホテルの「棺桶」に潜り込んで眠る。
あまりの孤独感に叫びだしそうな時もあった。そんな時は大浴場の隣りの休憩スペースで寝た。ホテル備え付けの安っぽいガウンを着て、何人かの男たちが思い思いに寝転がっている。話し声やつけっぱなしのテレビの音を聞いているうちに、なんとか眠りに落ちることができた。
重い体で起き上がり、「棺桶」を出て、所々がペコペコとへこんだロッカーの扉を開け、中に吊ってある茶色い背広に袖を通す。
しわだらけのステンカラーコートをはおって、ホテルの玄関を出た。
外はまだ薄暗かった。東京湾の方角から吹きつける寒風が頬に痛い。吐く息が白く変わった。コートの襟を立てて、署まで歩く。
崩れ落ちた我が家の瓦礫の下からは衣類を引っ張り出せなかったので、コートも背広もあの日に着ていた物だ。 毎日「着たきり雀」だが、もう気にもならなくなった。身の回りの品はほとんどコンビニで手に入る。洗濯も面倒なので、紙製の使い捨てパンツをはいている。ワイシャツは近くの大型スーパーで特売品の3枚組を買って、日替わりで着ている。その点でもカプセルホテルは便利だった。クリーニングのサービスがあるからだ。
横須賀中央警察署までは歩いて5分ほどだ。
署の正面玄関をくぐると、若い警官が敬礼をしながら立ち上がった。
「おはようございます」
確か、交通課の巡査だ。名前は葛本とかいったか。声を出すのもおっくうで、軽く会釈だけを返して、通り過ぎようとすると、
「龍!」
と、奥から自分を呼ぶ声がした。
振り向くと、当直長の田原が立ち上がるのが見えた。署内きっての堅物で、下の者が少しでも不真面目な勤務態度を取ることを許さないことから、『鬼軍曹』というあだ名をつけられている交通課の係長だ。警察学校の同期でもある。無理に笑顔を作りながら、近づいてくる。
「ずいぶん、早い出勤じゃないか」
「目がさめちまったもんでな」
「ちゃんと寝てるのか。ひどい顔してるぞ、まるで幽霊が歩いてるみたいだ」
「そうかな」
右手で顔をなぞってみる。伸びっぱなしの無精ひげが、ぞろりと掌に触れた。
「四十九日も納骨も済んだんだろう。休暇でもとったらどうだ。いい温泉、紹介するぞ」
「何をしてても、あいつの事を考えるだけだからな。仕事をしてる方がまだ気がまぎれる」
「それもわかるが。俺でできることがあれば遠慮なく言ってくれ。女房も心配してるから」
「ああ」
ありがとう、という言葉を飲み込んで、古びた階段をのぼる。
同期というのはありがたいものだ、とは思う。しかし、だからといって何かしてほしい、とは思わなかった。
田原とは、家族ぐるみのつきあいだった。奴のかみさんの佐和子さんと友香は同じスポーツクラブの会員で、友香を紹介してくれたのも彼女だった。お互い子供がいなかったから、一緒に料理やフラワーアレンジメントの教室に通い、家族をかえりみない亭主たちを置いて、年に2,3回は一泊の温泉旅行に出かけたりもしていた。それだけに田原や佐和子さんと顔を合わせれば、お互いに友香を思い出して辛くなるだけだ。
デカ部屋に続く二階の廊下は薄暗かった。切れかかった蛍光灯が重たく歩く龍の影を床に浮かび上がらせていた。廊下の一番奥にある刑事課の部屋に辿り着き、立て付けが悪く重たいドアを押し開けた。
二十畳ほどの部屋は、静かだった。今は特に大きなヤマを抱えているわけでもない。椅子を並べて眠りこけている若い刑事の姿もなかった。
インスタントコーヒーでも入れて一服するか、と左の奥にある自分の席を見て、ぎょっとした。
そこに、小さな老人が背中を丸めて座っていたからだ。
年齢は、ゆうに八十歳を超えているだろう。顔はしわだらけで、カラスのように痩せていた。
こちらに笑いかけているのか、細い線となった両目が、しわの中に埋没していた。
十センチほど伸びた白いあごひげが、老いた山羊を思わせる。
かなり年期が入ってくたびれてはいるものの、仕立ての良さそうな茶のツイード・ジャケットを着ていた。白いワイシャツに、赤い縞模様のネクタイをきっちりと締めていた。
だが一番の特徴は、あまりに長い顔だ。
体が小さいから余計に長く見えるのかもしれないが、こんなにひょろりと細長い顔を今まで見たことがなかった。奇妙といえば、頭の形もだ。おでこの部分が異常なほど前方に飛び出しているのだ。
そう、あれに似ている。昔、テレビのコマーシャルで見たナポレオンフィッシュ。あんな、感じだ。
老人はまるで自分の家に居るかのようなリラックスした態度で、煙草をふかしている。
「誰だ、おまえ?俺の席で、なにやってる?」
老人は、また顔をしわくちゃにして笑いながら、楽しそうに答えた。
「いやあ、刑事さんにお話があってうかがったら、まだ誰もおらんかったものですからな。ここに座って、待たせてもらっておりましたんじゃ」
しわがれてはいたが、甲高い、張りのある声だった。
「下の当直の連中は何も言ってなかったぞ」
「はて、わたくしが入ってきた時は、誰にも何も言われませんでしたがな」
そんなはずは、ない。
ここは、警察署だ。部外者が入ってきて、2階に上がろうとすれば、徹夜で勤務している当直員に必ず誰何されるはずだ。
「いやあ、煙草はやっぱり、両切りのピースにかぎりますなあ。フィルターを付けてニコチンをカットするなぞ、もってのほかだ。毒は毒のままで、存分に味わい尽くさねば」
老人は、さもうまそうに煙を胸一杯に吸い込むと、ほとんど根本まで吸いきった煙草を灰皿でもみ消した。そしてすぐさま机に置かれたピースの缶からもう一本抜き出して百円ライターで火をつけた。
濃紺の缶には見覚えがあった。だいたい、デカ部屋で缶ピースを吸うのは俺しかいないのだ。
「そのピース・・・」
「ああ、これですか。机の引き出しに入っていたものですから」
「俺の引き出し、勝手に開けたのか」
「女性の写真もありましたな」
耳の奥までカッと熱くなった。
「見たのか?」
「実にきれいな方だ。原節子さんによく似て」
「誰だよ、原節子って」
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「生まれてねえよ!」
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「まだガキだぜ。そんな映画見るかよ」
「失礼ですが、あなた、おいくつでいらっしゃる?」
「もう49のオヤジだよ」
「それは、お若い」
「おんたから見れば、誰でも若いよ」
「映画はご覧にならないので?」
「何年か前に深夜テレビでダイハードを見たきりかな」
老人は巨大な頭を抱えて、大きくひとつため息をついた。
「なんと嘆かわしや。49歳にもなる大和おのこが日本の美しき文化を理解する知能すら持ち合わせないとは」
「余計なお世話だ。それより、お前、いったい何者だ。事と次第によっちゃあ、不法侵入で現行犯逮捕だぞ」
老人はもう一度、顔中をしわだらけにして笑ってから、「たばこ、あと3本だけ、もらっておきますよ」と缶から煙草を抜き、すばやくジャケットの内ポケットにしまいこんだ。「おまえ、またっ・・・」慌てて止めようとすると、その内ポケットから一枚の名刺を取り出して、俺の鼻先に突き出した。
「ご挨拶が遅れてしまいました。わたくし、こういうものです」
名刺には『沼来 兵衛』と、名前だけが書かれていた。
「ぬまく・・ひょうえ・・?」
老人は大げさに首を振った。
「そうではありません。『ぬら・ひょうえ』、と読みます」
初めて聞く名字だった。
「えらく珍しい名字だな」
「そうですかな。遙か昔から続く、由緒正しき名字ですがね」
名刺を裏返すと、達筆な手書きの文字で
『 住所:神奈川県逗子市神成町3-8 神成小学校体育館 』
と書かれていた。
小学校の名前に、ぴんときた。
『三浦半島南部地震』が起きて以降、繰り返し繰り返しテレビのニュースで耳にした名前だったからだ。
そして、あの忌まわしい事件の現場としても・・・。
「じいさん、避難所で暮らしてるのか」
「ええ、ええ。神成小学校で暮らしておりますよ。いささか名前は気に入りませんがね、なかなか快適です」
老人は顔中をしわだらけにしながら、うなずいた。
「もう2か月になりますかなあ」
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