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リクドウ池の氾濫・Ⅲ
しおりを挟む「……分かりました。
じゃあ、ちょっと待ってください」
工藤の兄ちゃんは、イライラしているおじさんにそう言った。
それから、ぼくと舞原にレジ台の上に座るように言ったのだ。
「いいの?」
「ドアを開けたら、水浸しになるから仕方ないよ。
靴も脱がなくていいぞ。
もしガラスが割れたら、足の裏をケガするからな」
工藤の兄ちゃんは、「お客さんもこっちに来てください」と、おばあさんにも声をかけた。
レジ台は二つある。
工藤の兄ちゃんは、もうひとつのレジ台におばあさんを座らせた。
「邪魔なんだよ!」
おばあさんが、もう一方のレジ台に座ると同時に、おじさんが勝手に段ボール箱の土嚢をどかしてしまった。
「ちょっと、まだ!」
工藤の兄ちゃんが叫ぶ。
水圧でドアが内側に開き、ドッと濁った水が店内に流れ込んできた。
舞原は、思わずレジ台の上に立ちあがり、「きゃあ」と悲鳴をあげる。
ぼくもレジ台の上に立ち上がった。それほど勢いよく水が流れ込んできたのだ。
「あの野郎!」
工藤の兄ちゃんは、慌ててレジの内側に逃げ込んだ。
もちろん、レジの内側もあっと言う間に水が流れ込んできた。それでも、回り込む形で流れ込んできた水は勢いを失っていた。
でも、ドアの前でまともに流れてくる水を受けたおじさんは、そうはいかなかった。
想像以上の水流の激しさに、その場で足を取られてひっくり返り、店の奥まで押し流されてきたのだ。
まるでコントを見ているようだった。
ただ、今の状況じゃ笑えない。
「あんた、何してんだ!
待ってくれって言っただろうが!」
頭までずぶ濡れになって、よろよろと立ち上がったおじさんを工藤の兄ちゃんが怒鳴りつける。
店の中は、袋に入ったお菓子やボールペン、ライター、メモ帳、シャンプーやリンス、靴下、カップラーメン……、あらゆる商品が浮き沈みしていた。
「し、知るか。オレのせいじゃない!
オ、オレは帰るんだよ!」
店の惨状に驚いた顔になったおじさんは、逃げ出すようにザバサバと水を掻き分け、開きっ放しになったドアへと向かう。
外に出たおじさんは、雨に打たれ、腰近くまで水に浸かりながら、駐車場で半分沈んでいる自動車に近づいて行った。
「馬鹿だな。
あそこまで水に浸かっちゃ、エンジンはかからないよ」
それを眺める工藤の兄ちゃんが、顔をしかめながら言った。
「悪い男の人だねえ」
おばあさんも困ったような顔で言った。
「性根の悪い人間は、リクドウ池の河童に引っ張っていかれるよ」
「河童?」
ぼくはおばあさんに尋ねた。
「そうさ。
リクドウ池には河童が棲んでいるんだよ。
良くない場所と繋がっていると言っただろ」
おばあさんが続けた。
「私が子供のころは、見た人が大勢いたよ。
尻子玉を抜かれて、腑抜けになった人もいたねえ」
「シリコダマって何?」
「お尻の穴の横にある玉だよ。
それを河童に取られると、魂が抜けたようになっちまうのさ」
おばあさんがそう説明をした時、開きっ放しになったドアの向こうから悲鳴が聞こえた。
見ると、水に浸かった車の横で、おじさんがひっくり返るところだった。
ばしゃばしゃと水しぶきをあげて暴れ「い、痛ぇ! た、助けてくれ!」とおじさんが悲鳴を上げている。
「何をやってんだ、あのおっさんは」
工藤の兄ちゃんは、怒った顔で水を掻き分け、店を出ていく。
「ぼくも手伝うよ」
「だめよ、タケル!」
レジ台を降りようとしたぼくを舞原が止めた。
「どうして?
もうこうなったら濡れても平気だよ」
「違うの……。
河童がいたのよ」
舞原の顔は強張っていた。
冗談を言っているようには見えない。
「本当よ。
なんだか黒くて大きな甲羅がスーーッとおじさんに近づいた途端、おじさんが足を引っ張られたようになって、水に沈んだのよ」
「何かの見間違いじゃないの」
「本当だって」
舞原の顔は真剣だった。
この夏になって、ぼくはいろんな怖い体験をした。
人柱にされた女の人の幽霊。
大工のおじいさんの幽霊。
何かにとり憑かれた先生。
そして、黒い目をした不気味な集団……。
それでも、河童が実際にいるとは信じられなかった。
舞原に止められているうちに、工藤の兄ちゃんがおじさんを支えながら戻ってきた。
「化物だ。
化け物が水の中にいたんだよ」
おじさんは、真っ青な顔になって訴える。
化け物とは、河童のことなんだろうか……。
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