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江戸の華

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 それを見た少女は、少し首を傾げて口を開いた。
 「……研水先生?」

 「……あ! 
 チヨちゃんだったのか」
 少女の顔を改めて見た研水も、この娘のことを思い出した。
 以前、少女の父親を往診したことがあるのだ。

 チヨの父親は、松次郎と言い、佐吉と同じく大工である。
 ただし、年齢は一回り、腕前は二回りも松次郎の方が上であった。
 この松次郎が、仕事中の事故で足に大ケガをし、研水が往診したのである。

 大工の仕事中ではない。
 消火作業中の事故でであった。

 木造住宅が密集する江戸は、火事に弱い町であった。
 二、三年に一度は大きな火事があったと言われている。
 その中でも、最大の大火は、明暦三年(1657年)に発生した、明暦の大火であった。
 供養で燃やした振袖が原因であったとも噂され、振袖火事とも呼ばれているこの大火災は、三日間で、江戸の大半を焼き尽くした。

 1月18日。本郷丸山本妙寺から出火した炎は、外濠を越えて、神田、京橋一帯を焼き払った。
 さらに19日の午前になると、新鷹匠町の大番衆与力方より新たに出火。
 外濠、内濠を越え、本丸にまで飛び火すると、江戸城の天守閣までもが焼け落ちた。
 その同日の夕方、今度は麹町から出火し、この火は、被害の少なかった、西の丸と江戸の南を飲み込んだ。
 翌日まで炎は荒れ狂い、死者は10万7千人とも言われる。

 これまで、奉書火消、所々火消、大名火消などの消防組織は存在したが、いずれも火消専門の組織ではないため、明暦の大火においては、効果的な消火活動が出来なかった。
 
 そのため、翌年の万治元年(1658年)には、幕府直轄の消防組織、定火消が創設された。
 定火消には、消防専門の男たちが集められ、彼らは臥煙(がえん)と呼ばれた。
 
 研水は、何度か臥煙の男たちを見たことがある。
 臥煙は、真冬であっても、褌の他には法被を羽織るだけで、全身に彫った刺青を寒風にさらしている。
 威勢の良いこと身上とし、それを体現しているらしい。

 研水は、こんな話も聞いた。
 臥煙たちが寝るときは、大部屋で十人ほどが並んで眠るのだが、頭を乗せる枕が、一本の長い丸太なのである。
 なぜ一本の丸太が枕なのか?

 真夜中に火事が起きると、不寝番が木槌でもって、丸太の切り口を思い切りぶっ叩くのだ。
 衝撃で、全員を一気に起こすためである。
 それを聞いた研水は、あまりの野蛮さに言葉を失った。

 が、松次郎が所属している火消は、この定火消ではない。
 町火消である。
 
 町人を主体とした町火消は、享保二年(1717年)に設置され、その後、何度か再編成された後、享保五年に組織が整った。
 これが、いろは四十七組(後に四十八組)、本所深川十六組で組織された町火消である。


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