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一名海雷
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「へーー、羨ましいねえ」
老人の話を聞いた中年の女性が、そう言った。
「羨ましいと?
何が、羨ましいんじゃ?」
老人は驚いた顔になった。
「だってほら、そいつは人魚なんでしょ。
人魚を見た人間には、良いことが起こるって言うじゃない」
女性はそう言った。
江戸時代、人魚は麒麟と同じく、めでたいしるしである、瑞兆、吉兆と呼ばれていた。
「あれは、そのようなものではないわい。
あの禍々しさは、凶兆、凶事の前触れよ」
老人は、恐怖と嫌悪感が混じった顔で言う。
「おいおい、じいさん。
本当に人魚なのか?
ヘソから下がナマズの人魚なんざ、聞いたことがねェぞ」
佐吉が茶化すように口を挟んだ。
「そもそも、人魚ってのは、海の化け物じゃねェのかい?
ほれ、十年も前に、越中(現在の富山県)の浜で、人魚を捕まえたって話があっただろ」
佐吉の言葉に、周囲から声があがった。
「おお、覚えてるぞ。
瓦版には、般若のような顔をした人魚が描かれておったな」
「胴の左右に、三つの目があったという、あの人魚か」
「三丈五尺(約10.6m)という、途方もない大きさで、山ほどに集めた火縄銃で撃ち殺したそうではないか」
これは、このときより12年前、文化2年(1805年)のことである。
越中国放生淵四方浦で、人魚が捕まったと話題になった。
『人魚図 一名海雷』と題された瓦版には、髪が長く、頭部から二本の角をはやした人魚の絵図が描かれていた。
顔だけが角の生えた人間のそれであり、首から下は、背びれ、ウロコのある、巨大な魚となっている。
そして、胴には、三つの目が描かれていた。
この人魚は、江戸時代の考証家、石塚豊芥子が編纂した『街談文々集要』の中にも、「富山捕怪魚」という題で記されている。
「海の妖物が、お城の濠にいても不思議ではあるまい」
そう言ったのは徳蔵である。
「お城の内濠は、外濠と繋がっておろう。
外堀は、隅田川と繋がっておる。
そして、隅田川は、江戸前の海と繋がっていることは知っておろう。
その人魚は、上げ潮に乗って、隅田川に入り込み、外濠、内濠と、入り込んできたのかも知れぬぞ」
「しかし、物騒じゃのう。
ほれ、ちょっと前に、ぬえが、お侍に襲い掛かり、殺したと言う話があったではないか」
「あれは、驚いたのう」
「ぬえの死骸も見つかったと言うな」
あちこちで声が上がる。
「その話は、もう古いわ。
お前たちは、今日の昼の話を知らぬのか?
櫻坂の向こうで、化け物のような鳥が現れ、捕り方たちを数十人も殺したのだぞ」
「なんだ、それは?」
「おれも、その話は知っておるぞ」
静まった濠に興味を失ったのか、集まっていた人々は、人魚ではなく、人面鳥の話で盛り上がり始めた。
研水は、その話に入れば、当事者としていくらでも話が出来たが、それはせず、まだ濠を見詰めていた。
顔は強張り、目に恐怖の色がある。
老人の語った人魚について、心当たりがあったのだ……。
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