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帰路の怪異
しおりを挟む「おお、研水先生」
見知った顔が声を掛けてきた。
四十がらみの、眉が太く、顎の四角い男である。
「……徳蔵さん」
研水は、男の名を呼ぶと、駆け寄っていた濠から、心持ち足を遠ざける。
濠から、いきなり何かが飛び出してきても、逃げ出すことができる位置へと移動したのだ。
「ごぶさたしております」
研水に徳蔵と呼ばれた男は、頑丈そうな歯を見せ、大きな笑みを浮かべる。
「ちょうど良かった。
最近の暑さのせいか、どうも体の調子が良くないんですよ。
また、五臓圓をお願いしやす」
五臓圓とは、芍薬、桔梗、人参などを調合した滋養強壮剤である。
徳蔵は、いかにも押しの強そうな見かけだが、体の芯が弱く、研水は、何度か五臓圓を処方したことがあるのだ。
「分かりました」
研水が頷くと、徳蔵は「ありがてえ」と声をあげた。
徳蔵は、人宿である。
人宿とは、口入れ屋とも言い、地方から、働き口を求めて、江戸にやってきた人に対し、身元引受人となって、奉公先を斡旋する商売である。
逆に、働き手を求めている大店などには、仕事を探す奉公人を斡旋する。
当然、どちらからも手間賃や斡旋料を受け取る。
現代で言えば、人材派遣業者にやや近い職種である。
徳蔵の言葉で、周囲の人間が研水のことに気付いた。
「あら、研水先生」
「先生、先生。
頂いたお薬で、すっかり胸の痛みが消えました」
「研水先生。
先生のおかげで、娘は元気になりました。
ありがとうございます」
研水に気付いた人々が、親しげに声を掛け、嬉しそうな顔で感謝の言葉を口にする。
「先生も野次馬ですかい?」
佐吉と言う、大工の見習いが言う。
「溺れた人がいるという声が、聞こえたものでね」
研水は「ははは」と頭をかきながら答えた。
笑いはぎこちなく、視線は濠の方向から離れない。
「あんたと違って、研水先生は、野次馬しているほど、暇じゃないんだよ。
人助けに駆け付けたのさ」
中年の女性が、平手で佐吉の背中を引っ叩いた。
パンッと大きな音がし、「痛てェ!」と、大袈裟に佐吉が背を反らす。
「先生。
人間が溺れていたんじゃありませんよ。
お堀に棲んでる、大ナマズが姿を現したんでさ。
あっしゃ、ちらりと見ましたが、八尺(約240㎝)はあるようなナマズでしたよ」
徳蔵が口を挟む。
「本当かい、徳さん?
みんな、土座衛門が流れてきたって言ってるよ」
佐吉の背を叩いた女性が言う。
「おいおい、考えてみなよ。
お城の濠は、流れなんかないんだぜ。
土座衛門が流れてくるはずがねェだろ」
「だよな」
「じゃあ、沈んでいた、水死体が浮いてきたんじゃねェか?」
「鯉だろ。鯉。
でかい鯉が棲んでるって聞いたことがあるぞ」
みんな口々に、好き勝手なことを話し始めた。
「何度も違うと言っておろう!」
しゃがれた苛立つような声に、人々は口を閉ざした。
あの白髪の老人であった。
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