上 下
34 / 202

帰路の怪異

しおりを挟む

 「おお、研水先生」
 見知った顔が声を掛けてきた。
 四十がらみの、眉が太く、顎の四角い男である。

 「……徳蔵さん」
 研水は、男の名を呼ぶと、駆け寄っていた濠から、心持ち足を遠ざける。
 濠から、いきなり何かが飛び出してきても、逃げ出すことができる位置へと移動したのだ。

 「ごぶさたしております」
 研水に徳蔵と呼ばれた男は、頑丈そうな歯を見せ、大きな笑みを浮かべる。
 「ちょうど良かった。
 最近の暑さのせいか、どうも体の調子が良くないんですよ。
 また、五臓圓をお願いしやす」
 
 五臓圓とは、芍薬、桔梗、人参などを調合した滋養強壮剤である。
 徳蔵は、いかにも押しの強そうな見かけだが、体の芯が弱く、研水は、何度か五臓圓を処方したことがあるのだ。

 「分かりました」
 研水が頷くと、徳蔵は「ありがてえ」と声をあげた。

 徳蔵は、人宿である。
 人宿とは、口入れ屋とも言い、地方から、働き口を求めて、江戸にやってきた人に対し、身元引受人となって、奉公先を斡旋する商売である。
 逆に、働き手を求めている大店などには、仕事を探す奉公人を斡旋する。
 当然、どちらからも手間賃や斡旋料を受け取る。
 現代で言えば、人材派遣業者にやや近い職種である。

 徳蔵の言葉で、周囲の人間が研水のことに気付いた。
 「あら、研水先生」
 「先生、先生。
 頂いたお薬で、すっかり胸の痛みが消えました」
 「研水先生。
 先生のおかげで、娘は元気になりました。
 ありがとうございます」
 研水に気付いた人々が、親しげに声を掛け、嬉しそうな顔で感謝の言葉を口にする。
 
 「先生も野次馬ですかい?」
 佐吉と言う、大工の見習いが言う。

 「溺れた人がいるという声が、聞こえたものでね」
 研水は「ははは」と頭をかきながら答えた。
 笑いはぎこちなく、視線は濠の方向から離れない。

 「あんたと違って、研水先生は、野次馬しているほど、暇じゃないんだよ。
 人助けに駆け付けたのさ」
 中年の女性が、平手で佐吉の背中を引っ叩いた。
 パンッと大きな音がし、「痛てェ!」と、大袈裟に佐吉が背を反らす。

 「先生。
 人間が溺れていたんじゃありませんよ。
 お堀に棲んでる、大ナマズが姿を現したんでさ。
 あっしゃ、ちらりと見ましたが、八尺(約240㎝)はあるようなナマズでしたよ」
 徳蔵が口を挟む。

 「本当かい、徳さん?
 みんな、土座衛門が流れてきたって言ってるよ」
 佐吉の背を叩いた女性が言う。

 「おいおい、考えてみなよ。
 お城の濠は、流れなんかないんだぜ。
 土座衛門が流れてくるはずがねェだろ」
 「だよな」
 「じゃあ、沈んでいた、水死体が浮いてきたんじゃねェか?」
 「鯉だろ。鯉。
 でかい鯉が棲んでるって聞いたことがあるぞ」
 みんな口々に、好き勝手なことを話し始めた。

 「何度も違うと言っておろう!」
 しゃがれた苛立つような声に、人々は口を閉ざした。
 あの白髪の老人であった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

生意気な女の子久しぶりのお仕置き

恩知らずなわんこ
現代文学
久しくお仕置きを受けていなかった女の子彩花はすっかり調子に乗っていた。そんな彩花はある事から久しぶりに厳しいお仕置きを受けてしまう。

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

RUBBER LADY 屈辱の性奴隷調教

RUBBER LADY
ファンタジー
RUBBER LADYが活躍するストーリーの続編です

同僚くすぐりマッサージ

セナ
大衆娯楽
これは自分の実体験です

処理中です...