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   ◆◇◆◇◆◇◆

 研水は、あたふたと逃げるようにして、杉田玄白の屋敷を辞した。
 あのまま残っていれば、景山に言いくるめられ、囮になることを承諾させられるのではないかと、おそれたのだ。
 
 だが、こうやって、一人で帰路についていると、逆に、自分の不在をいいことに、事後承諾の形で、囮役に決められているのではと不安になってくる。
 ……残っていた方が、良かったのではないか。
 そう考えると、足の進みが遅くなる。

 ……いや、そのようなことはない。
 と、研水は、湧き上がってきた不安を打ち消した。

 玄白先生がおられるのだ。
 玄白の顔を思い出すと、研水の足は軽くなった。

 玄白先生が、そのような無体なことを許されるはずはない。
 そう思う研水の耳に、「ほっほっほっ」という玄白の笑い声がよみがえった。
 
 なんとも楽しそうな笑い声をあげ、なんとも楽しそうな笑顔をみせていた。
 研水が天真楼で学んでいたころには、みせたことの無い笑顔である。
 天真楼の塾頭であったころの玄白は、塾生たちには穏やかな顔をみせるが、自身に対しては、常に厳しく律しているような気真面目さがあった。

 蘭学の先駆者とは、こうあるべきだと言う枠を作り、長い年月をかけて、自分をその枠に、ギチリ、ギチリとはめ込んだような気真面目さである。
 その立ち振る舞いは、蘭学者と言うより、どこか修行僧を連想させた。

 しかし、あの笑い声と笑顔には、その枠を捨て去った、明るさがあった。
 僧侶が僧侶であることをやめ、一般の人々、俗人となることを還俗という。
 再開した玄白は、俗世に還った蘭学僧のようであった。

 徳と俗を併せ持っている。
 実務から離れ、重責から解放されたために、自然と、自らを縛っていた枠が消失したのだろうか。
 それとも、老いて肺病に罹り、死を身近に感じたことによって、窮屈な枠の外に出たのだろうか。
 そうではなく、死の恐怖を乗り越え、俗世を楽しもうとしているのか……。

 研水には、分からなかった。
 ただ、敬愛する師が、あのように楽しそうに笑っている顔を見られたことは嬉しかった。
 
 うん。嬉しいのだ。
 ……嬉しいのだが、俗世に還ったノリで、景山の案に賛同するのではないかと言う不安もある。
 「ほっほっほっ」という玄白の楽し気な笑い声が、耳の奥で、またよみがえった。
 研水の足が重くなる。

 ……いや、いやいや。
 研水は、その不安を自身で否定する。
 そもそも自分は、ただの町医、市井の人間なのだ。
 囮など、無理強いされるいわれはない。

 「ない」と小さく頷いて、歩を進める。
 が、三歩と進まぬ内に、不安が這い出てきた。
 ……逆に何の力も持たぬ市井の人間だからこそ、本人の承諾なしに囮としてしまうかも知れないのだ。
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