大江戸怪物合戦 ~禽獣人譜~

七倉イルカ

文字の大きさ
上 下
25 / 204

ターヘル・アナトミア(解体新書)

しおりを挟む

 「では、もう少しだけ、私の昔話に、お付き合いを願います」
 そう言った玄白は、思い出したかのように、小さな咳を二つした。

 「……カピタンとの面会から、六年後のことになります。
 私は『ターヘル・アナトミア』という、西洋の解剖学書に取り憑かれました。
 そうです『解体新書』の原書です」
 玄白は再び語りはじめた。

 『ターヘル・アナトミア』の原本は、ドイツ人医師ヨハン・A・アダムスが著した解剖学書である。
 この解剖学書を蘭語に訳した書物が、日本では『ターヘル・アナトミア』と呼ばれる。
 『ターヘル・アナトミア』とは、『解剖図表』というような意味である。

 この『ターヘル・アナトミア』を知り合いのオランダ人から借り受け、玄白に見せたのは、中川淳庵であった。
 玄白は、その精密な解剖図に魅入られた。

 心臓、肺臓、肝臓、大腸などの臓腑はもちろんのこと、人間の皮膚を頭からつま先まで完全に剥がし、その下に、どのように筋肉がついているのかを表した図。
 さらに全身の骨格図はもちろん、背骨、頭蓋骨、頭蓋骨の断面図までもある。
 頁をめくっていくと、男性の頭部を切り開き、脳みそがどのように保護され、頭蓋骨に収まっているのかが分かる図までもが、精密な線によって描かれていた。

 日本にも『蔵志』という腑分け図(解剖図)は存在したが、まるで別物であった。
 「これは凄いものだ……」
 『ターヘル・アナトミア』を持つ玄白の手は震えた。
 蘭語で書かれた文章を読むことが出来なくても、その解剖図だけで、この医学書にどれほどの価値があるのかは、容易に理解できる。

 後日、杉田玄白、中川順庵、中津藩医の前野良沢は、町奉行所に許可を得て、『ターヘル・アナトミア』の解剖図の正確さを確かめるため、千寿骨ヶ原で罪人の死体の腑分けにまで立ち合った。

 罪人は女性であった。
 玄白たちが現れたときには、すでに息絶えていた。

 「よいですか?」
 死体を処分する者たちが、玄白達の前で、女罪人の遺体の腹を切り裂いた。
 器用に皮膚と筋肉だけを切る。
 腹圧で、傷口から内臓が盛り上がった。

 『ターヘル・アナトミア』に描かれていた臓物が、描かれていた位置から出てくる。
 驚嘆すべき正確さであった。

 これの書は日本の医学に必要だ。
 『ターヘル・アナトミア』を訳し、内容を理解することが出来れば、多くの病を治すことが出来る。
 異臭を放ちながら、溢れる臓器を見る玄白は、かつてないほど高揚している自分を感じた。

 玄白は、小浜藩に『ターヘル・アナトミア』の必要性を解きに解き、ついに購入を認めさせた。
 『ターヘル・アナトミア』をオランダ人から買い取った玄白は、若い蘭学者の桂川甫周も加え、さっそく良沢の屋敷で、『ターヘル・アナトミア』の翻訳を開始した。

 翻訳が完成すれば、日本の医術は飛躍的に発展する。
 しかし、蘭和辞典など存在せず、良沢がわずかな単語を知っているだけであり、翻訳は難航を極めた。

 「源内先生がいれば……」
 玄白は日に幾度となく、そうつぶやいた。

 そのころ平賀源内は、新たなる才能の一面を開花させ、全国を飛び回っては、河川工事や鉱山開発などに手を出していたのである。
 玄白は、田村元雄ならば源内と連絡が取れるかも知れないと思い、屋敷を訪ねてみた。

 「これは、玄白先生。
 お待ちしておりました」
 玄白の来訪を喜んだ元雄であったが、平賀源内の名前を出すと、砂でも噛んだような顔になって首を振った。

 「源内ですか……。
 あの男は、もうダメだ。
 とうの昔に破門しましたよ」

 「源内殿を破門に!」
 思いがけぬ元雄の言葉に、玄白は驚いた。

 「何かあったのですか、元雄先生!
 あれほど源内殿を買っていらした先生が……」
 玄白は元雄の言葉が信じられなかった。

 「あの男は……、
 魔書に取り憑かれたのです」

 「魔書?」

 「……玄白先生。
 『ターヘル・アナトミア』の翻訳をなさっているそうですが、邦題はお決めになりましたかな?」
 元雄は、話題を変えた。

 「ええ、邦題を付けるなど、まだ早いとは思っているのですが、『解体新書』と名付けるつもりです」

 「それは良い。すばらしい邦題だ」
 元雄は、感心した顔で頷いた。
 頷いた後で、元雄は再び苦い顔になる。

 「……元雄先生」
 元雄の変化に、戸惑いながら玄白が声を掛けた。

 「……源内が取り憑かれている魔書に邦題をつけるとするなら、さしずめ『改造新書』ということになりましょう。
 あれは人を人では無いものに改造する、禁断の魔書です」
 元雄は吐き捨てるように言った。


しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

江戸時代改装計画 

華研えねこ
歴史・時代
皇紀2603年7月4日、大和甲板にて。皮肉にもアメリカが独立したとされる日にアメリカ史上最も屈辱的である条約は結ばれることになった。 「では大統領、この降伏文書にサインして貰いたい。まさかペリーを派遣した君等が嫌とは言うまいね?」  頭髪を全て刈り取った男が日本代表として流暢なキングズ・イングリッシュで話していた。後に「白人から世界を解放した男」として讃えられる有名人、石原莞爾だ。  ここはトラック、言うまでも無く日本の内南洋であり、停泊しているのは軍艦大和。その後部甲板でルーズベルトは憤死せんがばかりに震えていた。  (何故だ、どうしてこうなった……!!)  自問自答するも答えは出ず、一年以内には火刑に処される彼はその人生最期の一年を巧妙に憤死しないように体調を管理されながら過ごすことになる。  トラック講和条約と称される講和条約の内容は以下の通り。  ・アメリカ合衆国は満州国を承認  ・アメリカ合衆国は、ウェーキ島、グアム島、アリューシャン島、ハワイ諸島、ライン諸島を大日本帝国へ割譲  ・アメリカ合衆国はフィリピンの国際連盟委任独立準備政府設立の承認  ・アメリカ合衆国は大日本帝国に戦費賠償金300億ドルの支払い  ・アメリカ合衆国の軍備縮小  ・アメリカ合衆国の関税自主権の撤廃  ・アメリカ合衆国の移民法の撤廃  ・アメリカ合衆国首脳部及び戦争煽動者は国際裁判の判決に従うこと  確かに、多少は苛酷な内容であったが、「最も屈辱」とは少々大げさであろう。何せ、彼らの我々の世界に於ける悪行三昧に比べたら、この程度で済んだことに感謝するべきなのだから……。

幕府海軍戦艦大和

みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。 ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。 「大和に迎撃させよ!」と命令した。 戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。

戦艦タナガーin太平洋

みにみ
歴史・時代
コンベース港でメビウス1率いる ISAF部隊に撃破され沈んだタナガー だがクルーたちが目を覚ますと そこは1942年の柱島泊地!?!?

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

ナースコール

wawabubu
青春
腹膜炎で緊急手術になったおれ。若い看護師さんに剃毛されるが…

処理中です...