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南町奉行所

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 江戸の行政、司法、治安維持は、南町奉行所、北町奉行所が担っている。

 南町、北町と名称は異なるが、これは江戸を南北に分け、管轄を別にしている訳ではなく、月番制で、北町奉行所と南町奉行所が、交互に公務を務めているのである。

 役職としては、町奉行が頂点であり、その次が与力、そして同心と続く。
 町奉行は旗本が務め、与力、同心は御家人が務める。

 旗本、御家人、どちらも将軍直属の家臣であるが、旗本は御家人とは違い、将軍への謁見が許される家格を持っている。

 奉行は南北に1人ずつ、与力は25人ずつ、そして、その下の同心は、約100人ずつが、その役についている。
 合わせて250人程度である。

 当時、100万とも言われた江戸の人口に対して、この程度の人数では、治安を守ることは不可能であった。
 そのため、同心は、御用聞き、岡っ引きと呼ばれる、私的な部下を多数抱えていた。

 ◆◇◆◇◆◇

 玄白の自宅を辞した翌日。
 午前中に南町奉行所を訪ねた研水は、景山が市中の見回りに出たことを教えてもらうと、それを追うように、江戸の町を歩きはじめた。

 何やらおかしなことに巻き込まれているという思いはあったが、決して嫌なものでは無かった。
 あの異形の化け物の正体は、研水も興味がある。
 それに、尊敬する師の頼みを受けて奔走することは、誇らしいことであった。

 ただ、仲介を頼まれた、同心の景山との相性が悪かった。
 それが、どうにも気を重くする。

 ……一昨年の冬。
 景山の御内儀を診察したことが、そもそもの始まりであった。

 微熱と咳が収まらない御内儀の治療を頼まれ、研水は景山の屋敷に赴いた。
 六郎を庭先に残し、屋敷にあがった研水は、佐那という名の小柄な御内儀を診察した。

 目の下を指先で押し下げ、白目の色を診る。
 口を開けてもらい、舌の色や乾き具合を診る。

 その間、研水のすぐ斜め後ろには、景山が石仏のように座っていた。
 呼吸音が、はっきりと聞こえる近さである。
 気が散って仕方がない。

 「では、脈を……」
 「待て」
 研水が、佐那の脈を診るために手を伸ばすと、景山がそれを制止した。

 「糸脈という方法を聞いたことがある。
 糸脈で、診てもらいたい」
 研水は、驚きと呆れが半々の思いで振り返った。
 しかし、斜め後ろに座る景山の顔は、いたって真剣である。

 糸脈とは、触れること、近づくことさえ許されぬほど高貴な人の脈を診る際に、行われたと言われている診療方法である。
 貴人の手首に絹糸を巻き、離れた場所に控えた医師が、その絹糸の端を持つ。
 そして糸から伝わってくる脈を感じ、診察を行うというものである。

 当然、でたらめで、そのような方法で脈を診られるものではない。

 「景山様。
 まともな医師は、糸脈など行いませぬ」
 研水が、糸脈の荒唐無稽さを説明すると、景山は渋々、御内儀の手を取り、脈を診ることを許した。

 ……悋気か。
 ……やっかいなことになるぞ。
 研水は、佐那の脈を診ながら困惑した。

 悋気。
 早い話が、景山は自分の妻に触れる研水に、嫉妬し、警戒しているのだ。
 診察の場から離れないのも、そのためである。
 ひどい嫉妬は、容易に敵意、殺意に変わる。

 「どうだ?」
 「脈に問題は無いようでございます」
 研水が答えると、景山の悋気に、じわりと怒気が混ざった。

 「問題が無い」ということは、景山の中で、研水は、意味なく、妻の手に触れた男ということになったのだ。
 「問題が無い」という診断結果は、その意味の中に含まれない。

 研水が改めて佐那を見ると、たしかに美しい顔立ちをしていた。
 色が白く、潤むような瞳をしている。
 小作りだが、鼻筋は通り、赤い唇は、ほどよく膨らんでいる。

 ……どうしたものか。
 研水は、弱り切った。

 この後、心臓の音、肺の音を確かめなくてはならない。

 聴診器の原型ともいえる医療具は、この年より一年前、フランスで発明された。
 もちろん、まだ日本には入ってきていない。
 つまり、心臓の音、肺の音を確かめるには、素肌に耳を当てるしかないのだ。

 ……怖い。
 悋気の塊のような景山の前で、佐那の胸に耳を当てれば、斬られる可能性が無いとは言えない。
 こんなことで、斬られたくは無い。
 しかし、医者として、いい加減な診察で終わらせるわけにはいなかった。
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