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ヨハネス・ヨンストン
しおりを挟む「最初、あの化け物の死骸を目の当たりにしたときは、四肢にトラの縞模様が無い、尾の先端はヘビの頭では無いなど、些細な相違はありましたが、話に聞く鵺が実在したのかと驚きました。しかし……」
研水はゆっくりと続けた。
「……今朝、奉行所からの帰路、ふと思い出すものがありました。
そこで、急なことで、ご迷惑とは思いましたが、自宅にも寄らず、先生の元に伺わせてもらったのです」
「……ヨハネス・ヨンストンの禽獣譜か」
玄白は、研水の求めるものを言い当てた。
ヨハネス・ヨンストンとは、ポーランドの博物学者であり、『鳥獣虫魚図譜』を始めとした多くの動物誌、いわゆる動物図鑑を発刊した。
これらは『禽獣譜』、または『禽獣図譜』と呼ばれる。
『禽』は鳥の総称であり、『譜』は物事を系統立てて表した書物のことである。
このような西洋の書物はおそろしく高価で、個人で買える者は少なく、ほとんどが諸藩の経費で購入されていた。
研水は、天真楼の塾生だったころ、玄白に『禽獣譜』の写本を見せてもらったことがある。
奉行所を出たときに、その『禽獣譜』の中に、化け物とよく似た絵があったことを思い出したのだ。
玄白がゆっくりと立ちあがると、部屋の隅の書架を探った。
そして一冊の書を手に取ると、敷居のそばに置き、再び座敷の奥へと下がった。
膝で進んだ研水が、その書を手に取った。
『禽獣譜』であった。
「拝見させていただきます」
研水は頁をめくっていく。
どの頁にも、精密な動物の絵が描かれている。
見たこともない動物の絵が多かった。
ある頁には、甲冑をまとった、猪のごとき動物が描かれている。
この動物は、鼻先に大きな角を持っていた。
塾生時代に玄白から、これはリノセロスという動物だと聞いたことがあった。
海の向こうでは、甲冑を着た動物がいるのかと驚いたものである。
(ライノセロス・Rhinoceros サイ)
背に人を乗せている、ゾウの後ろ姿もあった。
ゾウは、これまでにも何度か日本に来ている。
研水も、実物を見たことは無いが、当時のゾウを描いた、鮮やかな錦絵を目にしたことはある。
近年では、八代将軍吉宗がシャム(現在のタイ)から、つがいのゾウを取り寄せた。
今から89年前のことである。
そのとき、朝廷と幕府を揺るがす事件が起きたと、噂に聞いたことがあるが、どうもはっきりとしたことは伝わってきていない。
馬や犬など、研水のよく知る動物の絵もあった。
しかし、犬といっても、町中で見かけるような犬とは、耳の形や体格が大きく違っているものが、何匹も描かれていた。
上半身が中年の男で下半身が魚という人魚の絵、複数の頭を持つ大蛇の絵もある。
そして、研水はついに目当ての絵を見つけた。
こちらを向く顔は、ヒヒというより人の顔であった。
目が大きく、人間としての知性が感じられる。
頭髪がそのまま首の周辺を覆う長い毛に繋がっている。
体は巨大な猫のようで、尾は上に向かって跳ね上がり、先が二股に分かれていた。
番所で見た化け物に間違いなかった。
「こ、これでございます。
わたしが見た化け物は、この絵の化け物にそっくりでございました」
禽獣譜から顔をあげた研水は、薄闇の奥に座る、玄白に訴える様に言う。
「まんてこあ」
玄白が妙な言葉を発した。
「それは、まんてこあと言う西洋の怪物である。
人語を真似るが、意味を理解してしゃべる訳ではない。
人を喰う習性を持ち、二股に分かれた尾の先端は毒針であると言う」
「西洋の怪物……。
ならば、先生。あれは海を渡ってきたのでしょうか?」
「……違うな。
絶対にないとは言い切れぬが、そうではあるまい」
続く玄白の言葉は、驚くべきものであった。
「なぜなら、わしも若いころ、生きている、まんてこあを見たことがあるのだ」
「こ、この化け物を?」
玄白は、その研水の言葉には答えず、何かを思案するように、しばらく黙り込んだ。
玄白の痩せた顔が厳しい表情をつくる。
「……まんてこあが現れたということは、わしが最も恐れていたことが起こっているのかも知れぬ」
「先生……」
「研水。お前は、定町廻り同心の景山様と親しいというたな」
「親しいというほどではありませぬが……」
「わしは、もはや床を離れる体力が残っておらぬ。
景山様に、この屋敷へきてもらうことはできるか?」
「……分かりました。景山様にうかがってみます」
少し悩んだ末、研水はそう答えた。
玄白の様子からして尋常の事態ではないと感じたのだ。
「手遅れにならぬうちにな」
そう言った玄白は、痰の絡まるような咳をした。
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