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蘭学医と偽薬

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 「ただの腹痛に、関節の痛みよ」
 患者の病名など口にすべきではないと決めていたのに、研水は、つい答えていた。
 しまったと後悔したが、続く六郎の言葉に、研水は少し気を良くした。

 「ああいうものは、蘭学では治りませぬか?」
 ああいうものとは、犬神憑きに死人歩きのことである。
 治まらぬ奇病に対して、自分が学んだ蘭学を頼っているのだ。

 悪い気はしない。

 「さて、どうであろう。
 まずは患者を診てみぬことには、何とも言えぬな」
 研水は正直に答えた。

 「先生の偽薬など、効くのではありませぬか?」
 研水の眉がピクリと硬く跳ね上がった。
 当たり前のように「偽薬」などと口にする六郎に、腹立ちを覚えたのだ。

 しかし、偽薬のことを六郎に教えたのは研水である。
 どう処方をしても疲労が取れない、夜尿が治らない、下痢が止まらないなどという患者に使うことがあるのだ。
 もちろん、偽薬とは言わない。

 「これは、ある御大尽に頼まれて特別に調合した高価な散薬じゃ。
 運の良いことに、御大尽の症状が、お前さんと同じでな……。
 いやいや、礼のことは心配するな。作り過ぎてしまったため、一服だけ余っておるのじゃ。
 日持ちする薬ではないため、明日には捨てねばならぬ。
  薬礼は、手間賃のみで良いわ」

 このようにもったいをつけて飲ませると、これがどういう訳か、たちどころに効く。
 もったいをつければつけるほど、薬効があがるほどであった。

 偽薬は無害なモノならなんでも良い。
 紙を焼いたあとの灰でもいいのだ。

 病気は気からと言われるように、高価な薬を飲んだからには必ず効くはずだと患者自身の思い込み。
 その思い込みが病を治してしまうのである。

 あるとき六郎が、「先生、時折、話に出てくる御大尽とは、どなた様のことですかい? わしゃ見たことがありませんぞ」と言い出したため、研水はやむなく偽薬のことを六郎に教えたのである。

 そのとき話を聞いた六郎は、しばらく考え込むと、とんでも無いことを口にした。
 「なるほど、蘭学を学んだ先生が、その辺りの紙を焼いて灰にすれば、みな、ありがたがって買ってくれるというわけですか。
 ボロい商売ですのう。
 うらやましいことじゃ」

 六郎の言葉に、研水は目を剥いた。
 それは詐欺であって医術ではない。
 このときばかりは六郎を怒鳴りつけ、二度と偽薬のことを口にするなと叱った。

 研水の剣幕に六郎は目を白黒させたが、何を怒っているのかは半分も理解できていないようであった。

 「あのとき、偽薬については、二度と口にするなと命じたことを忘れたか?」
 「偽薬でも、効き目はありませぬか」
 研水が苛立った声で言うと、背後からとんちかんな答えが返ってくる。

 「六郎!」
 研水は立ち止まると振り返った。
 これは厳しく叱責せねばならぬと思ったのだ。

 「お前は少し、医術を軽んじておりはせぬか」
 提灯を持ちあげて六郎の顔を見る。
 灯りに浮かびあがった六郎の顔は怯えていた。

 ほう。
 私も本気で怒れば、なかなか迫力があるのではないかと、研水は思った。
 が、よくよく見れば、六郎の怯えた眼は、自分では無く、自分の肩越しに背後を凝視していることに気がついた。
 不吉なものを感じながら研水は、ゆっくりと振り返り、六郎の視線の先を目で追う。

 研水は総毛立った。
 そこに月明かりに照らされ、異形の者が立っていのだ。

 全身が黒い剛毛に覆われている。
 背骨がいびつな弧を描くように大きく曲がり、繋がった首がグイと前に突き出している。
 その先に鼻面の突き出た顔があった。
 人に似ているが人では無い。
 それは人の姿を真似た大きな山犬にみえた。

 研水の口の中が乾いた。
 噂に聞いた犬神憑きであるとしか思えない。
 犬神憑きが低く唸ると、口吻がめくれあがり、薄桃色の歯肉と野太い牙がぞろりとのぞいた。
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