27 / 408
第26話 初めての酒造り
しおりを挟む 夜明けを待たずに永和宮に皇帝が訪れ、建前上初めてとなる男御子を出産した徳妃と出産にかかわった宮の者たちを労った。満面の笑みを浮かべた柏と侍女たちに迎えられた皇帝は、驚いたように目を見開き、それでいて感慨深げな表情で赤子と対面を果たした。
既に何人か子がいるのでしわくちゃの赤子を見ても動じることもない。ふむふむといいながら赤子の額を撫でている姿は、年齢もあるのだろうが父というより祖父のようにも見えた。
そして後日、皇帝より徳妃と皇子には山のような褒美が下賜されたが、それ以上に宮に届いたのが後宮の妃嬪を通して献上された貴族たちの贈り物だった。
瞬く間に倉や使っていない部屋が贈り物で埋まり、片付けても片付けても後を絶たない数々の贈り物を前にして白狼を含む宮の者は皆呆気にとられるしかなかった。
これが皇子を産んだということか。
滑らかで色とりどりの絹織物、陶器の茶器や食器、螺鈿や象牙がふんだんに用いられた楽器など、どの贈り物も一目見ただけで高級品と分かるものばかりだ。生まれた皇子と徳妃、そして徳妃の実家に対する実に分かりやすい賄賂である。
皇帝の皇子が産まれるということは、本来このように祝われるものなのだろう。実家の力がなく、ひっそりと生まれ性別を偽らなければいけなかった銀月とは雲泥の差だと白狼は苦々しくそれを見ていた。
また、工芸品のほかにも珍しい菓子や高価な茶、果物なども献上されていた。足が早いものについては徳妃が惜しげもなく下女たちに下げ渡し、お菓子をもらった下女たちは大喜びで休み時間に頬張っていた。もちろん白狼もご相伴に預かったのは言うまでもない。
徳妃は侍女たちにも十分に気を配っていた。頂き物の織物や飾りものについては年の順番に下賜しているらしく、出産という一大事を経ても永和宮はおおむね平和であった。
そんな中、周りとは明らかに異なる気配を放っている者がいた。
宦官の柏である。
徳妃が産室に籠ってからの情緒不安定さは側仕えとして心配のあまり、という言い訳もできよう。しかしここ数日の柏の様子は所謂「狂喜乱舞」という言葉がばっちり当てはまるのではないかと白狼は思う。
男御子を得たという喜び、他の妃嬪より一歩抜きんでたという喜びなど、側近が大喜びする要因があるのは分かる。おそらく権力に対する期待も高まっているだろう。それにしてもあからさまだ。
祝杯と称し昼間から酒を飲み、有力貴族からの贈り物を前にしてまるでこの世の春とばかりに始終大笑いをしているのだ。侍女や下女の仕事を差配することなど、すっかり忘れてしまったかのようだ。
そして皇子誕生から数日経ったころのことだった。白狼が相変わらず増え続ける贈り物の片づけを手伝っていると、浴びるように酒を飲んでいた柏が贈り物の山の傍らで潰れているところに鉢合わせた。
潰れた、とは贈り物の山の下敷きになっていたということではない。酒の瓶を片手に泥酔し、竹製の行李を背もたれ代わりにして大いびきをかいていたのだ。
「……ったく、いい気なもんだぜ」
夕餉の支度に忙しい時間で他の侍女があたりに居ないため、ふっと悪態が口をついて出てくる。抱えていた漆器の箱を行李の隙間に納めたいので退いてほしいが起きてくれそうもない。仕方なく、本当に本当に仕方なく、白狼は寝ている宦官をそうっと跨いだ。
そのついでに躓いた風を装って柏の腹を軽く蹴飛ばしてやる。軟禁されてからこっち、憂さ晴らしもままならないのだ。このくらい許されてもいいはずだ。
一回あてた程度では目が覚めないようなので二回、三回と脇腹を蹴っ飛ばすと、ようやく意識が浮上したのだろう。うう、と小さく柏が呻いた。
「起きたか?」
尋ねるが返答はない。くぐもった声で唸る柏は、相当深酒になっているのだろう。つるりとして毛が薄い顔も、その下に続く首まで赤い。鼻を近づけずとも酒のにおいがぷんぷん漂っていた。
「おい、おっさん。んなとこで寝てると風邪ひくぞ」
今この宮で流行り風邪になどに罹患されてはかなわない。抵抗力皆無の赤子と、まだ自力で移動するのも難儀をする産褥期の徳妃がいるのである。
白狼は宦官を蹴る脚に徐々に力を込めていった。何度か繰り返すと、やっと少しだけ柏の目が開いてきた。しかし意識はまだ夢とうつつを彷徨っているようで、瞳の焦点は合わないままだ。
「おっさん。寝るなら自分の部屋に行け。こんなところで寝てられると迷惑なんだよ」
おい、と白狼は丸みのある肩を叩いた。すると柏はその手を乱暴に払いのけると、もう片方の手に持った酒瓶に口を付けて煽った。
「ちょっと、もうやめとけって……」
「うるせえ! 気分よく前祝いやってんだ……! 邪魔するな……」
ぐびり、と柏は喉を鳴らして酒を飲み込む。聞き分けのない酔っ払いは大嫌いだ、と白狼は宦官の手から酒瓶を奪いかけて、そしてふと考えた。
――これ、逃げられるんじゃねえの?
泥酔している柏の意識は朦朧としている。まだ飲み続けているこの状態を放置すれば、またこいつはこのまま眠ってしまうだろう。今は夕刻。もう半刻もしないうちにあたりは暗くなってくる。夕餉の配膳でバタバタしているところで、宵闇に紛れて宮を出てしまえるのではないか。
白狼は酒瓶から手を離した。拘束が解かれた柏は、ここぞとばかりに酒瓶に口をつけ、さかさまにする勢いで中身を煽る。唇の端からつつっと液体が零れているが、本人は気がついてもいない。
逃げよう、と白狼が決心するまで時間はかからなかった。
倉庫に積まれた贈り物の山の中には保存のきく酒もあったのを思い出す。それを取り出し柏の手の届くところに置くと、白狼はそうっと部屋を後にした。
それから一目散に自室へ戻り、暗くなるのを待った。階下では下女たちの配膳をする声がするが、気配を消してじっと待つ。
もう少し暗くなれば、窓から外へ出ても目立ちにくくなる。早く、と焦れながら白狼は待った。しかし、そんなときに限って邪魔が入るものだ。
「白玲……いますか? 話を、聞いてください」
自室の前で、白狼を呼ぶ徳妃の声がしたのだった。
既に何人か子がいるのでしわくちゃの赤子を見ても動じることもない。ふむふむといいながら赤子の額を撫でている姿は、年齢もあるのだろうが父というより祖父のようにも見えた。
そして後日、皇帝より徳妃と皇子には山のような褒美が下賜されたが、それ以上に宮に届いたのが後宮の妃嬪を通して献上された貴族たちの贈り物だった。
瞬く間に倉や使っていない部屋が贈り物で埋まり、片付けても片付けても後を絶たない数々の贈り物を前にして白狼を含む宮の者は皆呆気にとられるしかなかった。
これが皇子を産んだということか。
滑らかで色とりどりの絹織物、陶器の茶器や食器、螺鈿や象牙がふんだんに用いられた楽器など、どの贈り物も一目見ただけで高級品と分かるものばかりだ。生まれた皇子と徳妃、そして徳妃の実家に対する実に分かりやすい賄賂である。
皇帝の皇子が産まれるということは、本来このように祝われるものなのだろう。実家の力がなく、ひっそりと生まれ性別を偽らなければいけなかった銀月とは雲泥の差だと白狼は苦々しくそれを見ていた。
また、工芸品のほかにも珍しい菓子や高価な茶、果物なども献上されていた。足が早いものについては徳妃が惜しげもなく下女たちに下げ渡し、お菓子をもらった下女たちは大喜びで休み時間に頬張っていた。もちろん白狼もご相伴に預かったのは言うまでもない。
徳妃は侍女たちにも十分に気を配っていた。頂き物の織物や飾りものについては年の順番に下賜しているらしく、出産という一大事を経ても永和宮はおおむね平和であった。
そんな中、周りとは明らかに異なる気配を放っている者がいた。
宦官の柏である。
徳妃が産室に籠ってからの情緒不安定さは側仕えとして心配のあまり、という言い訳もできよう。しかしここ数日の柏の様子は所謂「狂喜乱舞」という言葉がばっちり当てはまるのではないかと白狼は思う。
男御子を得たという喜び、他の妃嬪より一歩抜きんでたという喜びなど、側近が大喜びする要因があるのは分かる。おそらく権力に対する期待も高まっているだろう。それにしてもあからさまだ。
祝杯と称し昼間から酒を飲み、有力貴族からの贈り物を前にしてまるでこの世の春とばかりに始終大笑いをしているのだ。侍女や下女の仕事を差配することなど、すっかり忘れてしまったかのようだ。
そして皇子誕生から数日経ったころのことだった。白狼が相変わらず増え続ける贈り物の片づけを手伝っていると、浴びるように酒を飲んでいた柏が贈り物の山の傍らで潰れているところに鉢合わせた。
潰れた、とは贈り物の山の下敷きになっていたということではない。酒の瓶を片手に泥酔し、竹製の行李を背もたれ代わりにして大いびきをかいていたのだ。
「……ったく、いい気なもんだぜ」
夕餉の支度に忙しい時間で他の侍女があたりに居ないため、ふっと悪態が口をついて出てくる。抱えていた漆器の箱を行李の隙間に納めたいので退いてほしいが起きてくれそうもない。仕方なく、本当に本当に仕方なく、白狼は寝ている宦官をそうっと跨いだ。
そのついでに躓いた風を装って柏の腹を軽く蹴飛ばしてやる。軟禁されてからこっち、憂さ晴らしもままならないのだ。このくらい許されてもいいはずだ。
一回あてた程度では目が覚めないようなので二回、三回と脇腹を蹴っ飛ばすと、ようやく意識が浮上したのだろう。うう、と小さく柏が呻いた。
「起きたか?」
尋ねるが返答はない。くぐもった声で唸る柏は、相当深酒になっているのだろう。つるりとして毛が薄い顔も、その下に続く首まで赤い。鼻を近づけずとも酒のにおいがぷんぷん漂っていた。
「おい、おっさん。んなとこで寝てると風邪ひくぞ」
今この宮で流行り風邪になどに罹患されてはかなわない。抵抗力皆無の赤子と、まだ自力で移動するのも難儀をする産褥期の徳妃がいるのである。
白狼は宦官を蹴る脚に徐々に力を込めていった。何度か繰り返すと、やっと少しだけ柏の目が開いてきた。しかし意識はまだ夢とうつつを彷徨っているようで、瞳の焦点は合わないままだ。
「おっさん。寝るなら自分の部屋に行け。こんなところで寝てられると迷惑なんだよ」
おい、と白狼は丸みのある肩を叩いた。すると柏はその手を乱暴に払いのけると、もう片方の手に持った酒瓶に口を付けて煽った。
「ちょっと、もうやめとけって……」
「うるせえ! 気分よく前祝いやってんだ……! 邪魔するな……」
ぐびり、と柏は喉を鳴らして酒を飲み込む。聞き分けのない酔っ払いは大嫌いだ、と白狼は宦官の手から酒瓶を奪いかけて、そしてふと考えた。
――これ、逃げられるんじゃねえの?
泥酔している柏の意識は朦朧としている。まだ飲み続けているこの状態を放置すれば、またこいつはこのまま眠ってしまうだろう。今は夕刻。もう半刻もしないうちにあたりは暗くなってくる。夕餉の配膳でバタバタしているところで、宵闇に紛れて宮を出てしまえるのではないか。
白狼は酒瓶から手を離した。拘束が解かれた柏は、ここぞとばかりに酒瓶に口をつけ、さかさまにする勢いで中身を煽る。唇の端からつつっと液体が零れているが、本人は気がついてもいない。
逃げよう、と白狼が決心するまで時間はかからなかった。
倉庫に積まれた贈り物の山の中には保存のきく酒もあったのを思い出す。それを取り出し柏の手の届くところに置くと、白狼はそうっと部屋を後にした。
それから一目散に自室へ戻り、暗くなるのを待った。階下では下女たちの配膳をする声がするが、気配を消してじっと待つ。
もう少し暗くなれば、窓から外へ出ても目立ちにくくなる。早く、と焦れながら白狼は待った。しかし、そんなときに限って邪魔が入るものだ。
「白玲……いますか? 話を、聞いてください」
自室の前で、白狼を呼ぶ徳妃の声がしたのだった。
60
お気に入りに追加
2,660
あなたにおすすめの小説

記憶喪失の異世界転生者を拾いました
町島航太
ファンタジー
深淵から漏れる生物にとって猛毒である瘴気によって草木は枯れ果て、生物は病に侵され、魔物が這い出る災厄の時代。
浄化の神の神殿に仕える瘴気の影響を受けない浄化の騎士のガルは女神に誘われて瘴気を止める旅へと出る。
近くにあるエルフの里を目指して森を歩いていると、土に埋もれた記憶喪失の転生者トキと出会う。
彼女は瘴気を吸収する特異体質の持ち主だった。

積みかけアラフォーOL、公爵令嬢に転生したのでやりたいことをやって好きに生きる!
ぽらいと
ファンタジー
アラフォー、バツ2派遣OLが公爵令嬢に転生したので、やりたいことを好きなようにやって過ごす、というほのぼの系の話。
悪役等は一切出てこない、優しい世界のお話です。
異世界転生~チート魔法でスローライフ
玲央
ファンタジー
【あらすじ⠀】都会で産まれ育ち、学生時代を過ごし 社会人になって早20年。
43歳になった主人公。趣味はアニメや漫画、スポーツ等 多岐に渡る。
その中でも最近嵌ってるのは「ソロキャンプ」
大型連休を利用して、
穴場スポットへやってきた!
テントを建て、BBQコンロに
テーブル等用意して……。
近くの川まで散歩しに来たら、
何やら動物か?の気配が……
木の影からこっそり覗くとそこには……
キラキラと光注ぐように発光した
「え!オオカミ!」
3メートルはありそうな巨大なオオカミが!!
急いでテントまで戻ってくると
「え!ここどこだ??」
都会の生活に疲れた主人公が、
異世界へ転生して 冒険者になって
魔物を倒したり、現代知識で商売したり…… 。
恋愛は多分ありません。
基本スローライフを目指してます(笑)
※挿絵有りますが、自作です。
無断転載はしてません。
イラストは、あくまで私のイメージです
※当初恋愛無しで進めようと書いていましたが
少し趣向を変えて、
若干ですが恋愛有りになります。
※カクヨム、なろうでも公開しています

少し冷めた村人少年の冒険記
mizuno sei
ファンタジー
辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。
トーマの家は貧しい農家で、神から授かった能力も、村の人たちからは「はずれギフト」とさげすまれるわけの分からないものだった。
優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。
ボッチになった僕がうっかり寄り道してダンジョンに入った結果
安佐ゆう
ファンタジー
第一の人生で心残りがあった者は、異世界に転生して未練を解消する。
そこは「第二の人生」と呼ばれる世界。
煩わしい人間関係から遠ざかり、のんびり過ごしたいと願う少年コイル。
学校を卒業したのち、とりあえず幼馴染たちとパーティーを組んで冒険者になる。だが、コイルのもつギフトが原因で、幼馴染たちのパーティーから追い出されてしまう。
ボッチになったコイルだったが、これ幸いと本来の目的「のんびり自給自足」を果たすため、町を出るのだった。
ロバのポックルとのんびり二人旅。ゴールと決めた森の傍まで来て、何気なくフラっとダンジョンに立ち寄った。そこでコイルを待つ運命は……
基本的には、ほのぼのです。
設定を間違えなければ、毎日12時、18時、22時に更新の予定です。

荷物持ちだけど最強です、空間魔法でラクラク発明
まったりー
ファンタジー
主人公はダンジョンに向かう冒険者の荷物を持つポーターと言う職業、その職業に必須の収納魔法を持っていないことで悲惨な毎日を過ごしていました。
そんなある時仕事中に前世の記憶がよみがえり、ステータスを確認するとユニークスキルを持っていました。
その中に前世で好きだったゲームに似た空間魔法があり街づくりを始めます、そしてそこから人生が思わぬ方向に変わります。

~クラス召喚~ 経験豊富な俺は1人で歩みます
無味無臭
ファンタジー
久しぶりに異世界転生を体験した。だけど周りはビギナーばかり。これでは俺が巻き込まれて死んでしまう。自称プロフェッショナルな俺はそれがイヤで他の奴と離れて生活を送る事にした。天使には魔王を討伐しろ言われたけど、それは面倒なので止めておきます。私はゆっくりのんびり異世界生活を送りたいのです。たまには自分の好きな人生をお願いします。
転生したら脳筋魔法使い男爵の子供だった。見渡す限り荒野の領地でスローライフを目指します。
克全
ファンタジー
「第3回次世代ファンタジーカップ」参加作。面白いと感じましたらお気に入り登録と感想をくださると作者の励みになります!
辺境も辺境、水一滴手に入れるのも大変なマクネイア男爵家生まれた待望の男子には、誰にも言えない秘密があった。それは前世の記憶がある事だった。姉四人に続いてようやく生まれた嫡男フェルディナンドは、この世界の常識だった『魔法の才能は遺伝しない』を覆す存在だった。だが、五〇年戦争で大活躍したマクネイア男爵インマヌエルは、敵対していた旧教徒から怨敵扱いされ、味方だった新教徒達からも畏れられ、炎竜が砂漠にしてしまったと言う伝説がある地に押し込められたいた。そんな父親達を救うべく、前世の知識と魔法を駆使するのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる