花浮舟 ―祷―

那須たつみ

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最終幕

英傑

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「其方、名は何と申す」

 突然話しかけられ、蘇芳は肩を揺らす。宵君の声が、あまりに想像と違っていた為だ。恐ろしい雷鳴のような濁った声か、無茶な戦にれた声。どれとも違う、深く澄んでいて、心根に抱擁を施されるような甘い声だった。

 ――確かに、これは光だ。

「蘇芳。姓はない」

「そうか、蘇芳。しかし其方はじきに姓を手に入れるぞ」

 ふふ、と笑い声が聞こえた。どういう意味だ。聞き返すより早く、身体が反応していた。宵君が振るった太刀を防いだ両手が、じんじんと痺れる。酷い音を立てながら、刃同士の接触で火花が散った。

「ん?」

「……ほう」

 二人が声を上げたのは同時だった。蘇芳は宵君の刀を、宵君は蘇芳の刀をまじまじと眺める。特に蘇芳は、ここが戦場であることを忘れているかのような、無邪気な目つきをしていた。

「その大太刀……其方が持っていたのか」

「驚いたな、よもや嘉阮の将がこの愛刀の片割れの持ち主とは」

 突然強い力で押し返され、蘇芳は跨った白馬ごと弾かれる。瞬蘭しゅんらん、と心配して声をかけたが、真っ白な毛並みの牝馬は何とか体勢を持ち直した。

「この二振りは俺の祖国、翁庵おうなんの一流職人が打った傑作だ。だが、これほどの重さの刀を二刀流で扱えるような膂力の人間は存在せぬ。ゆえに、別々の品として世に出されたと聞く」

「ほう、其方、翁庵の生まれか。私はこの丹桂を父君より賜ったが、えて片割れは職人の元に残して来たと。こうして生きておる間にあいまみえるとは」

 先ほどまで一太刀で人間を両断していた宵君の一撃が、蘇芳には全て捌かれている。また、蘇芳の振るう刃も、宵君に届くことはなかった。蘇芳は眼を細め、宵君の左腕に狙いを定める。

「……!」

 宵君が息を呑んだ。蘇芳の方は、初めてこの強敵に傷を負わせた喜びよりも先に、宵君の背後を狙って鉄砲の弾を放った兵に怒りのまま怒号を飛ばす。

「何をしている! 俺の面を汚す気か!」

 宵君が背へ回した丹桂の刃によって銃弾は防がれたが、その代わりに。

「……」

 どん、と鈍い鉄の色の籠手こてが嵌められた腕が、地に落ちる。雑兵達はそれを呆然と眺めていたが、やがて一斉に斬り落とされた宵君の左腕に群がった。

「触るな!」

 びりびりと鼓膜を揺らす怒声に、一同はびくりと身を固める。額に青筋を浮き立たせ、蘇芳は味方の兵に酷い憎悪の眼を向けた。

「それはお前達が汚い手で触れて良いものではない」

 慌てて引き下がる歩兵達を横目に、甲冑の紐を解いて傷口を縛る宵君に向き直る。

「呻き声ひとつ上げぬとは、さすがは沖去の月詠の君だな」

 口にした後で、宵君の仮面の裏、顎から血液が滴っているのに気づく。まさか銃弾が当たったのかと思ったが、そうではないらしい。じとりと滲んだ汗が不快なのか、宵君は顔を覆っていた陶器を投げ捨てた。

「……痛みを感じるのか」

 眉間に皺を寄せて強く唇を噛み、そこから絶え間なく血を流す宵君を見て、蘇芳は心底驚いた声を発する。当然であろう、と答えた声は震えていた。

「腕を落とされて痛まぬ人間が居るか」

「……それもそうだ」

 打ち合い始めて僅か半刻ほどであるが、蘇芳は宵君が人であるということを失念していた。それほど、宵君の太刀は重く、近づくたび胸を押し潰すおそれと敬意の念は深かった。しかし蘇芳は苦い心境で居た。

「実力で落としたかったものだ、その高貴な腕は」

「まだ右腕があるではないか」

 薄く笑う宵君に、蘇芳は眼を見開く。頬の引き攣った微笑に、言葉を返そうとした。が、宵君の刃がそれを許さなかった。

「将軍!」

 迷いなく振るわれた刃の切っ先が蘇芳の右目を抉り、頬を切り裂く。咄嗟にそこを手で覆ったが、宵君の猛攻は止まなかった。決して浅くはない傷が身体に刻まれ続けるのを、耐えることしかできない。

 ――もう片腕に慣れたのか。やはり化け物だ。

 一方の蘇芳は、潰された右目と激痛に霞む視界に慣れず、ただ丹桂の刃を受け続けた。しばらく耐えていると、二重に滲んだその刀身が一つに重なる。不明瞭な輪郭を捉えかけ、蘇芳が太刀を振るった時、右方から複数の銃声が轟いた。目の前で飛沫が散る。

「蘇芳将軍! ご無事ですか!」

 宵君の身体が傾いた。土に、ぼたぼたと滴る赤黒い液体に混じり、はらりと黒髪が散る。唇を真紅が濡らし、見開かれたままの眼がかげった。二度目の銃声。

「やめよ……」

 怒りに拳が震える。蘇芳の声も聴かず、三度目の破裂音が鳴り響いた。

「やめぬか! この下郎どもが!」

 瞬蘭の腿を蹴り、蘇芳は鉄砲隊と宵君との間に立ち塞がる。そうしてようやく、撃ち方止め、と指令を叫ぶ声がした。蘇芳はきつく瞼を閉じたまま、背後を振り返ることができなかった。確か、右方の鉄砲隊の横列は、十五人ずつ並べていたはず。それが三度入れ替わり、銃撃を続けたのでは、もう。

「……其方のような将は、嘉阮には似合わぬ」

 蘇芳は耳を疑った。確かに今、宵君が笑ったのだ。振り返ると、馬上で果てたはずの宵君の腿にぐ、と力が入っているのが見え、次にはその身体が元のように凛と蘇る。

「なっ……」

「何だ? 火縄如きで私が果てたとでも思うたか。……しかしまぁ、あのような者どもこそが、この国の性質よ。それも間違いではない。其方を消耗させる前に私を仕留めねばとの判断は賢明であるぞ。あまり怒鳴りつけてやるな」

「宵君、其方……」

 蘇芳の言葉は遮られた。沖去軍の方角から、闇を裂いて沖去の将の怒号が届いたのだ。

「沖去軍、右方より全軍出陣! 我らが君はお討死なされた! 下劣なる嘉阮人により陛下はお討死なされたのだ! 京宵様に続き、全軍、嘉阮の外道どもを殲滅せんめつせよ!」

 ほどなく、肌を刺す地鳴り、それ以上の熱気、嘆き、怨念。それらが全て濁流となって、嘉阮軍に迫っていた。当の宵君は、深紅の体液を吐き棄て、威勢の良いことよのう、などと笑う。

「来るぞ! 打ち払え!」

 慌てて構える雑兵達の目にも、その姿は最早十万の軍には見えなかった。蘇芳は宵君を見る。その横顔は血の気が失せ、元より色白の肌からは生気が抜けている。

 なぜ頽れぬのか、なぜ落馬せぬのか不思議なほどであった。そうしてその下を見下ろし、蘇芳は呼吸が止まった。宵君の生命力にばかり驚いていたが、何も銃弾を浴びたのは宵君だけではなかったのだ。

「お前……なぜ立っていられる」

 この時、月香は既に事切れていた。




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