花浮舟 ―祷―

那須たつみ

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最終幕

薄紅

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 嘉阮との戦を控え、御所内裏だいりは昼夜慌ただしく、肌を刺すほど空気が張り詰めていた。誰もが、これまでにないほど苛烈な戦になると予感している。

 侵略者を退ける防衛戦では、敵軍を退かせれば勝利であった。しかしこれは掃討戦である。死に物狂いで主を守るべく奮戦する大軍勢を抜き、皇帝の首を刎ねねば終わらない。

 そのような緊張の中で、美瞳が御所のいおりから抜け出すことは容易かった。

 宵君の寝所である御常御殿おつねごてん、軍議の席となる紫楽殿しらくでんなどは鼠一匹出入りを許さぬ警備が敷かれているが、その分美瞳に宛がわれた庵は手薄である。夕餉を持った侍女が扉を開けるまで、誰も美瞳の失踪に気づくことはなかった。

官吏かんり様、西鳥様がおられません」

 跪くようという侍女に舌を打ち、高燕こうえんは眉間に皺を寄せる。大切な軍議のさなかに呼ばれて来てみれば、元より素性の知れぬ女が姿を消しただけだという。

「捨て置け。そんなことで呼ぶな」

「しかし、西鳥様は陛下が御自らお連れになった方ですので、陛下にお知らせせねばと……」

「陛下はそれどころではない。籠の鳥が逃げたから何だというのだ」

「待て」

 高燕に不機嫌に睨まれ、葉は身を固め引き下がろうとした。しかしそれを留めたのは、合戦の布陣を講じる喧騒を通り抜けるほど、凛とした宵君の声であった。紫楽殿は静まり、西の扉で問答していた高燕と葉に一同の視線が集まる。

青鳥せいちょうがおらぬと申したか」

「あ、は、はい……」

 葉は宵君と直接口を利いても良いのか迷ったが、隻眼の視線に促され、頷く。そうか、と視線を盤上に戻し「いつ頃それに気づいた」と絵地図の駒を動かしながら問われ、葉は戸惑いながら高燕を見上げた。

「……陛下が問われているのだから、許す。お答えせよ」

 ありがとうございます、と頭を下げ、葉は夕餉の刻に外から声をかけても返事がないことを不審に思い、無礼を承知で中を覗いたところ、何処にも姿がなかったことを伝える。

「申し訳ございません、陛下。西鳥様のお世話を仰せつかっておりながら、このような……如何なる裁きも覚悟しております」

「良い良い。高燕のいうように些事さじよ」

「では……」

「捜して参るゆえ、皆しばし休むが良い。日の高いうちから此処に詰めておる者も居よう」

「は?」

 月香を下へ、と命じ、武装もせずに御所を出ようとする宵君の前に、慌てて高官達がお待ち下さい、と跪いた。

「連れ戻すのであれば、衛兵にお申し付け下さいませ」

「ならぬ。乱暴に扱うだろう」

「ではせめて、我々をお連れ下さいませ」

「それもならぬ」

 あれは反抗的な小鳥ぞ。あれが私を睨みでもしようものなら、其方らは槍の柄で青鳥の頬や肋骨を砕きかねん。その気がなくとも、私に対し不敬であると感じれば、次には体がそのように反応する。

「ゆえに、忠義深い其方らを伴うことはできぬ。平生なら褒めて遣わすべきことなれど、それを青鳥相手に発揮されては困るのだ」

 図星を突かれ、誰も一言も発せなくなってしまった。その肩の間をすり抜け、宵君は軽薄に笑う。

「案ずるな。私を誰と心得る。月香と『丹桂たんけい』があれば何も憂いはない」

 うまやから月香を伴い現れた役人が、恐る恐る手綱を宵君へ渡した。その背に跨り、愛刀の『丹桂』を携えたのみの軽装で、宵君は本当に一人きりで去ってしまった。呆然と立ち尽くしたまま、面々は血の気の引いた顔を見合わせる。

「将軍に叱られるぞ……」

「しかし、陛下のお怒りを買う方が恐ろしい」

 門番が無残に葬られた報せを受けた時の、宵君の形相を思い起こす。あれには味方の高官達ですら、夢にうなされそうなほど恐ろしい思いをした。ゆえに、誰もが冷たい床に両足を縫い留められたように、一歩もその背を追うことができなかった。



 夜闇に色の抜けた髪と上等な衣はよく目立つ。野盗の眼に留まらぬよう、与えられた簪も櫛もすべて置いて来たし、できる限り質素な着物を選んだつもりだが。宵君が与える品は質が良過ぎる。金目のものにさとい盗賊には、それはすぐに見破られてしまった。

 ――どうせこうなるなら、命の代わりに差し出す品を持って来た方がよかったか。

 下卑げひた笑みを浮かべる汗臭い男達の顔を眺めながら、美瞳は内心で溜息を吐く。庵では葉が上等な香を焚き――大抵、本日の陛下の香は恐らくこれでした、と嬉しそうに焚くので、複雑な心境を明かせず苦笑いを返していたが――かぐわしい茶を淹れるので、久しく悪臭というものを嗅いでいなかった。

「何だ、辛気臭ぇ髪の色だが、顔のつくりは上物じゃねぇか。こいつは、そこそこ値が付くぜ」

「着てるモンも随分良い生地だな。どこのおひいさんだい」

 服を脱いで渡せばいいのだろうか。股を開いて使わせてやればいいのだろうか。どうしたらこの男達は満足し、去って行くのだろう。美瞳は思考しながら、己の帯に手をかける。

 どうすれば機嫌を良くして放っておいてくれるか、分かり易い男は美瞳にとって厄介ではなかった。その通りにしてやれば、満足する。少し礼儀を知らず、股の具合の悪いふりをすれば、いずれは飽きて嵐のように去ってくれる。寄る辺ないこの身を一人にしてくれる。


 刹那、ぱたた、と頬に生暖かい水がかかり、顔を上げる。そこを見上げれば、あの厭らしい笑みはなかった。首から上が消し飛んだ身体が三つ、ゆらゆらと揺れている。噴き出す鮮血に全身が汚れる前に、紙一重で浮遊した。腹に腕を回され、馬上に引き上げられたのだと気づく。

 この時、鼻腔をくすぐったのがそこらの香油か、衣を洗う石鹸のものであったなら、正義感の強い公家の高官に助けられたのかと納得しただろう。

「すまぬ。少しかかったか」

 頬を拭う絹の袖も、胸焼けしそうなほど甘ったるい高級な香木の匂いも、美瞳は知っている。そして、肩を震わせて笑う声も手綱を握る白い腕も、この男だけが、唯一美瞳の憎悪を誘う。全身が粟立ち、反射的にその胸を拳で押し退けるが、容易く肩を抱き寄せられてしまった。それほど力は籠っていない。

「月香は背が高い。暴れて落馬しては、喪神している間に私から介抱されてしまうぞ」

 その方が耐え難いのではないか。笑う男の声に、時折異音が混じる。黙って大人しくしていると、宵君は幼子に唄でも聴かせるように静かに他愛もないことを話し続けた。

 やがてそこに紛れ込んだ耳障りな異音が、傷んだ肺の悲鳴であると気づいた。肩を支える手が、ずるりと落ちる。腕に当たる体温が揺らいで、主の異変に気付いた馬は驚いたように嘶き、咄嗟に姿勢を低く落とした。

「……!」

 意識のない宵君の身体が地面に打ち捨てられる前に、月香は鼻でそれを受け止める。人間の従者が腕で主を支えるように、そろりと慎重にその身を横たえた。呼吸が異常だった、恐らく不調と疲弊が重なっていて、限界を迎えたのだろう。気が抜けた、というのも正しい。

「……」

 突然がくりと膝をかがめられたせいで、美瞳は巻き添えで振り落とされたが、傷を負うほどではない。足も問題なく動く。
 都合がいい、このまま逃亡を遂げてしまおうか。どうせこの男は、放っておいてもすぐに衛兵が血相を変えて迎えに来るのだろう。それが間に合わず事切れたところで、美瞳の知ったことではなかった。むしろこの場に留まっていた方が、あらぬ疑いをかけられかねない。そんなのはごめんだ。

「――……、――――……」

 ピクリとも動かない宵君に背を向けた美瞳の足を止めたのは、月香の寂しそうな鳴き声であった。主の傍へ座り込み、頬に鼻先を寄せてはおろおろと周囲を見渡す。強引に背に乗せ、京へ戻るべきか。しかし、自分の力で乱暴に扱っては、主の容態が悪化してしまうかもしれない。月香は迷っていた。

 彼は聡明で、長く人間の傍に仕え、その感情の機微きびを感じることにも敏い。美瞳が宵君を助けないことを分かっているのだろう。だから、自力で己が主を救う方法を、必死に考えている。

「……あんなことをしたら貴方の足が折れてしまうよ」

 背を撫でる美瞳の手に驚き、月香は立ち上がった。この人間は主上を救わないはずだ。ならば何の用なのだろう。戸惑う月香に苦い笑みを向け、美瞳は宵君の腕を持ち上げ、自分の肩に回す。

「一度だけ、貴方の為にこの人を助けてあげる」

 そんな声で鳴く貴方を放ってはおけないから。念を押す美瞳の言葉を理解したのか、川辺を目指す美瞳の足取りを時折鼻で支えながら、月香はその後を着いて行った。




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