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第五幕
色褪
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桃の蕾が綻び、絹雲に薄く陽の光が和らげられる昼頃、幻驢芭の家紋を掲げた牛車が青桐邸の門扉に寄り添った。付き人に傅かれ、広間の上座を明け渡された男は長い黒髪を肩から払いのける。
真新しい襖が引かれ、その人が畳を踏めば、今は亡き鯨一郎の嫡男である鯨仙と、その弟達が頭を下げ、紺の足袋が正面で立ち止まるのを眺めた。
「面を上げよ」
凛と通る声が掛かり、鯨仙は初めてその人を見る。父を葬った太刀の主であり、この京のただひとつの陽となる男。
その、嫡男である。
「御門となった宵君より、幻驢芭の家督を譲り受けた。京宵と申す」
「当主自らご足労頂き、ありがたきことにございます」
再び顔を下げる鯨仙に、細く吊り上がった目を伏せ、京宵は桜の細工が施された扇子を広げた。
「……あぁ、良い。心にもない方便は好かぬ」
脇息に凭れ、視線を付き人へ送る。その手が差し出した棺物が放つ異臭に、当主となった鯨仙の後ろに控えていた女房どもは唇を噛んだ。
「陽が温まる季節柄、如何してもこうなる。許してはくれぬか」
薄ら寒い笑みを浮かべる口元に扇子の桜が重なる。鯨仙は、それきり京宵に何か問われぬ限り口を噤んだ。そうだ、と声を上げ、京宵は畳んだ扇子で手のひらを打つ。
「時に鯨仙。美瞳という室は居るか」
「……は、居りますが」
「ここへ通せ」
京宵の言葉に一同は驚いたが、しばしの逡巡の後、鯨仙は家臣の耳元へ「美瞳をこれへ」と囁いた。
沈黙を数えていると、引き摺られるようにしてかつての傾城が現れた。老婆の如く髪の色が抜けきり、窶れている。
「待て待て、何だその罪人のような扱いは。手を離してやれ」
戸惑いながら家臣が手を離すと、美瞳は緩慢に二、三歩程進み、女房どもの側へ控える。最も京宵から遠い席で三つ指をつくので、京宵は否、と笑い、自身の目の前の畳を扇子で示した。
「しかし京宵殿」
「私が呼んでおるのだ。いかなる身分であろうとこの京宵の前へ座らせぬか」
「……御意」
鯨仙をはじめ、広間の全ての視線に刺されながら美瞳は京宵の前に傅く。その顎を掬い、瞳を覗き見た京宵は「はて」と首を傾げ、やがて哀れむように微笑した。
「我が君と同じ美しい清水のような瞳をしておると聞き及んでいたが、これでは火鉢の灰ではないか。美しい瞳という名なれば、今の其方は誰なのだ?」
柔らかく手を放し、下がって良い、と京宵は目を伏せる。美瞳の背を見送りながら、日頃その身の上を疎む鯨仙でさえも、なんと残酷な方だろうか、と思わず美瞳を不憫に思った。
「……さて、何も私はただ単に美瞳を苛めに来たのではない。我が君は此度の戦の沙汰について、敵方に加勢した青桐家には次男、鯨陽とその妻子を人質に御所へ寄越すことのほか、お咎めなしと仰せである」
鯨仙は驚いた。確かに公主を味方に迎えていたのは西軍だったが、戦には敗けたのだ。その上、主上である暁光に対し謀反を起こした洸清に加勢した咎は、何処へ行ってしまったというのか。
――宵君と父上との生前のよしみ故、忖度があったとでもいうのか。
訝しむ鯨仙の様子に笑い声を漏らし、京宵は「では、用は済んだのでお暇する」と緩く腰を上げた。
庭を抜け、牛車の前に立ち止まった京宵は、宵君の面影を賜ることが出来なかった目を細める。臙脂の鞘に収まる懐刀を手に、見送りに従った家臣の奥に佇む鯨仙を手招いた。
「我が君はよしみや家柄などで民を差別せぬ。あの方の前では、公家も武家も等しく民よ」
亰宵の「手を出せ」という言葉に従い、不思議そうに差し出された鯨仙の両手を眺める。日に焼けた右の手首を掴まえると、京宵はその手のひらに白い刃を押し当て、深く刃を引いた。
「つっ……」
「兄上!」
驚いて身を乗り出す弟達を視線で諫め、ゆっくりと鯨仙の手を解放する。刻まれた赤い筋から鉄の液が溢れ出し、砂利に落ちた。
「あの方の前では公家も武家も等しく民である。……それでも尚、我が君が敢えて其方らを赦された意味を、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
「……御意」
鯨仙の返事に京宵は静かに頷く。刃を濡らす血を門扉に塗り付け、京宵は青桐邸を去った。
真新しい襖が引かれ、その人が畳を踏めば、今は亡き鯨一郎の嫡男である鯨仙と、その弟達が頭を下げ、紺の足袋が正面で立ち止まるのを眺めた。
「面を上げよ」
凛と通る声が掛かり、鯨仙は初めてその人を見る。父を葬った太刀の主であり、この京のただひとつの陽となる男。
その、嫡男である。
「御門となった宵君より、幻驢芭の家督を譲り受けた。京宵と申す」
「当主自らご足労頂き、ありがたきことにございます」
再び顔を下げる鯨仙に、細く吊り上がった目を伏せ、京宵は桜の細工が施された扇子を広げた。
「……あぁ、良い。心にもない方便は好かぬ」
脇息に凭れ、視線を付き人へ送る。その手が差し出した棺物が放つ異臭に、当主となった鯨仙の後ろに控えていた女房どもは唇を噛んだ。
「陽が温まる季節柄、如何してもこうなる。許してはくれぬか」
薄ら寒い笑みを浮かべる口元に扇子の桜が重なる。鯨仙は、それきり京宵に何か問われぬ限り口を噤んだ。そうだ、と声を上げ、京宵は畳んだ扇子で手のひらを打つ。
「時に鯨仙。美瞳という室は居るか」
「……は、居りますが」
「ここへ通せ」
京宵の言葉に一同は驚いたが、しばしの逡巡の後、鯨仙は家臣の耳元へ「美瞳をこれへ」と囁いた。
沈黙を数えていると、引き摺られるようにしてかつての傾城が現れた。老婆の如く髪の色が抜けきり、窶れている。
「待て待て、何だその罪人のような扱いは。手を離してやれ」
戸惑いながら家臣が手を離すと、美瞳は緩慢に二、三歩程進み、女房どもの側へ控える。最も京宵から遠い席で三つ指をつくので、京宵は否、と笑い、自身の目の前の畳を扇子で示した。
「しかし京宵殿」
「私が呼んでおるのだ。いかなる身分であろうとこの京宵の前へ座らせぬか」
「……御意」
鯨仙をはじめ、広間の全ての視線に刺されながら美瞳は京宵の前に傅く。その顎を掬い、瞳を覗き見た京宵は「はて」と首を傾げ、やがて哀れむように微笑した。
「我が君と同じ美しい清水のような瞳をしておると聞き及んでいたが、これでは火鉢の灰ではないか。美しい瞳という名なれば、今の其方は誰なのだ?」
柔らかく手を放し、下がって良い、と京宵は目を伏せる。美瞳の背を見送りながら、日頃その身の上を疎む鯨仙でさえも、なんと残酷な方だろうか、と思わず美瞳を不憫に思った。
「……さて、何も私はただ単に美瞳を苛めに来たのではない。我が君は此度の戦の沙汰について、敵方に加勢した青桐家には次男、鯨陽とその妻子を人質に御所へ寄越すことのほか、お咎めなしと仰せである」
鯨仙は驚いた。確かに公主を味方に迎えていたのは西軍だったが、戦には敗けたのだ。その上、主上である暁光に対し謀反を起こした洸清に加勢した咎は、何処へ行ってしまったというのか。
――宵君と父上との生前のよしみ故、忖度があったとでもいうのか。
訝しむ鯨仙の様子に笑い声を漏らし、京宵は「では、用は済んだのでお暇する」と緩く腰を上げた。
庭を抜け、牛車の前に立ち止まった京宵は、宵君の面影を賜ることが出来なかった目を細める。臙脂の鞘に収まる懐刀を手に、見送りに従った家臣の奥に佇む鯨仙を手招いた。
「我が君はよしみや家柄などで民を差別せぬ。あの方の前では、公家も武家も等しく民よ」
亰宵の「手を出せ」という言葉に従い、不思議そうに差し出された鯨仙の両手を眺める。日に焼けた右の手首を掴まえると、京宵はその手のひらに白い刃を押し当て、深く刃を引いた。
「つっ……」
「兄上!」
驚いて身を乗り出す弟達を視線で諫め、ゆっくりと鯨仙の手を解放する。刻まれた赤い筋から鉄の液が溢れ出し、砂利に落ちた。
「あの方の前では公家も武家も等しく民である。……それでも尚、我が君が敢えて其方らを赦された意味を、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
「……御意」
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