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第三幕
一陣
しおりを挟む――如月朔日、時は戌の刻。
篝火が灯る野原に八つの布陣が敷かれた。うち隣国、嘉阮を背にした高野と、対峙する山の尾根に本陣が構えられ、幻驢芭方を東軍、公主方を西軍に据え戦を迎えようとしている。
張り詰めた風が京を吹き抜けた。幾万の兵の向こうから洸清のもとへ瞬く間に駆けてきたのは、普段の軽装ではなく、くろがねの鎧を身に纏ったシジミだった。さっと虎牙が洸清を背に庇うが、彼女は跪き、ただ一言、口を開く。
「……最後だ」
誰もがその意図を理解した。幻驢芭方からの、まことに従う気はないかとの最後の問い。これに洸清が「否」と答えれば最早。皆が固唾を飲む。今生初めての重荷に、歯を食い縛り地を踏みしめてしなければ潰されてしまいそうだ。
――今、引き返せば。
過ぎる囁きを振り払い、洸清はシジミの目を見据える。この鋭い光も、最早敵なのだ。
「私は兄上達の行いを許すわけにはいかぬ。幻驢芭方の思想は公主殿下への謀反と捉えた。皇家をお護りすべく在る両家ならば、次代御門に成り代わるなどという宵殿にお味方は出来ぬ」
虎牙が小さく頷く。シジミに視線を戻せば、平生無愛想に引き結ばれた唇が寂しげに弧を描いた。
「……そうか」
彼女が跳び去ると同時に、臓腑を震わせる開戦の音色が大地を揺すった。
小隊を統べる騎馬兵の怒号に扇動され、駆け出す足軽達を見下ろしながら、暁光は固く目蓋を閉じた。
聴こえる。鋼の触れ合う音と短い呻き声。人馬の足音、雄叫びと嘶き。幾度も経験した戦場が、こんなにも悲しみに満ちている。
「目を逸らすな」
隣から降る声に肩が揺れた。思わずそちらを見やれば、宵君は仮面を手のひらに収め、炎の揺らぎを目に映している。
「先の戦で手を携え、共に勝利を讃えた者同士が、斬り合い、死に行く様を見ろ。失われる命から目を逸らすな」
「……は」
夜闇の中に松明の火が燃え広がり、鉄錆と硝煙の臭いが風で舞い上がった。宵君の手から墮速が仮面を受け取る。宵君は温度のない目差しを蠢く平原に注いだまま、両の手を胸の前で緩く合わせた。淀む風が凪いで、長い黒髪が漂う。
――己が命で贖うわけにもいかぬゆえ。
「……上様」
その様は、ある者には神聖に、ある者には慈愛深く映り、この方こそがまことの御門であられる、と誰のものとも分からぬ呟きが零れ落ちる。近衛兵の錦旗を前に崩されかけた兵の士気は、瞬く間に烈火の如く勢いを取り戻した。
西軍本陣。まるで、そこだけ日が昇っているかのように燃える戦場を見つめたまま、虎牙、と呼びかければ、青竹色の掛布が手渡される。洸清の身の丈からはみ出すほどに長大な、真っ直ぐに伸びた柄。
「虎牙、着いて来られるか」
紐を解き、滑らかな布を取り払えば、刃が十文字を象った槍が炎を照り返す。静かに佇んだ馬に跨り、洸清は首の勾玉を引き千切った。
「……もちろん、どこまでも」
バラバラと草に転がる赤は、夜闇に紛れて消えて行く。馬の腿を蹴り、洸清は戦場を迂回することもなく、真っ直ぐに東軍の本陣を目指した。追従する虎牙の手には、いつの間にやら暗器があり、洸清を討たんと群がる敵兵が次々とその刃に倒れる。おかげで誰も洸清を留めるには至らず、人波を切り裂いて焦茶の馬は駆け抜けた。
暁光の朱い目がそれを捉えると、宵君は仮面の紐を結い、月香の背に跨る。
「宵殿、どちらへ」
驚いた暁光が声をかけるが、宵君はそちらを一瞥したのみで、何も答えることなく本陣を後にした。後を追う墮速が去り際に「兄弟で決着をつけろってことだと思いますよ」と言い残してくれたのが救いだ。
月香の後ろ姿が薮に紛れる。残された本陣に宵君の身を案じる者はない。むしろ、敵の誰かに本陣に宵君が居ないと知れれば厄介であると相談が始まった。主上の留守を狙って攻め込まれ崩されようものなら、宵君に申し訳が立たぬどころではない。背後の囁きに、暁光は振り返らず案ずることはない、と笑った。
「本陣は私が任されよう。恭也」
「は」
「洸清を止めろ」
一歩踏み出し、恭也は目を見張る。しかし上様、と口を開きかけた恭也の目の前に、暁光の拳が突き出される。開かれた手のひらから零れ落ちたのは、澄んだ翡翠の勾玉。
「上様、それはあまりに。洸清様はお一人で敵陣を駆け抜け、上様と」
「応える必要はない。彼奴が退かぬなら討て」
暁光は温もりのない声で言い放ち、恭也に背を向けた。頼鹿から絵図を受け取り胡床に腰を下ろし、指揮を執り始める。恭也は躊躇ったが、固く目を伏せて馬の手網を引いた。
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