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第二幕
忠臣
しおりを挟む宵君がまだ十五歳の夏。初陣にて見事に敵将の首級を挙げ、帰路に就く途中、宵君は突然馬から飛び降りたのだ。衛兵は不思議がったが、宵君は一人の若い女の骸へ近づく。そして、母の朽ちた腕の中で、助けを求め泣いている赤子を抱き上げた。
『この暑さの中、逞しい子だ』
喧騒に紛れていた泣き声が人へ届いた安堵からか、赤子は宵君の指を握ったまま眠ってしまった。
『馬の振動は弱った身体に障る。私は此奴を抱いて歩くゆえ、月香を頼むぞ』
従者に愛馬を託し、宵君は足を踏み出す。
『そう言えば、繁正の室には男子が成せず参っておると申したな。どれ、此奴が育つようなら養子へやるか。これは良い拾い物をした』
時折眉間に皺を寄せる赤子をあやしながら、宵君は骸の折り重なった路を踏みつけ、草履の裏を砂で拭い、京の大門を潜った。
「……母の亡骸に集る虫の羽音も、貴方の体温も覚えております」
「あの中で疫病も飢餓も退け、か細くも懸命に泣いておったのだ、其方は妖の類かも知れぬな」
おかしそうに笑う宵君に、繁國も口角を上げる。しかし、繁國のまことの両親は、宵君の率いる軍に殺されたのだ。宵君はそのことを隠さず繁國に教え仇を討つなら構わぬとまで言ったが、繁國は一度でも宵君に背くことは無かった。
『俺が今生きているのは、貴方が俺の泣き声を聞き留め、抱き上げて下さったからです。上様に救われた命なれば、上様の為だけに使いましょう』
その言葉に宵君は驚いたが、繁國は自らの誓いの通りよく仕えている。病で顔が爛れた時も、幼子の目には恐ろしく映った筈の宵君の形相に、ただ、これは痛むものでしょうか、そうでなければ良いのですが、と手を伸ばした。
「……近く、京を二分する戦になる」
空の硝子を爪でこつりと叩き、宵君は明日の天候を話すように口にした。
「其方は明頼に着け」
行燈の灯りが揺らめく。繁國は己が耳を疑ったが、宵君は真っ直ぐに繁國の目を見、「我が弟、明頼に味方せよ」と告げた。しばし黙っていた繁國だが、宵君の言葉を咀嚼し両手を握り締める。
「……つまり、上様に刃を向けろと仰せなのですか」
「あぁ」
宵君は平然と頷いた。信じ難い、と繁國は深い息を吐き、その隻目を見上げる。主上の視線の中へ、もしや明頼につく振りをして土壇場で寝返るよう命じているのかと、そのような淡い期待混じりの探りを入れてみるも、繁國にはそうではないと分かった。
――何と残酷なご命令だろうか。
「……それだけは、それだけは何卒お許し下さい。公主殿下へは与せません」
「何だ、其方も仏敵にはなりたくないか」
喉の奥で笑い、宵君は見当違いな問いを投げかける。繁國の胸中を分かっていて、わざとこのような態度を取るのだ。ついには視線すら逸らされてしまう。
「貴方が命ぜられるのならば、神にでも仏にでも背きましょう。俺は貴方の他には何も信じてはいない。しかし、貴方にだけは背くことは出来ません」
「……他ならぬ私の頼みでもか」
「どうしてもと仰せなら、今ここで自害します」
繁國が言い放てば、宵君の目が揺れた。珍しく動揺を顕にする様子に繁國の方が驚く。誰も見えない路を見通し、誰も想像だにしない世を拓く宵君が、たった一つ繁國を失うことだけは見落としていた。まるでそんな表情なのだ。
「……此処は武家ではない。私の目の前で死ぬなどとは、二度と口にするな。死ぬなら私の知らぬところで密かに死ね」
「……申し訳ございません」
繁國が謝罪を述べれば、宵君は目を伏せ、座布団から腰を上げるとそれを膳の後ろへ除けた。上様、と繁國が声を掛ける前に、宵君は畳に三つ指をついて、肘を屈める。長い髪が肩から滑り落ち畳をぱさりと撫でるのを、繁國は驚愕して見ることしか出来ずに居た。
「繁國、公主へ与せよ。この通りだ」
鼓膜を震わせた声に、やっとの思いでその肩へ縋り、お止め下さい、と身体を起こさせる。臣に頭を下げるなど、何をお考えなのだ、この方は。繁國は溜息を堪えたが、宵君はもう笑ってはいなかった。
「……分かりました。しかしお忘れなきよう願いたい。この繁國の主上は、今生でも黄泉の冥府でも、輪廻の先までも宵君、貴方様ただ御一人であると」
「……ふふ、黄泉ではこのような命令はせぬと約束しよう」
「当然です」
――まことに黄泉とやらがあるのならば、そこでこそは永劫この方のお傍に。
月に秘められた祈りは深雪の光に埋もれ、誰の目にも触れることなく溶けてしまった。
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