花浮舟 ―祷―

那須たつみ

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第一幕

嘉阮

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 翌日早朝に京を発った宵君、鯨一郎や幻驢芭家臣遠野とおの家が長男、繁國しげくにをはじめとする一行は、馬と牛車で一刻半かけて隣国、嘉阮かげんの帝都に到着した。沖去京より数段広大で活気溢れる街を幻驢芭の家紋の牛車が拓いて行く様を、道の端にかしずく人々は恐る恐る眺めた。

「隣のあの小さな京のお公家・・様じゃと」

「陛下の近衛隊を負かした恐ろしい軍師・・と聞いたが」

「残酷なる武官・・が、我らを隷属させんと参られたのではないのか」

 ひそひそと伏したまま立てられる声に、鯨一郎は苦笑いを零した。嘉阮の平民が隣国の宵君をよく知らないのは無理もないが、公家、軍師、武官と煩雑はんざつに噂される肩書きはどれも正しく、またどれも正しくない。それが宵君の恐ろしいところである。

「よくぞ参られました。陛下がお待ちです、此方へ」

 宮殿の貴賓きひん用にしつらえられた、北側の門扉の前。牛車を降り姿を現した宵君を見て、二人の門番は唖然とし、すぐに眉を吊り上げた。

「隣国の摂政せっしょう殿、無礼であるぞ。これより其方が参られるは陛下の御前、そのように陶器の面で顔を隠されるとは誠意も敬意も無しと捉えまする」

「……これはこれは。随分と歓迎されておる」

 藤色の袖を払い、白い面の紐に指を掛けた宵君の声色は軽薄だが、宵君が面を取り去り繁國の手に預けると、深く澄んだ瞳と白く濁った瞳が同時に門番を射抜いた。痺れを切らした繁國が、未だ棒立ちのまま顔を見合わせる門番たちに「まずひざまずけ」と溜息を吐く。

「貴国は戦に負けたのだ。その上、何の矜持きょうじか知らぬが、やんごとなき御方に対し斯様な態度……高慢が過ぎるのではないか?」

「そっ……それは、しかし」

「しかしもカモシカもあるか。敗戦国の門番風情が誰の道を塞いでおる。そのだらしない胴と泣き別れる前にさっさと通せ」

「御、御意に……」

 宵君の醜い形相におののいたか、繁國の怒りにひるんだか。門番は不承不承ふしょうぶしょう、口をつぐんだ。宵君はその脇を通り抜けて門を潜り、鯨一郎と繁國も、ようやく膝をついた門番を一瞥いちべつしそれに続く。三つ目の門を過ぎる前に、宵君は繁國に鈍い藤色の巾着を手渡した。僅かに緩んだ袋の口からは嘉阮の通貨が覗いており、市井しせいでの買い物には充分過ぎる重みがある。

「これで明頼たちの土産でも見てくると良い。そなたも目ぼしいものがあれば好きに買え。これより先は其方の戦場ではないゆえ」

「……しかし、これは上様の……」

「良い良い、私の弟と息子たちへの土産を頼んでいるのだ。あ、私の面は返せ。それから……」

 耳元で一、二言ほど囁いた宵君に一礼し、繁國は元来た道を引き返す。しばしそれを、さながら子を送り出すような面持ちで見守った後、宮殿の最後の門を振り返った。鯨一郎は声をひそめ、宵君に問う。

「繁國殿、珍しくやけに上機嫌でしたが」

「あの門番らを好きにして良いと申した」

「あぁ……」

宵君は眉間を揉む鯨一郎を伴い、宮殿の石階段に足をかけた。


「――よ、宵殿、久しいな。此度はご足労であった。して、先の進軍のよしは、その……」

「将軍の独断であった、か?」

「さ、左様。将軍には切腹を申しつけた。望みとあらば首も差し上げよう」

 二万五千の軍勢を差し向けた威勢は何処へやら、玉座に座す皇帝は肩を丸め、忙しなく眼を泳がせた。 宵君の顔は再び陶器に覆われており、その双眸に直に睨まれていないのが救いだろう。豪奢な上座が隋分と居心地悪い様子である。

「そう怯えずとも良い。過ぎたことは追求せぬ。……しかし、血なまぐさい老将の首など、皇帝陛下は我が京に疫病でも持ち帰れと仰せか」

「さ、左様な悪意は毛頭ない! しかし、では如何にして償えば良いか……」

「ふむ……皇帝陛下は戦は初めてであられたか。私の記憶では、幾度も幾度も執拗しつように我が箱庭へ軍勢を差し向けては大敗を喫しておられたように思うが……その度何を払ったか覚えておらぬとは」

 宮の外の気候が幻かのように、皇帝の背筋は凍えていた。宵君のつるりとした陶器の面に、当然きんであろう、と文字が浮かぶようである。実のところ、この戦による沖去の損害は甚大とは言えなかった。そもそも、京の破壊を防ぐ為宵君が隣国との境の砦に陣を張っていたのだから、大門の内に害がないのは当然といえば当然のことである。

「……金二十万を、先三十年納めよう」

「ほう、それだけか?」

 しかし仏の顔も三度までとはよく言ったもので、宵君の機嫌は見てのとおり。

「い、否! 貴国と川を挟んだ北西の山岳、水路、山脈の麓まで、全て差し上げようぞ。整地に要する人員も此方から遣わそう、何卒、何卒此度の無礼、お許し願う」

「……まぁ良い。では此方も私の世では、武家諸侯に報復の進軍を禁じよう」

 宵君の言葉に、皇帝は大変安堵した様子であった。初めからこの王は、沖去の恐ろしい軍師の御旗みはたの元で行われる報復の戦ばかりを恐れていたのだ。それが宵君の治世では攻めさせぬ、つまり「己が死ぬまで攻めさせぬ」と言っているのだから、兎角、命拾いしたとの思いで一杯なのである。

「ま、まことであるな?」

「くどい。私に二言はない」

 以後もよろしく頼むぞ、盟友殿よ。そう宵君が笑うと、皇帝も浮かんだ脂汗を袖で払いながら上擦った声音で笑った。


「宵殿はまことに恐ろしい。追求せぬとおおせながら、あれから門番の態度を詳細に皇帝陛下にお聞かせし、追加の詫びの金まで……」

「何、事実を喋ってみたら、先方から勝手にくれるというのだ、貰っておこうではないか」

 宮殿を後にし、繁國と落ち合うべく街中を歩きながら、鯨一郎は深く息を吐き出した。

「そう気負い込むでない、臓腑ぞうふが弱るぞ。景気づけにどうだ、花街に顔でも出すか。きっと女将は青鳥せいちょうの身を案じておるぞ、会って挨拶の一つでも寄越すのが筋ではないか?」

 青鳥とは、鯨一郎の側室である遊郭上がりの美瞳みとという者の、廓名である。

「お戯れを。花街の類とは縁を切らせてやるのが美瞳の為でございましょう」

「……お前は相変わらず石頭よの。つまらん男。『お主らが散々いびった青鳥が隣国の将に身請みうけされ、側室として娶られ幸せに暮らしておる』と嫌味の一つでも言いに行けと申すに。青鳥はその方が好みだと思うが」

「美瞳を身請けて下さったのは宵殿で……それはまことでございますか」

「あれはお前が思うより血腥い性根よ。好いた男の前で猫を被っておるのだ」

「……それでも、左様なことは致しませぬ。さて、繁國殿を見つけねば」

 真面目な男よの、と呟く宵君に会釈し、鯨一郎は一歩程前へ歩み出た。その時である。人の群れの中から躍り出た小柄な影が、鯨一郎の懐に飛び込んだ。

「おのれ白爪め! おっとうとおっかあの仇じゃ!」

 鯨一郎が振り向いたのが、一瞬遅れる。どん、とその影を受け止めた身体から、砂利に落ちたのは血であった。 思いがけぬ事態に呆然としていた鯨一郎ははっとし、自身と刺客との間に割って入った宵君が怪我をしていることに青ざめた。

「宵殿!」

「……大事ない、はらではないゆえ」

「しかし……!」

 宵君がほれ、と見せた身体には、確かに傷は認められない。だが咄嗟に刀身を鷲掴んだ右の手は、動揺した刺客が離した短刀を握り込んだまま絶えず血を流している。

「あ……」

 しんと静まった空間で、初めに声を上げたのは刺客であった。やっとその姿を認めると、なんとそれは年端としはもいかぬ童で、宵君の手元を凝視しながら、青い顔をして震えている。

「あ、お、俺……今朝、国を出る前からずっと、商人の積み荷に潜ってあんたらを尾けていて、それで、お、俺が狙ったのはその白爪んとこのお侍で、まさか、ま、幻驢芭様を傷つける気は……」

「……其方、白爪が親の仇と申しておったな。それはまことか?」

 息を荒らげながらひれ伏す童の声を遮り、宵君は鯨一郎が自らの狩衣の袖を裂くのを横目で見た。

「え……あ、あの……」

「其方の親を殺したというのは、この者か?」

「へ……あ、違う、髪型と上背が同じだったから……俺、なんてこと……」

「ならば」

 宵君は一度目を伏せ、左手で短刀の柄を持ち、固く握られた右手から肉に喰い込む刃を無理矢理引きずり出した。

「宵殿! 何を……」

「お前の手当は無用。さてぼん、これは其方の刀だ、返そう」

 ぬらりと血に塗れた短刀を戸惑う童に握らせその前に片膝をつき、宵君は左手でその頭を優しく撫でた。

「顔を憶えているのなら望みはあろう。父母の仇、いずれ討ち果すが良い」

 立ち上がる際、僅かによろめいた肩を慌てて支えた鯨一郎だが、裂かれた狩衣の切れ端は行き場を無くしたままである。騒ぎを聞きつけた繁國と合流し、如何して上様がお怪我なさっている、貴殿が着いていながら一体何故、と彼にひとしきりなじられたあと、幾度もせめて止血だけでもと声を掛けたが、宵君は京に到着するまで一切の手当を受けなかった。

 帰った宵君の姿を見て、幻驢芭、白爪両家の者は大いにうろたえた。初めは逆上した嘉阮の皇帝の仕業かと問われたので、宵君は「皇帝は関わりなきことながら、先の戦の恨みを買った為だ」と答えたが、鯨一郎がそれではなりませんと真実を全て話してしまった。
 件の童についても、宵君が無罪放免にせよと口を添えたところでそうは成らず、繁國に取り押さえられ尋問されたのち、無常河原むじょうがわらの刑場にて両腕を斬り落とされるところであった。
    室に戻り堕們の手当てを受けながら、宵君は質の良い紙に丁寧にのせられた色彩を眺める。

「己の絵師としての才に救われたのう。あの場で坊の袂からこの見事な父母の肖像画が落ちなければ、流石に庇い立てしてやれる言い訳がなかった」

「……ということは、俺がお前を刺しても利き腕だけは助かるかな」

「否。其方なれば私を刺しても焼いても、『これが西洋における最先端の治療である』と言えばまかり通るのではないか」

「面白過ぎる。やってみて良いかい」

「良いぞ」

 二人分の笑い声が、ねやの外に控える不寝番ねずばんの深い溜息を誘った。あの方たちの笑いのつぼは凡夫ぼんふには解らぬ、と彼は天を仰ぐ。

「罰と言えば鯨は……今頃、暁光から叱責を受けていることであろうな。馬鹿な奴だ、黙っておけばよかったものを。元より青鳥の身請け金を利子を付けて返すと聞かぬ上、此度の失態で俸禄ほうろくも減らされ……真面目が過ぎるゆえ、いっそ巻き込まれて困窮こんきゅうする妻子が気の毒になってくる」

「あの鯨一郎殿が、自分のせいでお前に怪我をさせて黙ってるわけがないだろ。実直さだけが取り柄のようなひとだ。損をし過ぎてるのは完全に同意」

 堕們の笑い声を聞きながら、宵君は大人しく手当を受けていた。血を流し過ぎた指がなかなか伸びず苦労したようだったが、流石は幻驢芭お抱えのおさじといったところか、その手際に迷いはない。

「あの男の頑固さは時に厄介よの」

「お前がいうか? 幾ら何でも、止血くらいはして帰ってきて欲しいね。血が固まって洗い流す手間が増えるし、貧血の処置も増えるし……あんなに血を垂れ流しながら帰ってくるなんて、何を考えてるんだか」

「仕方がなかろう、其方以外に傷口など触らせとうないのだ。それにしても、咄嗟に利き手で受けたのは至らなかったな。明日までに使えるようにせよ」

「またそんな無茶な……」

「兄君っ!」

 堕們が眉間に皺を寄せたところで、勢いよく室の襖が開け放たれた。息を弾ませて現れ、両目に大粒の涙を溜めているのは幻驢芭家が次男、明頼あけより。宵君の弟である。

「兄君がおみ手に大怪我を負われたと繁國から聞きせ参じました次第でございますが兄君、お怪我の加減というのは如何ほどですか、兄君を刺したのはどこの馬の骨です、この明頼、断じて許し難く……」

「明頼、其方はちと落ち着かぬか。私は大事ないゆえ」

「大事なければあのように点々と道に血痕が続きまするか!」

「それほど垂らしてはおらん」

「なれど、なれど……ああぁ兄君~~~!」

 其方は大袈裟だのう、と笑う宵君とは対照的に、明頼はよろめいてその膝へにじり寄り、ついには「おいたわしや……」と泣き出した。

「まぁ、明日にはこの堕們がいたわしゅうない姿にしてくれよう」

「堕們殿……兄君を、しかと御頼み申し上げる」

 呆れて物も言えぬ堕們を、宵君は面白そうに眺める。

 ――しかし、あれほど誠実な鯨に此度の件で罰があるのもやはり不憫であるな。明日にでも私から庇い立てしてやるとするか。

 酒が飲みたいと言って堕們に却下されながら宵君は、あのただでさえ貧しい武家に減俸はあまりに酷な処断である、と考えた。



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