花浮舟 ―祷―

那須たつみ

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第一幕

宵君

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「――敵の軍勢は二万五千、対して此方は七千だ。勝算は?」


 其処此処そこここで黒煙の立つ夕暮れに、呟く歩兵が居た。まだ若いその男の声はどこか高揚し、またそれに答える声も、自信に満ちている。

「俺達の勝ちさ。だって俺達の総司令うえ様は」

 折よく遠くで響く轟音、敵兵の雄叫びと悲鳴。それは勝ち戦を報せる、彼らの主からの心強い矢文と同義。雑兵ぞうひょうどもは歓声を上げ、槍の切っ先を日にかざす。喜びと安堵に満ちた目が朱色の大門を振り返った。


 その大門を見守る砦に敷かれた本陣では冒頭の雑兵どもの主、宵君よいのきみが両の手の指を合わせながら、淡々と指揮をっていた。その指はやがて、縁台の絵地図をすっと辿り、また一言声を掛ける。

頼鹿よるかの隊は崖の上から奇襲。清高きよたかの隊は正面から応援に行け」

「しかし上様。この崖は飛び降りるにはいささか高すぎるかと」

 宵君の一言で敵は十、二十と数を減らして行った。仮面に隠されたその表情はうかがい知れぬが、同胞の身を案じる声にも「敵兵という緩衝材を目掛けて飛べば問題ない」と一言答えるのみ。これには殿上人てんじょうびとへ意見を述べる肝のわった男といえど、黙る他ない。戦の前には皆の士気しきを高め、後にはねぎらいの言葉と褒美を惜しまぬ宵君だが、その最中となるとどうにも手厳しいところがある。

「安心しろ、私も幾度となく使った手だ。まぁ、愚鈍ぐどんなれば骨の一本くらいは折れるだろうがな」

 微かにその喉が震えた。笑うところなのか、と傍に控える近臣どもの表情も苦くなるばかり。とはいえ此処は戦場。本陣の中枢がまごついている場合ではない。急ぎ伝令をと駆ける背中に、宵君は「着地に自信のない者は、馬や恰幅かっぷくの良い兵を選んで狙うが良い」と声をかけた。


 一刻もせぬ間に、やぶに紛れた戦場から、一人の歩兵が本陣に駆け戻った。頼鹿隊の者だ。

「崖からの奇襲に気を取られ、混乱した敵の本陣は崩壊! 清高様の隊による応援も実に頃合い良く……我が軍の勝利です!」

 瞬く間に歓喜の声は広がり、士気を削がれた敵兵は大門に背を向け逃げ出した。味方に妥協を許さなければ敵にも情けをかけぬ宵君だが、此処ではあえてそれを見逃してやるのだ。

「二度と公主こうしゅの幼きことを好都合などと思い上がり、野蛮やばんなる隣人がこの沖去に攻め上らぬよう、彼奴らには語り部となって貰おう。あの京には天女の前に鬼が立ち塞がる、とな」

 ――美しき朱の鬼と、顔の爛れた醜いあおの鬼がな。

 仮面を取り去った宵君の顔は、その右側が醜く歪み、得も言われぬ恐ろしい形相だという。これは青年の折に患った天然痘てんねんとうの為と周知のこと。
 宵君は美しかった。顔の半分に残された四十を超えたと思わせぬ若々しさと美貌は、それゆえ爛れた皮膚の醜さを際立たせる。永く仕えた家臣ですら宵君の顔を見て頬を引きらせるので、心許した者の前、或いは脅しをかけるような場合を除いて、宵君はその顔を白い陶器で隠すことにしたのだ。


「宵殿、此度こたびの戦、まことに見事なものでございました。諸国が恐れる隣国の大軍を、あのように鮮やかに撃退なさるとは流石です」

 下馬した宵君を迎えたのは、宵君が美しき朱鬼と称えた暁光ぎょうこうという男だ。成程、宵君の評した通り、造り物と見紛う美丈夫びじょうぶである。

 幻驢芭まほろば家当主である宵君と、白爪しろつめ家当主である暁光は、まだ幼き公主に代わってこの沖去という京を護り、歴代の両家当主は周辺の列強の侵略を幾度も退けた名将たちといえる。

 幻驢芭家は皇家の血筋を引き、皇家を除いた公家くげ諸侯で最も高位の家柄。皇家の子が途絶えた世には、幻驢芭家から養子を迎えた例も少なくない。一方の白爪家は、現存する文献によれば最も長く皇家、幻驢芭家に仕えており、戦乱を繰り返す世を生き抜いた最古の武家の一つである。

「あの程度の小競り合いなど他愛もない。其方であれば日の落ちぬうちに片がついたであろうな」

「またそのような」

 酒の席を用意してあります。そう言って宵君を自邸の縁側へ導く暁光の下心は、最早見え透いている。宵君は苦笑しつつ頷いた。

 縁側に腰を下ろせば、目前には腕の良い庭師の施した枯山水かれさんすいが見渡せた。夏の終わりの涼やかな風が程よく吹き込み、戦で疲れた頭と身体には心地良い空間である。

「……して、今度は何だ」

「貴方に少しばかりお願いがございます。というより、相談かな……」

 隣に腰掛け、宵君に酌をしながら朱の色男は肩を竦めた。あぁ、この顔は女絡みの相談かと宵君は察し、にやりと口角を上げる。

「女の扱いなど、自力で何とかなろう」

「否、それが……公主のことなのですが」

「あのませたおひいがどうかしたか」

「宵殿、誰が聞いているとも……」

「構わぬ。近頃の公主といえばまつりごとのたぐいは私に任せきりで、其方と歌詠うたよみや説法せっぽうにふけるばかり。信心深きはご立派なことだが、其方とて暇ではあるまい」

「……えぇ、実は相談というのも、そのことで」

 苦笑いを浮かべ、暁光は酒を煽った。宵君はそういうことか、と伏目で笑い、権威のある御方に気に入られるというのも時には難儀なんぎなものだな、と呟く。

「其方は気に入られているのだから一言きっぱりと申し上げればよかろう。其方のげんを公主は無下にできぬゆえ」

「申し上げたところその、『いっそこの暁光を婿にめとれるのなら、稀代の名君となろうとすら思うのに』と……お戯れが過ぎると申し上げたのですが、斯様な冗談があるかと泣かれてしまいました」

「……公主はまだ御年十二。それも皇家の気高き血を宿す御方よ。いくら白爪家嫡流の当主とはいえ、武家の男との恋路が実るお立場ではない。公主とて左様なことは解り切っておられる。余程、其方に心を寄せているご様子」

 一方的に命を下せば済むものを、あえて独り言のように乞われては、良心が痛むのも無理はない。如何したものかと途方に暮れる暁光を見かね、宵君は苦笑を返した。

あいわかった。私から公主に申しておこう」

「かたじけのうございます」

「何、其方は私の義弟も同然。捨て置くわけもなしに。それに、私もそう長くはないゆえ、公主には政の一から百までを早う覚えて頂かねばならん」

「……やはり、病状はかんばしくありませんか」

 酒瓶を傾ける手を止め、暁光は先程までよりいくらか厳かな声を漏らす。そんな暁光にどこか諦観ていかんの伺える笑みを寄越し、宵君はまぁな、と呟いた。

「此の世に治す術がないのでは、西洋の医学に精通した堕們だもんといえど如何しようもあるまい。堕們は稀に見る名医ゆえ、父君はあれを私に充てがったが」

 表情を曇らす暁光を余所よそに、当の宵君は随分と楽観的である。暁光は、幼少の折より幾度も病にしてきた宵殿にとっては、不治の病といわれても、今更大したことではないのかもしれぬ、と気を取りなおした。

「……時に暁光よ。私は明日、隣国の皇帝に、此度の戦の沙汰について談義する為に拝謁仕るのだが、供にくじらを貸してはくれぬか」

「……鯨一郎けいいちろうを?」

「左様。清高と頼鹿は、先の戦の功への褒美のうちひとつとして生家に顔を見せたいと申し、差し迫る戦もないゆえそのようにした」

「成程、喜んで。鯨一郎にはすぐ、明日の支度をするよう申し付けましょう」

 暁光の返事に礼を述べ、宵君はさて、と腰を上げた。

「そろそろおいとまする。其方が酔っ払って私に甘える姿など、この家の者に見られでもしたら大事よ。公主の件は承知した。鯨にはよしなに伝えてくれ」

「御意。道中暗うなって参りました、供の者をつけさせます」

 門扉もんぴまでお見送りしよう、と宵君の背中を追い、暁光は道すがら家人に宵君が「鯨」と呼ぶ男への言伝を頼んだ。
 青桐あおぎり鯨一郎という男は生真面目で寡黙かもくな性分で、宵君より三つ、暁光より十ばかり歳は上である。宵君も暁光も、幼い頃から鯨一郎の説教を受けながら育ったのだが、存外あの小うるさい鯨一郎の文句を聞くのはやぶさかでないのだった。

 宵君は、鯨一郎のその恵まれた体躯とかけて「鯨」と呼びからかうことを好む。その度に鯨一郎は呆れたような顔をして、「私が鯨なれば、宵殿はさながらふかにございまするな。いつの日か私の横腹に咬みつき、食い千切ってしまわれる」 と言い返すのだ。



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