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第六話

もう悪夢は見ない

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 悪夢とは、すっかり無縁なつもりで生きていた。いや、そう思い込んでいたのだろう。

 久方ぶりに飲まれた、酷い夢の濁流。乱暴な客に殴られた日の事や、グラスを叩きつけられながら受けた罵詈雑言。

 とにかく嫌な記憶として思い浮かぶ全てが、休む暇も無く私に襲い掛かってきた。

 特に鮮明に思い出していたのは。やはり、『初めて目覚めた時』のこと。

 そういう表現が正しいのかわからないが。私は生まれた時から、この世界の狭さを知っていた。

 小さな、小さな、木箱の中。明かりや音すらも何も無い、完全な孤独。

 ……泣く以外の何かを知らなかった。少なくとも、アイロムと出会うまでは。

「――う。……んぁ……?」

 陽の光を見て、これほどの安心感を覚えたのはいつ以来だろう。

 悪夢が『夢だった』とわかった時特有の、一気に胸を撫でおろすような、あの感覚。

 途端に鮮明になる五感に戸惑いながら、私はそっと額の汗を拭う。……火照り、燃えるようだった体が。そよ風で優しく冷やされる感覚が、なんだか心地よかった。

「……おはよう。何とか夢からは抜け出せたみたいだな」

 びくんと肩を跳ね上がらせながら、私はベッド横の『その男』へと目を向ける。

「せ、セヴルム。どうしてここに。……いや、どうしてなのは私の方か……?」

 酷く眠そうなセヴルムが、にこりと淡く微笑んでいた。

 だんだんと閉じていく瞼を、何度も強引に開き。時おり頭を降って眠気を飛ばそうとしている辺り。かなりの疲労なのだろう。

「すまないな。君の寝顔を見るのは悪いと思ったんだが、つい心配が勝ってしまった」
「それは、まあ。ありがたい話ですが……。あれ、アイロム?」

 ベッドに寄りかかるようにして、微かな寝息を立てるアイロムが。

「今はそっとしておこう。交代で仮眠を取っていたんだが、どうしても彼に負担をかけてしまう事が多くてな。本当によく頑張ってくれていたよ、アイロム君は……」
「そう、だったんですか。……私が寝ている間に、そんな事が」

 一体どれほどの間眠っていたのだろう。そんな事を考える傍ら、私はアイロムの頭へと手を添え、起きぬ程度にそっと撫でる。

 そして思い出すのは、あのファイに着せられたドレスやらの事。

 だがそれを深く考えようとすると、どうにも頭に霧がかかったような感覚が。あの時ほど酷くはないが……気分の良いものじゃない。

「せっかくだ、もう少し休むといい。二人の事は私が買ったという事で誤魔化してある。二人の疲れが取れるまで、この部屋を好きに使ってくれ」
「あ、ありがとうございます。そんなわざわざ部屋まで用意していただいて……」
「気にする必要はない。私はただ身内の不始末を拭っているだけさ。君達二人のせっかくの夜を、無下にしてしまったからな」

 身内の不始末。その一言で私は『ある疑問』を抱き、そっとセヴルムを見つめた。

「どうした?」
「いえ、その。やはり似てないなと思いまして。あの子とは」
「ファイか。確かに私達は、似た部分というのがあまり無いんだ。だけどあの子は正真正銘、私の弟だよ。……本当だ」

 そう呟くセヴルムの横顔が、いつになく悲しげに見えたのは。きっと気の所為でないのだろう。

 色々と聴かなければならない事は山程ある。

 ――だが今はとにかく。何よりもすべきなのは、こちらの方。

「セヴルム様」
「……。ん?」
「その。……ほ、ほら。これです。その……これ。……だ、だから。その……」

 私は両手を広げ、目を逸らす。……思えば、初めてだっただろうか? アイロム以外の誰かに、胸を貸そうと思ったのは。

「はは。すまない、気を遣わせてしまったか。……だが、そうだな。今は少しだけ、君の胸を……貸して……」

 そうして全てを言葉にする間もなく。セヴルムは糸が切れたように崩れ、私はそれを両腕でそっと受け止めた。

「……ああ。……暖かいな、本当に。……君は……――」

 セヴルムもまた、ずっと付きっ切りで診てくれていたのだろう。セヴルムが胸に顔を埋め、私が柔く抱いてみると。あっという間に心地良さげな寝息立て、深そうな眠りの中へと。

 ……暖かいのは、お互い様だった。胸の奥に広がる仄かな熱を感じながら、私はゆっくりと横たわり、目を閉じる。

 今はとにかく休もう。私も、二人も。……二人が一緒なら、もう悪夢は見ない。
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