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夏の夜のプール
第4話
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意外にも、とでも言うべきか。
女子更衣室のドアはあっさりと開いた。
視界に映るのは、実は桃源郷でしたとかそういうことはまるで無く、ほぼ真っ暗な闇であった。
さもありなん。
今は夜で、この室内に入り込んでくる明かりらしい明かりと言えば、擦りガラス越しの月光くらいのものだ。
意を決して、中に入り後ろ手にドアを閉める。
やかましかったセミの鳴き声は遠く、そして予想していた以上に部屋の中は暗く、一瞬部屋の電気のスイッチを探して明かりを点けようかと思い、けれども断念する。
更衣室の明かりが点いているだなんて、誰かがここに居ると自ら宣伝しているようなものだ。
もし誰かに見つかりでもしたら社会的に人生終了のお知らせなので、それは出来ない。
女子更衣室と言えど、別に女の子の良い匂いがするとかそういうこともなく、どちらかと言えばプールの塩素の臭いが充満していて、ドキドキする要素なんて欠片も感じられなかった。
ここに飛び込む前の僕は、一体何を悩んで戸惑って立ち止まってしまっていたのだろうか。
開けてはいけない扉を開けて飛び込んだら、実際には程度のものだったのかと、少しだけ拍子抜けもしたが、ともかく。
誰も居ないのだから、そしてこんなにも暗いのだから、別に男子更衣室だろうが女子更衣室だろうかやることは変わらない。
水着に着替えるだけのことである。
意識を切り替えて背負っていたリュックを下ろす。次に、シャツを脱ぎ、ズボンとパンツを一気に下ろして裸になる。ここまでは順調だった。
リュックの中から、プールバッグを取り出して、その中にしまった水着を取り出すのだって、そう難しいことではない、はずだったのだが。
なのに、見つからない。余裕だ大丈夫だと思い込んでいただけで、女子更衣室で裸というこの状況に、どうやら少なからず僕は焦ってしまっていたようだ。
ようやっと、プールバッグに突っ込んだ手が目的のものを掴む。急いで履こうとして、けれどもなかなか足が通らない。
何でだ、と数回試したところで、手にしたそれが紺色の水着ではなくて、白いメッシュの水泳帽だと気付いた。
何やってんだ僕は、と反射的に水泳帽を地面に叩きつけた。それから改めて水着を探し当てて、履いた。
初めから家で水着を履いてこれば良かったと、今更ながらに思うも、後悔は先に立たないとかなんとかかんとか。
気を取り直し、脱いだ服やらプールバッグやらを集めて乱暴にリュックに詰め込んで、それからプールへと続くドアを潜った。
プール特有のあの塩素の臭いが濃く感じられて、知らず気持ちが高揚する。
更衣室から外に出たことで、あのやかましい一匹のセミの鳴き声も聞こえ始めたが、周りを壁に囲まれているからか、心持ち小さくなっているようにも感じられた。
それはさておき、いつもは先生に頭からしっかり浴びろよ、とどやされるシャワーを素通りし、腰まで浸かれとしきりに注意される消毒槽の脇を抜けて。
――とうとう、着いたぞ。
風もないのにゆらゆらと揺れる水面に映るのは、月と星の明かり。宝石が輝いているかのようにも見えて、僕はしばし見とれてしまう。
この時点で、達成感にも似た思いで胸が一杯になり、感動に打ち震えつつも、さぁこれからが本番だ、泳ぐぞまずは飛び込みだと決意した、その時。
僕は、気付いてしまった。
それは、このプールサイドに出た瞬間から、確かにそこに居た。
だが、それが何であるのか、認識出来ていなかった。
水面に映えてきらきらと輝く宝石の一つだとでも思っていたのだろうか。
ともかく、僕の脳はそれが何であるのかを理解することを拒否していた。
だからこそ、僕は背筋が凍るような感覚に支配されて、再び身を震わせる。
つい先程まで、女子更衣室の鍵が開いていた事実について、ただの幸運だとしか思っていなかった。
だからこそ、その幸運が意味するところを全く考えてもいなかった。
だが、現実はどうなのか。
夏休みも終わり間近。夜の学校、月と星の明かりの下、高い壁に囲まれたこのプールであれば、誰にも見咎められることなく、夏の思い出を作るに最適の空間であったはずだった。
だが、そうではなかった。
誰にも見咎められない、なんてことはなかったのだ。
何故、それを忘れていたのか。夏休みに突入する直前、学校内であんなにも話題になったではないか。
この中学での七不思議。怪談話。
夏休み間近になると、どこからともなく噂が流れ始め、生徒達の間で面白おかしく語られる。
今年は、あの変わり者揃いの新聞部が、独自調査と銘打って特集を組んで、学内掲示板にその記事を掲載していた。
僕らは僕らで、「我が校に伝わる七不思議は、全部で八つある」などという見出しの時点で、爆笑必至だった。
その時は単なる笑い話でしかなく、そもそも今の今まで七不思議の一つたりとも完全に忘れてしまっていたのだが、ともかく。
その中の一つに、このプールに関するものがあったのだ。
その新聞に書いてあった内容は、確か、
そう遠くない昔、戦前の、夏休みの話だという。
この中学に通う、一人の女子生徒が居た。
その女子生徒はカナヅチで泳ぐことが全く出来ず、けれども泳げないのは悔しいからと、練習の為に夜中にこっそりとプールに忍び込んだ。
そして、溺れ死んでしまったという。
仰向けにプールに浮かんでいた少女の死体が発見されたのは、夏休みが終わり新学期が始まった日のことだという。
警察の捜査の結果、死後十日以上はこのプールに浮かんでいたことになるという。
だが、その捜査結果に異を唱える男子生徒が現れた。
その男子生徒は、少女の死体が発見される前日、つまりは夏休みの最終日の夜に学校のプールに忍び込んだらしい。
その時には少女の死体なんてどこにもなかったと主張した。
それどころか、その忍び込んだ時に、実はプールにはカナヅチで泳げないという少女が先客として居て、自分はその子に泳ぎを教えたと言う。
だから、その警察の発表はおかしいのだと、そう証言出来る人間が、僕とあともう一人居るのだと語った。
だがしかし、その泳ぎを教えたという少女がどこの誰であったのか不明で、少なくともこの中学の女子生徒は誰も名乗り出なかったことから、その話は最後にこう締めくくられている。
男子生徒が泳ぎを教えたというその女子生徒こそが、件の水死体の少女であり、彼が出会ったのは幽霊であったのだろう、と。
ここまで話をすれば、もうお分かりであろう。
プールにたどり着いた僕が気付いてしまったのが、見つけてしまったのが、一体何であるのかを。
そう、ゆらゆらと揺れる水面に浮かぶ、少女の姿だ。
スクール水着を着て、白いメッシュの水泳帽を被っている。
仰向けに浮かんでいる少女の表情は虚ろにも見え、空を眺めているようにも見えるし、全く動かないからこそ、件の怪談話の状況そのままのようにも思える。
だが、まだ大丈夫だ。
何しろ、時刻が夜の九時を回ってはいない。まだ、おばけの時間なんかではないのだ。
だから、大丈夫だ。安心していい。何にどう安心するのかも全くもって不明だが、これはとにかく違う。違うったら違うのだ。
女子更衣室のドアはあっさりと開いた。
視界に映るのは、実は桃源郷でしたとかそういうことはまるで無く、ほぼ真っ暗な闇であった。
さもありなん。
今は夜で、この室内に入り込んでくる明かりらしい明かりと言えば、擦りガラス越しの月光くらいのものだ。
意を決して、中に入り後ろ手にドアを閉める。
やかましかったセミの鳴き声は遠く、そして予想していた以上に部屋の中は暗く、一瞬部屋の電気のスイッチを探して明かりを点けようかと思い、けれども断念する。
更衣室の明かりが点いているだなんて、誰かがここに居ると自ら宣伝しているようなものだ。
もし誰かに見つかりでもしたら社会的に人生終了のお知らせなので、それは出来ない。
女子更衣室と言えど、別に女の子の良い匂いがするとかそういうこともなく、どちらかと言えばプールの塩素の臭いが充満していて、ドキドキする要素なんて欠片も感じられなかった。
ここに飛び込む前の僕は、一体何を悩んで戸惑って立ち止まってしまっていたのだろうか。
開けてはいけない扉を開けて飛び込んだら、実際には程度のものだったのかと、少しだけ拍子抜けもしたが、ともかく。
誰も居ないのだから、そしてこんなにも暗いのだから、別に男子更衣室だろうが女子更衣室だろうかやることは変わらない。
水着に着替えるだけのことである。
意識を切り替えて背負っていたリュックを下ろす。次に、シャツを脱ぎ、ズボンとパンツを一気に下ろして裸になる。ここまでは順調だった。
リュックの中から、プールバッグを取り出して、その中にしまった水着を取り出すのだって、そう難しいことではない、はずだったのだが。
なのに、見つからない。余裕だ大丈夫だと思い込んでいただけで、女子更衣室で裸というこの状況に、どうやら少なからず僕は焦ってしまっていたようだ。
ようやっと、プールバッグに突っ込んだ手が目的のものを掴む。急いで履こうとして、けれどもなかなか足が通らない。
何でだ、と数回試したところで、手にしたそれが紺色の水着ではなくて、白いメッシュの水泳帽だと気付いた。
何やってんだ僕は、と反射的に水泳帽を地面に叩きつけた。それから改めて水着を探し当てて、履いた。
初めから家で水着を履いてこれば良かったと、今更ながらに思うも、後悔は先に立たないとかなんとかかんとか。
気を取り直し、脱いだ服やらプールバッグやらを集めて乱暴にリュックに詰め込んで、それからプールへと続くドアを潜った。
プール特有のあの塩素の臭いが濃く感じられて、知らず気持ちが高揚する。
更衣室から外に出たことで、あのやかましい一匹のセミの鳴き声も聞こえ始めたが、周りを壁に囲まれているからか、心持ち小さくなっているようにも感じられた。
それはさておき、いつもは先生に頭からしっかり浴びろよ、とどやされるシャワーを素通りし、腰まで浸かれとしきりに注意される消毒槽の脇を抜けて。
――とうとう、着いたぞ。
風もないのにゆらゆらと揺れる水面に映るのは、月と星の明かり。宝石が輝いているかのようにも見えて、僕はしばし見とれてしまう。
この時点で、達成感にも似た思いで胸が一杯になり、感動に打ち震えつつも、さぁこれからが本番だ、泳ぐぞまずは飛び込みだと決意した、その時。
僕は、気付いてしまった。
それは、このプールサイドに出た瞬間から、確かにそこに居た。
だが、それが何であるのか、認識出来ていなかった。
水面に映えてきらきらと輝く宝石の一つだとでも思っていたのだろうか。
ともかく、僕の脳はそれが何であるのかを理解することを拒否していた。
だからこそ、僕は背筋が凍るような感覚に支配されて、再び身を震わせる。
つい先程まで、女子更衣室の鍵が開いていた事実について、ただの幸運だとしか思っていなかった。
だからこそ、その幸運が意味するところを全く考えてもいなかった。
だが、現実はどうなのか。
夏休みも終わり間近。夜の学校、月と星の明かりの下、高い壁に囲まれたこのプールであれば、誰にも見咎められることなく、夏の思い出を作るに最適の空間であったはずだった。
だが、そうではなかった。
誰にも見咎められない、なんてことはなかったのだ。
何故、それを忘れていたのか。夏休みに突入する直前、学校内であんなにも話題になったではないか。
この中学での七不思議。怪談話。
夏休み間近になると、どこからともなく噂が流れ始め、生徒達の間で面白おかしく語られる。
今年は、あの変わり者揃いの新聞部が、独自調査と銘打って特集を組んで、学内掲示板にその記事を掲載していた。
僕らは僕らで、「我が校に伝わる七不思議は、全部で八つある」などという見出しの時点で、爆笑必至だった。
その時は単なる笑い話でしかなく、そもそも今の今まで七不思議の一つたりとも完全に忘れてしまっていたのだが、ともかく。
その中の一つに、このプールに関するものがあったのだ。
その新聞に書いてあった内容は、確か、
そう遠くない昔、戦前の、夏休みの話だという。
この中学に通う、一人の女子生徒が居た。
その女子生徒はカナヅチで泳ぐことが全く出来ず、けれども泳げないのは悔しいからと、練習の為に夜中にこっそりとプールに忍び込んだ。
そして、溺れ死んでしまったという。
仰向けにプールに浮かんでいた少女の死体が発見されたのは、夏休みが終わり新学期が始まった日のことだという。
警察の捜査の結果、死後十日以上はこのプールに浮かんでいたことになるという。
だが、その捜査結果に異を唱える男子生徒が現れた。
その男子生徒は、少女の死体が発見される前日、つまりは夏休みの最終日の夜に学校のプールに忍び込んだらしい。
その時には少女の死体なんてどこにもなかったと主張した。
それどころか、その忍び込んだ時に、実はプールにはカナヅチで泳げないという少女が先客として居て、自分はその子に泳ぎを教えたと言う。
だから、その警察の発表はおかしいのだと、そう証言出来る人間が、僕とあともう一人居るのだと語った。
だがしかし、その泳ぎを教えたという少女がどこの誰であったのか不明で、少なくともこの中学の女子生徒は誰も名乗り出なかったことから、その話は最後にこう締めくくられている。
男子生徒が泳ぎを教えたというその女子生徒こそが、件の水死体の少女であり、彼が出会ったのは幽霊であったのだろう、と。
ここまで話をすれば、もうお分かりであろう。
プールにたどり着いた僕が気付いてしまったのが、見つけてしまったのが、一体何であるのかを。
そう、ゆらゆらと揺れる水面に浮かぶ、少女の姿だ。
スクール水着を着て、白いメッシュの水泳帽を被っている。
仰向けに浮かんでいる少女の表情は虚ろにも見え、空を眺めているようにも見えるし、全く動かないからこそ、件の怪談話の状況そのままのようにも思える。
だが、まだ大丈夫だ。
何しろ、時刻が夜の九時を回ってはいない。まだ、おばけの時間なんかではないのだ。
だから、大丈夫だ。安心していい。何にどう安心するのかも全くもって不明だが、これはとにかく違う。違うったら違うのだ。
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