10 / 69
1.友情を繋ぐ柚子香るタルト
1ー10
しおりを挟む
私も一口食べてみる。すると、柔らかいカステラ生地とあんこの甘味が口の中に広がる際、柚子の香りを感じた。
「……美味しい」
だけど、ひとつだけ引っ掛かることがあり、思わず首を傾げた。
「まさか、これがいつも二人で食べていたタルト……?」
おばあさんとチャチャの反応から、きっと二人はいつもこの和菓子を分け合って食べていたのだろう。
でも確かおばあさんは、チャチャといつも“タルト”を食べていたと言っていたような気がするのだけれど……。
だからといって目の前の食べ物の名前はわからない。私は思わず疑問を口走っていた。
「まさかあんた、タルトを知らんかったん? 松山に来たなら、買って帰り」
「は、はい……」
どうやらチャチャとのやり取りに夢中になっていたおばあさんの耳にも届いていたようだ。
どうやらこれは松山のお菓子らしい。
「タルトは、松山の郷土菓子。地元ではタルトと言えば、洋菓子のタルトではなく、こちらを指す場合が多いのです」
飯塚さんが説明を添えてくれる。
「ありがとうございます。そうなんですね」
「私はタルトが大好きやったけん、いつも決まっておやつはこれやったんよ。またこうして大好きなタルトを大好きなチャチャと食べられて。さらには、こんなに良くしてくれる方々に飼ってもらえとるってわかって、私にはもう、思い残すことはないわ」
おばあさんの瞳から涙が溢れた。
だけどその表情にはもう出会ったときに感じた哀愁はなく、嬉しそうだった。
幸せな時間はあっという間だった。ついにチャチャとタルトを食べ終えたおばあさんは、余韻に浸ったあと、今日一番の笑顔を見せた。
「安心して、旅立てるよ」
そして、とうとうおばあさんは温かい、まばゆい光に包まれて空気に溶けていった。
──いってしまった。
もう、私たちの手の届かないところへ。
チャチャもそれは感じているようで、寂しげに窓の外を眺めている。
私もたった一日おばあさんと一緒に過ごしただけだけど、もう二度と会えないのだと思うとこんなに寂しく感じるのだ。チャチャはもっと寂しいだろう。
だけど、おばあさんが最後に心からの笑みを見せてくれたから。この世でずっとチャチャのことを気にやんだままさまよい続けるくらいなら、きっとこれで良かったのだと思う。
「チャチャとおばあさんのために、ありがとうございます」
声の聞こえた方を見れば、飯塚さんが寂しげなチャチャを抱き上げながら私を見ていた。
「……いえ。朝、偶然バス停で出会って、放っておけなかっただけですから」
「放っておけなかったって。観光客ですよね、その荷物」
「あ……その、違わなくはないけど、観光というより、昨日、友達の結婚式が松山であって……」
しどろもどろに答える私に構わず、飯塚さんは会話を続ける。
「じゃあ、本当は今日は観光して帰るつもりだったんじゃないですか? いくら幽霊が見えて会話ができるからって、かなりお人好しですね」
飯塚さんはチャチャを抱っこしたまま、私の向かいの、さっきまでおばあさんが座っていた椅子に腰を下ろす。
「お人好しっていうか、特に予定もなかったので……」
「どちらから松山に?」
「東京です」
空気を読んでなのか、たまたまなのかはわからないけれど、私に連れはいないのか聞かれなくて、内心ホッとする。
「失礼ですが、東京ではどのようなお仕事をされているのですか?」
だけど、次に聞こえた問いかけに、私は言葉に詰まった。
「それは……、広告代理店で働いていて……その……」
つい数ヶ月前まで、しんどいだの文句を言いつつ働いていた会社のことを思い浮かべながら、口を開きかける。適当に当たり障りのない会話をしていれば、突っ込んで何かを聞かれることはないだろう。
だけど、どうしてだろう。
私のことを知らない人だからなのか、私は昨日に備えて嘘に嘘を塗り重ねて作りあげた“至って普通に聞こえる近況”を話す気にはなれなかった。
「……すみません、嘘をつきました。私、今は無職なんです」
自分で言いながら、現状を再認識させられてこれまで何度も感じた絶望の気持ちを味わう。
それでも口にしてしまったのは、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。友人相手では、プライドという名のレッテルが邪魔をして、とてもできなかったから。
「広告代理店で働いていたのは本当ですが、経営状態が悪いからと今年の四月末に……」
クビとは言われてないし、辞めろと声に出して言われたわけでもない。だけど、徐々に仕事を減らされ、仕舞いには転職の話を持ちかけてくるのだ。
どう考えても、あからさまな退職勧奨だった。
「……美味しい」
だけど、ひとつだけ引っ掛かることがあり、思わず首を傾げた。
「まさか、これがいつも二人で食べていたタルト……?」
おばあさんとチャチャの反応から、きっと二人はいつもこの和菓子を分け合って食べていたのだろう。
でも確かおばあさんは、チャチャといつも“タルト”を食べていたと言っていたような気がするのだけれど……。
だからといって目の前の食べ物の名前はわからない。私は思わず疑問を口走っていた。
「まさかあんた、タルトを知らんかったん? 松山に来たなら、買って帰り」
「は、はい……」
どうやらチャチャとのやり取りに夢中になっていたおばあさんの耳にも届いていたようだ。
どうやらこれは松山のお菓子らしい。
「タルトは、松山の郷土菓子。地元ではタルトと言えば、洋菓子のタルトではなく、こちらを指す場合が多いのです」
飯塚さんが説明を添えてくれる。
「ありがとうございます。そうなんですね」
「私はタルトが大好きやったけん、いつも決まっておやつはこれやったんよ。またこうして大好きなタルトを大好きなチャチャと食べられて。さらには、こんなに良くしてくれる方々に飼ってもらえとるってわかって、私にはもう、思い残すことはないわ」
おばあさんの瞳から涙が溢れた。
だけどその表情にはもう出会ったときに感じた哀愁はなく、嬉しそうだった。
幸せな時間はあっという間だった。ついにチャチャとタルトを食べ終えたおばあさんは、余韻に浸ったあと、今日一番の笑顔を見せた。
「安心して、旅立てるよ」
そして、とうとうおばあさんは温かい、まばゆい光に包まれて空気に溶けていった。
──いってしまった。
もう、私たちの手の届かないところへ。
チャチャもそれは感じているようで、寂しげに窓の外を眺めている。
私もたった一日おばあさんと一緒に過ごしただけだけど、もう二度と会えないのだと思うとこんなに寂しく感じるのだ。チャチャはもっと寂しいだろう。
だけど、おばあさんが最後に心からの笑みを見せてくれたから。この世でずっとチャチャのことを気にやんだままさまよい続けるくらいなら、きっとこれで良かったのだと思う。
「チャチャとおばあさんのために、ありがとうございます」
声の聞こえた方を見れば、飯塚さんが寂しげなチャチャを抱き上げながら私を見ていた。
「……いえ。朝、偶然バス停で出会って、放っておけなかっただけですから」
「放っておけなかったって。観光客ですよね、その荷物」
「あ……その、違わなくはないけど、観光というより、昨日、友達の結婚式が松山であって……」
しどろもどろに答える私に構わず、飯塚さんは会話を続ける。
「じゃあ、本当は今日は観光して帰るつもりだったんじゃないですか? いくら幽霊が見えて会話ができるからって、かなりお人好しですね」
飯塚さんはチャチャを抱っこしたまま、私の向かいの、さっきまでおばあさんが座っていた椅子に腰を下ろす。
「お人好しっていうか、特に予定もなかったので……」
「どちらから松山に?」
「東京です」
空気を読んでなのか、たまたまなのかはわからないけれど、私に連れはいないのか聞かれなくて、内心ホッとする。
「失礼ですが、東京ではどのようなお仕事をされているのですか?」
だけど、次に聞こえた問いかけに、私は言葉に詰まった。
「それは……、広告代理店で働いていて……その……」
つい数ヶ月前まで、しんどいだの文句を言いつつ働いていた会社のことを思い浮かべながら、口を開きかける。適当に当たり障りのない会話をしていれば、突っ込んで何かを聞かれることはないだろう。
だけど、どうしてだろう。
私のことを知らない人だからなのか、私は昨日に備えて嘘に嘘を塗り重ねて作りあげた“至って普通に聞こえる近況”を話す気にはなれなかった。
「……すみません、嘘をつきました。私、今は無職なんです」
自分で言いながら、現状を再認識させられてこれまで何度も感じた絶望の気持ちを味わう。
それでも口にしてしまったのは、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。友人相手では、プライドという名のレッテルが邪魔をして、とてもできなかったから。
「広告代理店で働いていたのは本当ですが、経営状態が悪いからと今年の四月末に……」
クビとは言われてないし、辞めろと声に出して言われたわけでもない。だけど、徐々に仕事を減らされ、仕舞いには転職の話を持ちかけてくるのだ。
どう考えても、あからさまな退職勧奨だった。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
心の落とし物
緋色刹那
ライト文芸
・完結済み(2024/10/12)。また書きたくなったら、番外編として投稿するかも
・第4回、第5回ライト文芸大賞にて奨励賞をいただきました!!✌︎('ω'✌︎ )✌︎('ω'✌︎ )
〈本作の楽しみ方〉
本作は読む喫茶店です。順に読んでもいいし、興味を持ったタイトルや季節から読んでもオッケーです。
知らない人、知らない設定が出てきて不安になるかもしれませんが、喫茶店の常連さんのようなものなので、雰囲気を楽しんでください(一応説明↓)。
〈あらすじ〉
〈心の落とし物〉はありませんか?
どこかに失くした物、ずっと探している人、過去の後悔、忘れていた夢。
あなたは忘れているつもりでも、心があなたの代わりに探し続けているかもしれません……。
喫茶店LAMP(ランプ)の店長、添野由良(そえのゆら)は、人の未練が具現化した幻〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉と、それを探す生き霊〈探し人(さがしびと)〉に気づきやすい体質。
ある夏の日、由良は店の前を何度も通る男性に目を止め、声をかける。男性は数年前に移転した古本屋を探していて……。
懐かしくも切ない、過去の未練に魅せられる。
〈主人公と作中用語〉
・添野由良(そえのゆら)
洋燈町にある喫茶店LAMP(ランプ)の店長。〈心の落とし物〉や〈探し人〉に気づきやすい体質。
・〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉
人の未練が具現化した幻。あるいは、未練そのもの。
・〈探し人(さがしびと)〉
〈心の落とし物〉を探す生き霊で、落とし主。当人に代わって、〈心の落とし物〉を探している。
・〈未練溜まり(みれんだまり)〉
忘れられた〈心の落とし物〉が行き着く場所。
・〈分け御霊(わけみたま)〉
生者の後悔や未練が物に宿り、具現化した者。込められた念が強ければ強いほど、人のように自由意志を持つ。いわゆる付喪神に近い。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる