きみに駆ける

美和優希

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 壁には生徒が描いたのだろう風景画が貼られ、サイドの棚には胸像が飾られている。木でできた机と椅子が等間隔で並んでいるこの教室は、美術室だと察しがついた。
 美術は選択科目になっているため、美術を選ばなかった私が美術室の中に入るのは初めてだ。

「こんにちは」

 物珍しい空間に意識を持っていかれるなか、教室の隅から男性の声が聞こえた。
 見ると、今まで気づかなかったけれど、美術室の窓際の一番後ろの席に一人の男子生徒が座っている。
 ふわふわの焦げ茶色の髪に白い肌。ふわりと笑う顔は整っていて、美少年とは彼のことをいうのだろうと感じた。

「……こんにちは」

 そんなことを思いながら、私も軽く彼に頭をさげる。
 すると、彼は少し驚いたように目を開いた。

「俺のこと、わかる?」
「え……?」

 わかるか聞かれても、残念ながらノーだ。
 でもこんな風に聞かれるということは、私は彼とどこかで会っていたということだろうか。
 こんなに綺麗な男子に会ったのなら、忘れられなさそうなのに、全くもって思い出せない。

「いや、ごめん。誰だっけ?」

 考えたところで覚えてないものを思い出すことは不可能なので、申し訳なく思いながらも彼にたずねる。

「ああ、ごめん。一年の月島つきしま りつです。きみは?」
「一年三組の内村歩美」

 月島くんの手には綺麗な青のグラデーションの描かれたスケッチブックが見える。

「内村さんも、一緒に絵を描く?」
「そ、そんな! 私、美術はめっきりダメで、絵なんて描いても子どもの落書き以下の実力で……!」

 何だか緊張して、思わず捲し立てるように言ってしまった。

 さらには、ふふっと月島くんに笑われて、余計に恥ずかしくなる。

「……月島くんは、何を描いてるの?」

 一緒に絵を描こうと誘ってきたくらいなのだから、きっと月島くんは絵を描いていたところなのだろう。
 今立っている位置から見え隠れしている青色のグラデーションの正体が気になっていたことから、私は思わずそう尋ねていた。

「空だよ」
「空……?」

 空を仰ぐ月島くんにつられるように、私も空を見上げる。
 この窓から太陽は見えない位置にあるけれど、青い空はあまりに澄みわたっていて、目が痛いくらいだった。


 こうして空を直視するのはいつぶりだろう。
 陸上をやってた頃は、青空の下を駆けるのが大好きだったのに、今は青空にさえ私自身を責め立てられているように感じて苦しくなる。

「綺麗でしょ」

 だけど、私のそんな複雑な心境なんて知る由もない月島くんは、穏やかな笑顔で言う。

「そうだね。私には綺麗すぎて……」

 先の言葉を濁してしまった私にも嫌な顔をせずに、月島くんは口を開く。

「元々は人物を描いてたんだけどね、最近はめっきり空ばかりだよ」
「どうして?」
「どうしてだと思う?」

 そんなことを聞かれても、今知り合ったばかりの月島くんがどうして以前は人物を描いていたのに今は空を描いているのかわかるはずがない。
 私が反応に困っていると、月島くんはクスクスと柔らかい笑みを浮かべる。

「わからないよね。ごめんね」
「あ、うん……」 
「以前はモデルになる子がいたんだけど、その子がやめちゃったんだ」
「そうだったんだ」

 美術室の窓からは青い空とグラウンドが見えている。
 描こうと思えば放課後の運動部の人たちであふれているグラウンドにはモデルとなる人物はたくさんいそうなものの、どうやら月島くんは誰でもいいから人物を描きたいわけではないらしい。
 少し寂しげな月島くんの横顔に、あまり深く追求するのは悪い気がして私からはこれ以上何も聞けない。
 けれど、月島くんはその表情から一変して楽しそうに笑う。

「でも、今、見つけたよ。描きたい子」
「……え?」
「内村さん、俺のモデルになってよ」
「えぇえっ!?」
「もしかして何か部活とか入ってた?」
「いや、入ってないけど……」
「なら、明日からね。よろしく」

 何て強引な人なんだ。見た目の穏やかさからは想像つかない、強引な事の運びに思わず呆気に取られる。
 まさか月島くんの中で部活をしていない私って、暇人にでも見えているのだろうか。
 陸上部をやめてからは放課後の時間をもて余すことの増えた私にとって、あながち間違いではないのだけれど、複雑だ。

「……私なんてとてもモデルに向いてないよ。モデルならもっと可愛い人に頼めばいいのに」
「内村さんがいいと思ったから頼んだんだよ」

 何だ、こいつは……。
 そう思うのに、月島くんのモデルをやるのも別にいいかなと思う自分がいたのも確かだ。
 私は結局月島くんの申し出を断ることができなかった。
 そうすることで、自分の存在意義を見出だしたいと思う気持ちが、少なからず私の中にあったのかもしれない。
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