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あやかしは嫁を逃さない

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「あー……俺、よく耐えた」

 ぐったりと机に突っ伏した俺に、親父が「その気になればマオも紳士的になれるのだねえ」などと言ってけたけた笑う。
 うるさい。だって仕方がないだろう。茉優はなにも、覚えちゃいないのだから。

 本当はずっと、抱きしめたかった。
 体温を感じて、頬を撫でて。開かれた瞳の焦点が、俺に合っているのだと確かめて。

 生きているのだと。
 記憶にこびりついている、冷たく物言わない彼女の姿を、歓喜で塗り替えてしまいたかった。
 ――マオ、と。あの真綿のような愛おし気な響きを、今度こそ幾度でも堪能できるものだと。

(覚えてない、んだもんなあ)

 愕然としたのは否めない。けれど同時に、都合がいいと思った。
 知らないのなら、知ってもらえばいい。茉優の魂は"マオ"を好いているはずだ。
 なら、茉優には俺を好いてもらえる。"マオ"とは変わってしまった、俺を。

 優しくして、じっくり距離を縮めて。
 今世こそ、名実共に"夫婦"として幸せな時を過ごしてみせる。

(つもり、だったんだけどなあ)

「茉優……なんであんなに可愛いんだろうな」

 警戒心が強いくせに、純粋さと正義感が勝って知らない家にも上がってしまうし。
 どう考えてもいきなり嫁になれというほうが無茶だろうに、断る自分が悪いかのように申し訳なさそうにしているし。
 俺の口説き文句も受け流してしまうくせに、あんなにも、"会いに行く"という言葉に頬を和らげてしまうし。

「他のヤツに取られる前に見つけられたのも、運命ってやつだよな。あーー絶対、絶対衝動に負けるなよ俺……! "うっかり"で茉優に怯えられて嫌われでもしたら、俺は、俺は……!」

「わめくな。さっさと囲い込んで篭絡すれば良いだろう。相手は"ただ"の、人間の女なのだから。やつらの好むモノはなんでも揃っている」

「朱角。茉優を侮蔑するのは許さないからな。お前の私情を持ち込むな」

「ふん、客観的事実を述べたまでだ。お前こそ"私情"に目を曇らせて、大旦那様の足を引っ張ってみろ。それこそ俺はお前を許さん」

「そうだねえ。茉優さん、うちの嫁になってくれるといいよねえ」

 のらりくらりと茶をすする親父に、ここに一人反対しているヤツがいるぞと正そうとした刹那、

「大旦那様がお望みならば、あらゆる手段を尽くしましょう。必要とあれば、この身もあの者に差し出します」

「おい、ぜったい茉優に必要以上に近づくなよ!」

 ダン! と勢いに机を叩いてしまったのは、仕方ないだろう。
 冗談じゃない。いや、冗談ですら許せない。
 茉優に言い寄る男なんて、例外なくその目を潰してやりたくなる。

 通常のあやかしが相手ならば、この俺の放つ殺気で怯えたに違いない。
 だが腹立たしいことに、長い時を共に過ごしてきた朱角は、とっくに慣れている。
 朱角自身が、上位級のあやかしの血を持っているせいでもあるが。

「お前がつつがなくあの者を"嫁"にできれば、済む話だ。俺とて大旦那様のご命令でなければ、他者に媚びるなど死んでも御免だ」

「茉優さんにも"好み"があるだろうしねえ。前世の記憶がないのだから、必ずしもマオを選ぶとも限らないし」

「……万が一にも逃したくはないから、"家政婦派遣サービス"か?」

 核心をついたのだろう。親父が笑みを深める。
 今世ではただの野良猫に生まれたのが、おおよそ百年前。前世の記憶を頼りに彷徨い続けて、気づけば猫又となっていたのが、たしか五十年ほど前。
 あやかし事情など知らず、思うままに日本中を闊歩していた俺の前に、親父が現れたのもその頃だ。

『面白いことをしているね。よければ、手助けしようか』

 今ならわかる。親父にとって、あの頃の俺はうってつけの"運び屋"だったのだと。
 けれどもそれと同じだけ、理解している。あのまま一人で彷徨い続けていたら、俺は茉優と出会えないまま、野垂れ死んでいたのだと。
 ただの手伝いから"息子"となって、早三十年。そろそろ親父の性質を理解したと思っていたが。

「そんな事業をはじめるつもりだったなんて、一度たりとも聞いたことないぞ」

 俺達"あやかし"では対処しきれない依頼者がじわじわと増えているのは、知っていた。だがあの紙はあきらかに、"茉優のために"作られたものだった。
 勤務先の聞き取り用紙だって、急ごしらえで作られたものではない。
 まだ見ぬ茉優の状況など知る由もないはずなのに、親父は随分と前から、朱角にこの"切り札"を用意させている。

「――駄目じゃないか、マオ」

 化け狸がわらう。
 かどわし、たばかる唇を惜しみなく吊り上げ、深く曇りのない欲でその目をつややかに色づかせる。

「欲しいのなら、ちゃんと"準備"をしておかなくては。機は自分で作らないと、いくら尽くしたって逃げられてしまうよ」

 執着が強く、欲深く。いかなる理由があろうと、己の"獲物"は手に入れなければ気が済まない。それが、あやかしの本分だ。
 俺だって、変わりない。親父のように生まれながらの純粋なあやかしではなく、猫から猫又へと変化した後化けのそれであったとしても、あやかしであることに変わりはないのだ。

 それでも"猫かぶり"が得意なのは、前世の、人間として生きていた記憶が残っているからだろう。
 逃してやりたい。記憶がないのなら、なおさら。
 理性はそう祈り続けているのに、抗えない本能が、逃してなどやれないと渇望に喉をやく。

「……俺があやかしとして生まれてしまったのは、前世で茉優を守れなかった罰なのかもしれないな」

「あやかしであったからこそ、彼女と再会できたのかもしれないよ。少なくとも、今回の件に関しては、マオがあやかしだったからこそ守れたのだからね」

「……だな」

 マオ、と。親父は慈しむような顔で言う。

「上手くやりなさい。彼女が欲しいのは事実だけれど、それ以上に、私たちはお前の幸せを願っているのだから」

 さて、この狸の本意は、いったいどこに向いているのだろうか。
 茉優に? 俺に? いや、考える必要もないだろう。
 あやかしとは、強欲なものだから。

「恩に着るよ、親父」

 告げた俺は確認するまでもなく、あやかしの顔でわらっていただろう。
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