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捨てられたチワワがオペラ歌手を目指す物語
4 別れ、そして旅立ち
しおりを挟む留学先は何も迷わなかった。
当然フランスだ。
大学ではフランス語も履修したし、語学学校のイベントに参加したり、フランス語の先生のレッスンを聴講したりと、自分でできる範囲でも勉強した。
具体的な留学準備は院2年から始め、大学院を卒業すると同時に現地の春期講習会に参加することが決まった。篠原先生も協力してくれ、俺に良さそうな先生を紹介、斡旋してくれた。講習でレッスンを受けて、よっぽど何か問題がなければ9月から入学できる。
下宿先も手配した。準備のためのやりとりもした。あえてパリではなく、少し郊外にあるコンセルヴァトワールを選択した。滞在先も地方の家で、音を出すのも問題ない。ピアニストとヴァイオリニストがいる音楽一家。ピアノとヴァイオリンなんて、一番練習時間が長い楽器だ。紹介文を読んでも、真面目な家庭なのが伺える。俺の為にもう一台ピアノを入れてくれるらしい。順調で怖いくらいだ。留学の方はとんとん拍子に準備ができた。
あとは練習に勉強に卒業準備で、寂しいとか言ってはいられなかった。大学は卒業演奏だけで済んだが、大学院は論文もある。オペラにおける演劇の役割、識字率や紙と羊皮紙の文化に絡めた卒業論文は予想以上に良い評価を頂けたものの、とても数年の勉強で書ききれるものではない。まだまだ勉強しなくてはいけない。俺は、あくまでちえみと結婚するのを許してもらうために留学を決意したようなものだったが、本当にオペラと演劇をきちんと勉強してこようと決意した。一生の仕事にするのだから。
ちえみは、大学に入学したばかり。穏やかな愛をあたためている生活に満足し、何の疑問も抱いていなかった。無理もない。ちえみは何も知らされていなかった。俺も渡仏の件は伝えていなかった。
たまに大学のカフェテリアで会ったら必ず引き止め、決して大袈裟にはしなかったが、舞台上で最愛の人と視線を交わすかの如く熱く見つめた。甘いものを食べさせたり、ちえみの友達がいれば一緒にご馳走したりした。大学一年の女子達には、音楽大学卒業後も勉強を続けていく覚悟なんて、まだまだ先のことだろう。その笑顔を曇らせたくなかった。いや、勇気がなかった。待っていてほしいと言うことも、待っていてもらうことにも、自信がなかった。ずっと側にいるならともかく、女として大切な年代に、俺だけに縛りつけていいのか、言ってもいいものなのか、いつ言えるのか、自分にもわからなかった。軽口ならいくらでも叩ける。
しかし、演技を学ぶ前からのつきあいであるちえみに、嘘は通用しない。
俺の部屋にこっそりやってくるちえみには、
「俺以外には、絶対に許すなよ」
と言い聞かせ、師匠の目を盗んで抱いていた。
春期講習会も滞在先も決まり、知らないのはちえみだけだった。あまり直前に伝えるのもまずいだろう。俺はちえみにどのように伝えるか、篠原先生に相談した。
「わかった、俺から話そう。徹がここまでになってくれて嬉しいし、二人が仲良くしてくれるのも嬉しい。ちえみのことをそこまで想ってくれてありがとう。徹がいない間、ちゃんと見張っておくからな」
篠原先生の真面目な台詞に、俺は責任というものを感じた。
「ありがとうございます」
短いやりとりだったが、お互いの様々な思惑が交差した。今後はシリアスな役も演れると初めて確信した。これがなければ、上辺だけ格好つけた浅いものになっていただろう。俺はいろいろな意味で、篠原先生に心から感謝した。
俺は、春期講習会に出発する3ヶ月前くらいから、ちえみを抱くのをやめた。いつでも手の届くところにいたが、これから自分を抑えていかなければならない。
それに、万が一妊娠して俺に相談できないなんてことにならないように。寂しく思われないよう、時間をかけ、優しく抱きしめてキスをするだけに留めた。ちえみから何故かは聞いてこなかった。ねだったり誘ったりする女ではない。
それから家族揃ったある日の夕食時、篠原先生が口を開いた。
「ちえみ、徹は夏からフランスに留学することになった。準備で、春に出発する。少し寂しいだろうが、待っててやりなさい。素晴らしい男になって戻ってくるだろう」
ちえみの手が止まった。何も言わなかった。そして、それ以上何も食べなかった。俺も、食べられなかった。食べられないのは、あの、高3の受験前の、戻してしまった日以来だった。あの時には、もう好きだった。そんな辛かった日も、ずっと笑顔で側にいてくれたちえみ。
これまで6年も愛をあたためてきた。辛い。
ちえみは食べないまま、しばらく部屋に籠ってしまった。もともと俺は、ちえみの部屋に行かなかったし、今行ってしまったら、自分が止められないだろう。そんな風に抱きたくなかった。ちえみの方が辛いに決まっている。
篠原先生が、後でちえみに話してくれたそうだ。俺がちえみと結婚したいと考えていること。自分が留学しろと言ったこと。帰ってくる頃にはちえみが大学を卒業するだろうからと俺に話したことを。仲の良い家族だ。自然に、俺を溶け込ませてくれた。この家を出るのが辛い。
それからしばらく、俺達はぎくしゃくした。それはお互いが相手の負担にならないようにという気遣いだと伝わっていた。切なくて切なくて、文字通り切られそうだった。「行かないで」とか「寂しい」とか言われても、どうにもならない。ちえみはそういうことを、ちゃんとわかって、我慢して、なるべく普通に普通にと振る舞っていた。いじらしくて堪らなかった。「待ってろ」なんて言ったら、更に辛い思いをさせるのではないかと、一旦手放す覚悟をしなければいけないかとも考えた。嫌だ。
なるべく、ちゃっと行ってちゃっと帰ってきたい。ちゃんと、ここへ帰ってくるから居場所を確保しておこう。
「部屋は掃除しなくていいから、このままにしておけ」
そう言って、わざと散らかしておいた。伝わるか?
ちえみを見つめて、優しく触れるだけのキスをした。
それが、留学前にした最後のキスだった。
明日成田を発つ、という前日の夜。
普通に普通にと思って過ごしていても、いよいよ最後の晩餐となった。俺の好きなものばかりで、見た瞬間、俺の方が泣きそうだった。どんな思いでこれを作ってくれたのか。泣きながら作ったのではあるまいか。こらえながら作っただろう……。俺は、前に座ったちえみの顔を見ることが出来なかった。
泣いたって何したって、もうしばらく食べられない。
俺は箸を進めた。
食べ慣れた、ちょっと濃いめの、いつもの味。特別な献立ではない、普段の、俺が好きなおかず。盛付はもちろん、ちえみと奥様がどんなに家族の健康のため、栄養と下ごしらえに気を配って手間暇かけて調理しているか、俺は知っている。
美味しかった。
誰も、口を開かなかった。
そんな時間も、いつの間にかたくさん過ぎた。
「出発は明日なのよね。今日は早めにお風呂に入って、ゆっくり休んでね」
奥様が優しく言ってくれた。
「ありがとうございます。出発は明日ですが、今日は成田のホテルを取ってあるので、これで。今まで、本当に……ありがとう、ございました。しっかり、勉強してきます」
俺は一言ずつ感謝を込めて伝えた。奥様にも篠原先生にも、今夜のうちにここを発つことを誰にも言っていなかった。もちろんちえみにも。
「うそ、徹くん、やだ……」
ちえみは立ち上がり、俺に抱きつきたがった。ごめん!
俺はちえみを抱きしめることはせず、篠原先生……お父さんの胸におしつけた。全ての力、ありったけの力で俺に向かってきたちえみを止めるのは、そのエネルギーに一瞬怯んだが、そのままお父さんに託した。お父さんは、ちえみをしっかり抱きとめた。
別れだ。
「ちえみ、待っててくれ。先生、行ってきます」
「あぁ。気をつけて、元気で」
言った。言えた。しかし、次の瞬間。
うわあああああ!と子供のように声をあげて泣いた。
ちえみの声は、背を向けた俺が門の外に出ても聞こえてきた。あんな風に泣かせたくなかった。ごめん。どうすればよかったか、考えるゆとりもなかった。
俺も、平静を装うのに必死だった。指輪でも買っておけばよかったかと気づいたのも、マヌケな程後だった。成田空港近くのホテルの部屋で一人になった瞬間、俺も泣いた。後から後から、止めどなく溢れてきた。
ちえみの声は、いつまでもいつまでも耳に残った。
機上の人になっても。
ちえみ、愛してる。
駄目だ。
俺も、いつまでもメソメソしそうだ。
フランスに着いたら、一旦忘れさせてもらう。
許せ。
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