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捨てられたチワワがオペラ歌手を目指す物語
2 たくさん食べて大きくなあれ
しおりを挟む篠原先生のムスメは「ちえみ」という。
篠原先生が親バカなのではなく、客観的に見ても確かに可愛い。とても可愛い。ちょっと幼すぎて手を出すのは憚られる年齢だ。愛でるのに丁度いい。これならむしろ妙な気を起こさなくて済む。
篠原先生は歌が上手くて、綺麗な奥さんと可愛い娘がいる。楽しそうで、そんな人生を初めてイイなと思った。
地元の佐々木先生は結婚していなくて好きなピアノを弾いて暮らしている。風貌ショパンで、まぁ……まだ若いしイケメンだし。たまにベートーヴェンをさらわなきゃいけないのだけが憂鬱らしいが、大人だし仕事だし、僕もそうなったら流石に腹を括るだろうと思っていた。そんな感じの人生を送るのかなと。
篠原先生はキッチンの奥で女達に、
「あれは有望だ。とにかくたくさん食べさせて甘やかせ」
と言っていた。
僕のことをどうするつもりなんだろう。断れない性格が良かったのか悪かったのか、迷ったまま流されている自覚だけはたっぷりあった。
篠原先生は、吉村先生のことを知っているようだった。
何となく探りを入れてみたら、
「今、俺の家で面倒見てるからって言ってある。徹は心配しなくていい。ピアノに戻っても構わない。ピアノ演奏科に合格したら吉村門下になるだろう。ただ、声がそんなにイイんだからさ、歌やってさ、ピアノは副科でもできるんだし、ね?」
とにこやかに答えてくれた。
言わなかったけど、篠原先生のことを「お父さんありがとう!」という気持ちになった。
気持ちが固まると、それは食欲に表れた。僕はもともとそんなにたくさん食べる習慣がなかった。一日一食くらいで大丈夫だった。それが、声楽のための体づくりと称して食事の量が増え、食事の回数が増え、デザートまで食べさせてくれた。ヨーグルトもアイスクリームも手作りだった。売っているものより、格段に美味かった。何しろ、好みに合わせて甘さや濃さを変えてくれたり、トッピングが多彩なのだ。
それらはちえみと母親が一緒に作ってくれた。僕が食べる時、ちえみは食べなくても一緒にテーブルにいてくれた。最初は特に話をすることもなかったが、いてくれた方が食欲がわくし、美味しいと言うと、嬉しそうに微笑むのが可愛かった。本当に、どれもこれも美味かった。確かに美味かったのだが、慣れない生活、慣れない量、これまで目指していたピアニストを諦めるという精神的な混乱で、ある時気持ちが悪くなって急激に戻してしまった。佐々木先生のことだけが気がかりだった。佐々木先生に黙って出てきてしまった形になったことが、申し訳なかった。ちえみは汚くなった俺にくっついて「ごめんなさい、ごめんなさい」と言って泣いた。
おとなしくて顔も好みで、この時には好きで好きで抱きしめたかったが、具合が悪かったのと、師匠のお嬢さんにイケナイことやイケナイ妄想などしてはイケナイし、まだ胸もないような年頃で、イケナイことづくしの為にいろいろと我慢していた。
そんな悩ましい悩み事はあったが、冬期講習までの悩みは本当になくなった。
毎日のように発声をし、少しずつ歌らしいものを歌っていく中で、なんだか自分が音楽的に別の人格になっていくのを感じた。まあまあ背が高いのに50キロちょっとだった体重は、受験する頃には80キロを超える程になった。歌い手の体にしてはまだまだだが、以前の僕を知っている人が見たら、多分わからないんじゃないだろうか。
僕の見えないところで師匠がちえみに、
「よくやった。あいつはすごい男になるぞ」
と言っていた。
俺を太らせたことで、ちえみが褒められているのを聞いて、ムズムズと幸せな気持ちになった。
優柔不断だった僕は、褒められて頑張る伸び伸びとした子供に戻ったようだった。それは脱皮のようで、殻を破るのは楽しかった。
ちょっと何か新しいことができると、篠原先生はまるで子供に「高い高い」をするお父さんのようになり、
「いいね、いいね~、すごくいいね~!徹の声はいい声だね~!」
とわかりやすく褒めてくれた。
もう、あれだけ悩まされた吉村先生だったら、最っ高に巧く弾けたところで、当然とばかりに無言で先に進むか、
「……ま、このくらい弾けるならば、文句はない。せめてこれを先週聴かせてもらえたら……」
とか溜め息をつきながら言われるところだ。少なくとも、「やったー!先生に褒められた!」みたいな気分にはならない。決してならない。それに、先生の前で最っ高に巧く弾けることなんてない。一生に一度か。あ、この前言われたから次は来世か。終わったな。
もう、いいや。ピアノじゃなくても。ピアノは弾いちゃいけない訳じゃない。
僕は拾ってもらった篠原先生に尻尾を振って生きていこう。
「雑種を拾ったと思ったらチワワだったのか!」
とか言われるようになるといいな。
よし、僕は捨てられたチワワだ。
そして僕は、入学試験の日には課題曲を朗々と歌い上げた。声楽専攻でも、おまけ程度にはピアノの試験がある。
副科ピアノの試験官に吉村先生がいたのを見た時には、本当にチワワになりたかった。そうしたらキャイン!! と叫んで尻尾を丸めて逃げたのに。
でも、モーツァルトを弾いた。ピアノ演奏科受験でもひけを取らないモーツァルトだ。楽勝だ。
面接では、学長の他は声楽の先生方ばかりだったようだ。
ピアノのコンクール入賞歴で賑やかした音楽歴を見て、
「声楽は始めたばかりとあるが、大変興味深い。準備期間は短いけれど、将来が楽しみだ」
と、明るい先生方に言われ、諸手を広げて誘われたような気持ちだった。
晴れて音楽大学声楽科に合格し、師匠は僕を息子のように可愛がってくれた。
「徹、何でも俺の真似をしろ。真似て学べ」
と言う篠原先生の真似をして、自分のことを『俺』と言うことにした。
俺は師匠に恩も感じていたし、当然ながら勉強もしたし、ちえみのことも好きだったから、図々しく確信犯で弟子として居候を続けた。まぁ、親が下宿代は払っていたが。金額以上だ。
ある時、思い切って師匠に聞いてみた。
「いつ、結婚してもいいですか?」
「留学して帰ってきたらかな?その頃にはちえみも大学を卒業するだろ!」
明るく答えてくれたが、俺に求められたハードルは存外に高かった。サラリーマンが転勤を申し渡されるのって、こんな気分なのだろうかと、ちょっとふらついた。ぷるぷるしたかもしれない。
とてもイヤだとは言えない。まぁ、そんなに甘くないか……。確かに、まだまだなのは自分でもわかっている。
おっとりして無邪気で何も悩んでいなそうなちえみは、今日も母親と一緒に夕食を作っている。今日はテリヤキチキンにポテトサラダか。必ず俺の好きなものを作ってくれる。
留学か……。
もう、ある程度育ったところで、ちえみはとっくに俺のものにしちゃったけど、あとどれだけ我慢しないといけないんだ?あ、もしかしてバレてるからこうなった?
ちえみは蝶々のように初心で可愛いが、俺はピンカートンじゃないぞ。
「俺以外には、絶対に許すなよ」
そう言って師匠の目を盗んで抱いた。
なるべく、ちゃっと行ってちゃっと帰ってきたい。
しかしながらちえみが可愛くて、ちえみと離れがたくてついつい大学院に行って、留学を先に延ばしていた。
どうしようかなぁ~。
久しぶりに、そう呟いた。
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