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捨てられたチワワがオペラ歌手を目指す物語
1 きっかけは一杯の醤油ラーメン
しおりを挟む疲れた。
高校三年の冬期講習が終わった。
『ピアノ演奏科受験コース 松本 徹』と書かれた講習証を外して鞄にしまう。裏には講習メニューの出欠や、ソルフェージュクラスの成績印が記されている。全て「A」が取れた。問題ない。問題はないのだが、悩みがある。
音楽大学の講習というのは、個人レッスンはあるし、レベル別で少人数の授業はあるし、もれなく指名されるしで、疲れた。非常に疲れた。講習の度に同じメンバーになるから、男は皆友達になる。正直、ライバルはいない。多分、ピアノ演奏科には5番以内で入れるだろう。これはもちろん独り言。
個人レッスンの先生は、音大に入ったらこの先生に習うのだと、何となくレールを敷かれている。ただ、それはいい方だ。同じ先生に習っていても、受け入れる側の事情か何かは知らないが、今年は吉村先生の受け持ちが何人可能かによる。公にはならないが、それだけに蓋を開けるのが怖い。
今年の吉村先生の門下生から受験するピアノ演奏科志望の中では、おそらくトップの成績がとれるだろう。一人ならこのまま僕が。二人なら僕とあの人だろうなと想像がつく。ピアノなんて聴けばすぐに実力が判るし、誰かが大失敗とかしない限り、そうそう順位はひっくり返らない。このくらいのレベルだと、皆失敗なんてしたりしない。他の門下生が心配するようなこと……入試には合格するけれど希望の教授に習えないなんてことは、僕はおそらく問題ない。
吉村先生は厳しい。それは有り難い。しかし怖い。レッスン前はただただ恐怖。普段は地元の先生に習い、こうして講習の度に高名な吉村先生のレッスンがセッティングされているということは、少なくとも僕は気に入られているのだろう。こちらからは選べないのに!
地元の佐々木先生は優しい。男だけどゴツくなく、柔らかい雰囲気で、例えて言うなら、有名人だとショパンとか?そんな感じ。イチゴのクレープを持たせると怖いくらい似合うから、面白くて、よくレッスンの時に小遣いから買っていった。
「やだぁ、徹くぅん、コレ大好き~!マイフェイバリット!ありがとっ。遠慮なくいただくネ。さ、弾いて弾いて!」
と、クレープをちびちびと食べながらご機嫌でレッスンをしてくれる。好きな作曲家も同じ。ドビュッシー、フォーレ、プーランク。あと一人挙げるならラヴェル。クラシックが好きな奴、ピアノが弾ける友達はいても、こんなコアな趣向の友達は、地方にはそうそういない。僕のレッスン日の生徒は僕だけらしく、延々と互いに弾きあう。僕達はまるで仲良し兄弟のようにレッスンの時間を楽しんでいた。
吉村先生は優しいだけでなく、一応苦言も口にする。
イチゴのクレープを食べながら、
「でもねぇ、徹くぅん。言いたかないけどぉ、ピアニストになるならね、音大に行くならね、ソレばっかりじゃダメなのよぉ~」
などと言う。
僕はすっかり慣れてしまったから気にならないが、男だがこんな喋り方をするので、この辺の生徒はあまりいない。多分僕だけ。他に見たことがない。別の曜日に別の県の県庁所在地の音楽教室まで行って上級者を教えるクラスを担当しているらしい。
「どうしよう~、明日は別県なのぉ~。どうしよう~」
が口癖だ。
「苦手だけど、ベートーヴェン練習していかなきゃだわ~。明日は『告別』持ってくる生徒がいるのよ。憂鬱っ!」
と一連の口調がワンフレーズとなって繰り返される。
だから、僕もベートーヴェンとかやらなきゃなって、わかってる。わかってるけどやりたくない。入試は古典課題としてベートーヴェンかモーツァルトかどちらかのソナタを選択する必要がある。そんなもの、迷わずモーツァルト一択だ。大学に入ったらベートーヴェンのソナタ全楽章を弾く試験があるが、その時ばかりはやるつもりだ。まぁ、ベートーヴェンのソナタの中でも『幻想』か『テレーゼ』なら優雅で、やってもいいなと思う。しかし。
吉村先生のお得意はベートーヴェンだ。入試までは地元の先生とモーツァルトを仕上げるにしても、入試をパスして入学したら、ベートーヴェンのソナタを全曲はもちろん、ベートーヴェンのコンチェルトも間違いなく全曲やらされるだろう。憂鬱どころではない。苦悩の学生生活になりそうだ。
別の先生に習うことも考えた。何故か佐々木先生は吉村先生の門下生だし、佐々木先生は大好きだし、何より吉村先生に怖くて言えない。とてもじゃないが、切り出せない。袖の下とかも無理。あ、使い方が微妙に違うか。
どうしようかなぁ~。一生ドビュッシーを極めるとか、ダメなの?仕事にするなら何でも弾かなきゃなのはわかる。僕はヨレヨレと門を出た。
あとは適当に帰れる時間の新幹線でいい。予約もしていなかった。行きだけは間に合うように時間を鑑みて切符を買うが、帰りは計画を立てていなかった。
ひとまず何か食べたい。あの先生のレッスン前には、とてもじゃないけど食べられない。緊張で喉を通らない。レッスンの前の晩も、あまり入らない。いつから食べていないか、……忘れた。そろそろ命がヤバい。
音大近くのラーメン屋に来た。
一応男だから一人でラーメン屋くらいなら入れる。ここのラーメンは好きで、講習の度にここに来る。店の雰囲気も家庭的で、なんとなく好きだ。今度ここに来る時は、受験の時か……。ここのラーメンともしばしの別れだ。腹減った。
大学のカフェテリアは、まだ気後れする。オサレすぎて落ち着かない。無事に合格したら食べに行きたいが。その頃には服とかもちょっといい物を買って、彼女と一緒にキャラメルふわラテとか何とか。顔を近づけて音楽の話とかどうでもいい話とかくだらない話とかを延々としてみたい。彼女なんてできるのだろうか。
ひとまずラーメンだ。さっきの新曲視唱が無駄に疲れた。受験は近いし、男は少ないし、何曲も歌わされる。ピアノ演奏科の視唱テストは、女向けかってほど微妙な音域で、どうにも定まらない。
「あ、醤油ラーメンください……」
「えー?聞こえないよー!なんだってー?」
しまった。またか……。あまり声を出すのは好きじゃないが仕方がない。ラーメンのためだ。僕は大きく息を吸った。
「っっっしょうゆラーメン!お願いしますっ!」
「はいよっ!醤油ラーメン一丁!」
快いフレーズが厨房に響いた次の瞬間。
「君、い~い声してるじゃないかぁ!」
誰かが僕に声を掛けてきた。
これが篠原先生だった。
その時は、声楽の先生だとは知らなかった。もちろん「世界のバリトンか!」とまで言われるような先生だとも知らなかった。疲れていたし、悩んでいたし、何より腹が減っていた。
昼時でもない、夕食の時間でもない半端な時間で、僕も一人、あちらも一人。なんとなく隣に座って食べることになった。
「冬期講習終わった学生さんでしょ?主科レッスンの担当は誰先生だった?……吉村?吉村……、、、吉村ぁ?って、ピアニスト目指してるのぉ?歌じゃないのぉ?そんないい声して?いい顔してるのに?何で?ほら、イタリア生まれの、高音も凛々しいあの人にソックリじゃない!『オテロ』なんて歌わせたらもう最高だよ!君はまだちょっとヒョロヒョロだけど、醤油ラーメンだけ?一杯めが醤油?二杯目は?たくさん食べてさ!そんないい声なら、あんな風になれそうだよ!有名でしょ!知らない?」
声楽の先生か、どおりでめっちゃいい声だな。
「誰の話デスか?それじゃわかりませんよ。そんなに有名なら名前忘れないで教えてください。それに、ラーメン二杯目なんて、食えません」
大学の先生らしいから、一応おとなしくしておいた。ピアノ科の先生方と違って、元気だな。ちょっとウザうるさい。落ち着いてラーメン食べたい。
「何か悩んでる?今日で最後でしょ?何年生?……三年生!いい時期じゃない!ちょっとウチおいでよ!可愛いムスメもいるし。美味しいもの食べさせてあげる。今夜泊まってさ、一緒に歌って遊ぼうよ。悩みなんてなくなるよ!」
断るのも面倒くさくて、その先生にお持ち帰りされた。
先生の家は、大学のある沿線でいくつか……割と近くだった。
「おかえりなさい!」
綺麗な奥さんとムスメ……確かに可愛いムスメが出迎えてくれた。玄関を開けた瞬間から、曲がった階段の上からは、いい匂いがする。なんだかいっぺんに何かが吹き飛んだ気がした。
奥さんとムスメが一緒に料理した美味しいものを食べさせてくれ、一緒に歌って、先生家族が麻雀とかして遊んでくれた。男兄弟で育った僕には甘やかな雰囲気を感じ、初めてなのに、妙に居心地が良かった。
既に高校には登校する必要もなかったから、このままここで世話になると親に電話した。親に驚かれはしたが、そこは篠原先生が話してくれて、何だかいつの間にか声楽科を受験して、万が一ダメそうなら第二志望でピアノ演奏科を受験するという、微妙な受験生となった。
ピアノ科は危ないわけではない。もちろん、トップで特待生とか、今年は無理だ。今まで講習どころかコンクールにも出てこなかった「マキ」とかいう桁違いに上手い奴がいるらしい。
コンクールで有名なイケメンの「タカハシ」は音大には行かないらしく、講習の類では結局一度も見かけなかった。誰かが、タカハシが習っているロシア人の教授に探りを入れたら「タカハシはシュミ」と言っていたとか。タカハシがシュミなら僕はどうなる?ロシア人教授に言わせたら「マツモトはママゴト」か?いや、日本語できないからママゴトなんて知らないか。
わかってる。僕はコンクールではそこそこ。コンクールには得意な曲しか出さないからナンダカンダで入賞歴もあり、ここまで来ちゃったけど、僕は特定の分野、決まったスタイルの曲しか上手くない。
普通のピアノ科男子のように、華麗なリストとか、重厚なラフマニノフとか、苦悩のベートーヴェンとかは無理。ドビュッシーとか、フォーレとか、プーランクをサラサラ弾くのが好き。大きい音とか、エレガントじゃない音は出したくない。練習するのも嫌だ。
どうしようかなぁ~。
どうしようかなぁ~。
僕は、佐々木先生と同じ口調で呟いた。
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