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28 独り言は一人で
しおりを挟む三月。
受験も終わった。
合格発表も、事務手続きも終わった。
特待生の通知書ももらった。
スーパーで夕食の材料を買うつもりで駅の方へ向かった。向こうから知っている人が歩いてきた。
花菜だ。
「花菜……」
「先生……なんで、ここに?」
俺を「先生」と呼んでいた花菜。変わってない。
「ピアノのレッスンの帰りなんだ。先生の家がそっちで……そこの音大に合格した」
花菜は?と聞こうとしたら、
「ずるい!いきなり別れたり、いきなり現れたり。先生のこと、もっと知りたかった。今でも知りたい!」
と捲し立てられた。元気そうでよかった。今は彼氏はいないみたいだ。よかった。
「ごめん。今からでもいいならうちに来ていいよ」
俺は安心して、笑いそうになりながら言った。同じマンションだしな。エレベーターのドアを押さえた。
「どうぞ」
そう、あれから梢は一回もここに来なかったし、お互いに連絡しなかった。それでよかった。俺が合格したことは、ソルフェージュを教えてもらった槇るり子先生の門下生から知るだろうし、特待生になれたことは会報などから同窓生に知られることになるだろう。感謝している。引き際も見事な、いい女だ。
「ここ」
賃貸だから簡易な表札ではあるけれど、『高橋』という文字を見ていた。そう言えば、名字も教えていなかったかもしれない。
未だに簡素な部屋。2回だけ梢が来た部屋。あのままの部屋。何も変えていない。受験用のテキストとノートがいくらか増えただけだ。なかなか心の整理ができなかった。
今は花菜がいる。
「おっきい……」
花菜はピアノを見てびっくりしていた。
「それほど大きくないよ。コンサートで弾くのは280センチとか。これは180センチ程度だから……」
実家から持ってきたものだ。多くの音大生は、帰省した時に弾けるように、実家のピアノをそのままにして、大学に入学する時にもう一台購入するらしい。俺は実家に帰るつもりはない。そのために、学生専用ではないタイプの部屋を選んだ。確かにピアノが大きめだから、ここくらいしかなかった。ここを引っ越す時はどんなタイミングなのか、想像もつかない。小説だったら、何処ぞの御曹司と卒業と同時に結婚……とかなるのだろうか。それはいかにも女向けの小説だ。俺は男だ。
結局、余計な家具も増やさないまま、小さなテーブルしかない。花菜を座らせたタイミングで、俺のポケットから携帯電話の着信音が小さく鳴った。
「ごめん、待ってて……はい、高橋です」
教授だ。話しながら紙にメモをする。手続きの意味がわからないらしい。それはこっちもです、教授。あ、日本語で書けばいいか。『捺印』『サインは不可』事務手続きのことで、教授がしなければならないことか。書類はまだこっちにあるからな。
「教授から。日本語わからないから手続きやってくれって。ちょっと待ってて」
手帳にそれらを書き写した。今度のレッスン日で間に合うだろう。
書き終わった後、
「ねぇ、初めて聴かせてくれた曲、もう一度聴かせてくれない?」
とお願いされた。
「いいよ?」
花菜に聴かせた時は花菜の部屋のアップライトピアノだったし、酒の出てくる店で弾いていた時だ。同じ曲だからこそわかる。やはり、あのままでは駄目だった。僅か三ヶ月だったのに。もう一ヶ月続けていたら、合格はできても特待生になれなかったかもしれない。その前に、教授がレッスンを引き受けてくれなかったかもしれない。
「趣味で弾けばいいじゃないか」
と言われただろう。実際、多くの男はそう言われる。
花菜がこっちを見ていた。
「何ていう曲なの?」
「ショパンの『幻想即興曲』」
「何でその曲?好きなの?」
「いや、花菜が好きそうだなって……」
「……すごく素敵だった。私がそんな曲が弾けるの、いつになるんだろう。慎二くんは?それ最初に弾いたのっていつ?」
「小学生」
「すごすぎてイマイチわかんないな。じゃあバイエル終わったのはいつ?」
「まぁ、バイエルじゃなかったけど、そういうのは小学生前には……」
「そうなんだ。音大出たら、音楽教室の先生とかになるの?」
「ピアニスト」
「えぇぇ?どんな人がなるのか、全然わからなかった。音大は高いって聞いたし、お金持ちなんだね」
「一応、入試はトップで学費も免除になった。今日はその手続きもあったんだ。もともと音大に行きたかったけど、親に反対されてたから国立大学にいたんだ。でも、ピアノが諦められなくて……花菜と会っていた時以外は、一日中練習していたし、後期から、大学は全部休んで音大入試の為の勉強をしてたんだ」
そろそろ聞いてもいいだろうか?
「花菜は?」
「……卒業できた。先生のおかげです。後期試験はイマイチだったけど、前期試験がちゃんとできたから、単位だけは」
「そうなんだ」
「就職は決まらなかったから、……あと数日で実家に帰るの」
「そうか……」
俺は、もう何も言えない。
何もしてやれない。
地元で花菜に合う、花菜のことがかわいくてかわいくてたまらない男に守られていてほしい。
花菜が抱きついてきた。俺は優しく抱きしめ返した。
花菜が納得するまで、こうしてやる。
俺の腕の中で、花菜がもぞもぞと言う。
「これから先生より素敵な人と出逢える気がしない」
「俺はそんなにいい人間じゃない。花菜はかわいいから、悪い男にひっかからないように。それだけが心配だ」
花菜は体を離した。
「ありがとう。もう大丈夫。応援してるから、カッコいいピアニストになってね!」
ありがとう。
俺は言葉に出来なかった。
まだ、そこまでの自信はない。
花菜は、ゆっくり外に出て、振り返らずにエレベーターに乗った。
好きだったよ、花菜。
ごめんな、花菜。
エレベーターで降りて花菜が部屋に入ったかな、というくらいに、俺も自分の部屋の鍵を締めた。
カチャリという施錠音は、鍵だけの音ではないような気がした。
花菜との思い出からも卒業しよう。
そして、小説を処分しようと思った。
女が書く、女のための小説。
俺は高校の時、レッスンで東京に出てきた時にこれらを買っていた。まだ知らぬ女への興味と共に、これらを傍らに置いていた。
俺も自分が女だったら、キャーキャー言って槇を追いかけたりするのだろうか。
来月、俺は自分で勝手にライバルだと思っていた槇のいる音楽大学に入学する。
今まで同じ学年だから「槇君」と呼んでいたが、これからは「槇先輩」と呼ぼう。
それでも「槇先輩」はきっと、これまで通り接してくれるだろう。
東京に来てよかった。
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