Vibrato 

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19 女が教えてくれた新しい世界

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 夕方。

 長澤梢に連れて行かれたのは、喫茶店だった。アンティーク風のグランドピアノが置いてある。


 店主とは顔馴染みらしい。


「聴かせて?」

 長澤梢が僕に言った。

「どんな曲が聴きたいの?」

 俺は、彼女が何を知りたいのかわからなかった。ただ、僕の腕前が知りたいだけなのか?

「何が弾けるの?」

 逆に聞かれた。困ったな。

「クラシック……」

 一般的にはそう答えている。


「じゃ、私が先に弾きましょうか?」

 そうきたか。

「お願いします」


 弾けるのかなとは思っていた。

 予想以上だった。彼女が弾いたのは、スクリャービンのエチュードだ。作品番号は42の5だったか………。大人の、こなれた演奏だった。


「俺と同じ大学?」

 俺は慎重に聞いてみた。

「まさか。私は音大を卒業してる。サークルは、事務方の手伝いをしてるだけ」

 成る程ね。逆に、無駄に考えずに済んだ。同じくらいの長さで、同じ難易度の曲でなくてもいいだろう。彼女なら俺の実力はわかるだろう。俺はピアノの前に座り、ショパンのエチュードを弾いた。「革命」と言えば話は早い。仕上げてから、維持するために3日に一度は通して弾く。崩れたら補強練習をする。今日はいつも通り普通に弾けた。


「あのサークルよりも、ピアノでバイトできるお店を紹介したいわ。どう?」

「即決できない。ちょっと考えさせて」

「じゃあ、そちらを先に案内するわ。素人ウケするレパートリーは他にもあるでしょう?」

「俺も素人だけど」

「あなたは素人じゃないわ。それで素人だなんて言ったら嫌味よ」

「稼いでいる訳でもないし」

「だから、バイトを紹介したいって言ってるの!」

 勝ち気そうな強い態度。

「わかった。そっちを見学できるなら案内して」

 彼女の顔がパアッと明るくなった。綺麗な女。俺に見せたその顔は、今まで見た中で一番可愛かった。



 地下鉄に乗った。
 俺は地方から出て来ているが、月に一度東京までレッスンに通っていた。羽田と品川と池袋と、教授の自宅がある私鉄の駅周辺しか知らない。都内の地下鉄はわからないこともないが、あまり使ったことがない。

「大丈夫よ。置いて帰ったりしないから」

 子供扱いされた。
 音大出てるなら、4つは年上か。無理もない。

「何か弾いてって言われたら、何が弾けそう?」

「『愛の夢』、『カンパネラ』、『ショパンのワルツ』あたりが正解?」

「流石ね。完璧よ。クラシックが弾ける上手い人は少ないの。今はジャズの人が多いみたいだから、あなたが入ったら固定客がついてファンが増えるわよ!」

「信じられないな……」

「あなたは自分のいいところを判っていないんだわ?」

「いいところなんてある?」

「あるわよ、たくさん。……ここよ。まだ開店前だから安心して」


 その言葉に、俺はどれだけ救われただろうか。














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