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44 広がる世界
しおりを挟む結婚式をしたのは四月の頭。
俺達……俺とマヤは、マヤの高校の卒業式の少し前からマヤの家で一緒に暮らしている。出会ったのが二月末にしては早すぎる展開だ。二月はマヤの誕生日もあり、両親から俺達にと別宅をプレゼントされた。因みに俺は、誕生日に親からプレゼントをもらう習慣はない。もらったこともない。女からはいろいろもらったが……。
三月いっぱい一緒に暮らしてみて、いろいろとカルチャーショックがあった。大学での授業はなかったが、気晴らしに練習に出かけたりした。
マヤは必要以上に俺に干渉してこなかったし、家事をする必要もなく、思わぬ『自由』と、想像し得なかった『不自由』に翻弄されていた。
『自由』とは、勉強する自由、練習する自由であり、『不自由』とは……言いにくいのだが、今まで自分の自由だったものがそうではなくなったことだ。それらのほぼ全てが『贅沢』だと判っている。
食事一つとっても、食べたい時に食べたい物を食べたい量だけ食べられる訳ではない。そんな些細な事が、正直面倒だった。本宅とは別に、俺とマヤの家政婦さんがついた。これから希望を言って、慣れていけば大丈夫だろう。
時間制限無しに、心置きなく練習ができる。それに、新品のスタインウェイだ。
しかし、ある日急に小石川先生……義母……お義母さんに呼ばれた。呼び慣れない。
「慎二さん、あたくしと一緒に演奏会に行きましょ。18時に本邸にいらしてね」
こちらの予定も聞かず、……予定はなかったが。夕食の時間変更を家政婦さんに連絡してマヤの様子を伺いに行くと、マヤは呼ばれていないと言う。俺は訝しんだ。
「ごめんね。お母さん、私のこと、演奏会に行くのはあまり好きじゃないと思ってるの。それより、慎二さんとお出かけしたいのよ。ほら、息子ができて嬉しいのよ。知り合いに会ったら『息子なの』って自慢したいんじゃないかしら?ちょっとつきあってさ、コレは好きだけど、ソレは苦手ですとか、今度アレに行きたいですとか言ってみて?ちゃんと次回に反映してくれるから」
なる程ね。そういうものなのか?まぁ、有り難いことか。
シャワーを浴びて、買ってもらった洋服のうち、鑑賞に一番良さそうなスーツを着た。
「マヤ、行ってくるよ」
部屋にいたマヤに、一声かけた。
「わぁ、慎二さん、素敵!似合う!今度は私ともデートしてね!」
目がハートになって抱きついてきた。昔はこういうキャピキャピしたタイプは好きじゃなかったが、悪くないなと思った。
育ちが良いとはこういうことなのだろうか。裏もなく、わかりやすい。
「お義母さんと、デートの練習をしてくるよ」
俺はそう言って、マヤにキスをして外に出た。
「慎二さん、お待たせ。行きましょうか。出して頂戴」
運転手は俺達を乗せて、静かに走り出す。
「ありがとうございます。今日は、何処で、何の演奏会ですか?」
「今日?サントリーホールで、〇〇交響楽団と、あの人のピアノコンチェルトよ。リスト弾きの、誰だったかしら?外国人の方で、名前は忘れちゃったわ」
「もしかして、〇〇〇〇・〇〇〇〇ですか!」
「当たり!」
驚いた。今来日しているピアニストのコンチェルト!何万するんだ?俺は今度リストのコンチェルトを弾くし、演奏会なんて金のかかるものはほとんど行ったことがなかった。それが、こんな……。
受付で、チケットを切られる直前に見せてもらったソレは、招待券ではなく、価格と思われる、ゼロの多い数字が記されていた。SS席だった……。
小石川先生は、弦科の奴の伴奏で何回かレッスンに同伴したことがある。先生と伴奏者は、そう会話をすることはないが、会話する以上にわかる。何しろ真剣勝負の一時間を過ごすのだ。小石川先生は大学では助教授という立場で、厳しくも情熱があって、美しい先生だった。
受付から座席に着くまでに、何人もの人に声を掛けられた。小石川先生が。皆、すぐ後ろにいる俺にも気づき、「あら?」という表情をした。お義母さんはもれなく俺を紹介した。
「息子なの!今度娘が結婚することになりまして……」
「まぁ、おめでとうございます!」
「ありがとう。あたくし、嬉しくって!」
「慎二です。宜しくお願い申し上げます」
「なんて男前の、綺麗な方ねえ~」
というような微笑ましいやりとりを何度しただろうか。
「あら?ピ演科の高橋君じゃない?」
と、こちらは知らなくても俺のことを知っている人もいた。ピアノ科の先生方だろうか。人数が多すぎて把握していないが、試験官だったりするからな……。
中には、結婚式の招待状を送ってあるのだなとわかる人間もいた。音楽家ではない上流階級の人間だとか、お義父さんの関係の知り合いだなとお義母さんの挨拶の仕方で判った。
多少気を使ったのは勿論だが、嫌ではなかった。こんな演奏会を聴けることが、夢のようだった。そう、俺はほとんど演奏会に行ったことがなかった。そりゃ、行きたかったが、金がなかった。ないものは仕方がないし、出来る事をするだけだった。楽譜を見て作曲家の意図を読み取ること。本を読むこと、歴史を勉強すること、他の楽器の作品を勉強すること、大学の図書館のCDやDVDを利用すること、自分で考えること、師匠にアドバイスをもらうこと。
演奏は、素晴らしかった。
感動して、何も言えないくらいだった。
お義母さんは、無理に話しかけてこなかったし、そんな配慮に心から感謝した。
ようやく普通に呼吸ができるようになったところで、俺は礼を言った。
「お義母さん、ありがとうございました」
「どういたしまして。よかったら、またお誘いするわね」
「ありがとうございます。あの……」
「なあに?」
言っていいのだろうか。
「俺、僕は、……大学院に進学したかったんですが、諦めて就職するつもりでいました。仕事をしながら、作曲を自分で勉強したいと考えていました」
「大学院にお行きなさいな。心配いらなくてよ。ひとまず、ピアノ専攻で大学院に行って、その間に作曲の勉強をして、ピアノ専攻で修了してから作曲専攻で大学院に行ってもいいじゃない?あなたは若いし、時間はたくさんあるのよ。学生期間は長い方がいいわ」
そんなことが……できるなんて。
「ありがとうございます。感謝します」
お義母さんが、俺の手に腕を絡ませてきた。誰かと同じだ。全く嫌じゃなかった。
車が到着するまでの間に、近くの店で焼き菓子を買った。
「マヤに?」
「はい」
俺は、一応少し照れながら言ってみた。
「有り難うね。本当に有り難う」
俺は、それに何と返したらいいかわからなかった。
しかし、車の中に入ったら、演奏がどうのこうのと、オケの話だとか指揮者の話だとか、昔はどうだったとかの話で賑やかになった。
一応俺がピアノ専攻だからか、ピアニストの悪口は言わなかったが、ピアノ以外のそういう専門的な裏話は新鮮だった。しまいには、今日のオケの、どの演奏者が誰とつき合っているかとか、出演者の色恋沙汰にも及んだ。何人目の配偶者と誰の子供だとか。今度会っても、思い出して正視できないんじゃないかという話まであった。
正直ちょっとうるさかったが、結構面白くて、相手がお義母さんだと忘れてしまうくらいだった。
そうして、お義母さんは度々俺を演奏会に連れて行った。
新たにたくさんの人に紹介された。
そうだ、これは俺の為だ。良いものを聴き、音楽家と会い、仕事につなげていくために。
俺は自然とその中に入っていけるようになった。
お義母さんに、度々演奏会に連れて行ってもらうようになり、その度にインスピレーションが湧いた。
歩くのも好きだから、なるべく一日に一回は外に出るようにした。
マヤはご機嫌だとキャピキャピしているが、普段はあまりベタベタする訳でもなく、自分が構ってほしい時に、控えめに俺を見つめてくる。
俺達の広いベッドで散々焦らしてやると、可愛いくらいに俺を求めてくる。全力でぶつかってくる様は真っ直ぐで、若いなと思った。
何しろ、大学生一年生だ。その割にはイロイロ知ってるなと思わせたが、お互い様ということで指摘しない。
ベッドの後は、微睡みながらも俺のピアノに対してあれこれと夢を語る。マヤの母校でコンサートしてファンを増やすとか、女子大だったらキーボードでライブがいいかもとか。ピアノ科の大学院で勉強しつつ作曲をするとか。大学の自主リサイタルを開催して自作曲を発表するとか。2台ピアノなら槇さんとやれば女性ファンは勿論、音楽男子が活気づくとか。弦楽器ならお義母さんが力になるとか。何でも、主宰している弦楽アンサンブルがあるとかで、エキストラを増やせば編成はどうにでもなるらしいし、指揮も勉強しておけば自分で振れるじゃない!と大興奮だ。
なるほど、ピアノ曲は一人で出来るし、発想が豊かで現実的だ。
お父さんの会社やメセナのパーティーで披露するとか後援会やファンクラブもできるとか、まぁよくしゃべることしゃべること。親子だな…………。
音楽家の家に育つということは、こういうものなのだなと感心した。
俺は、マヤのアイデアを一つ一つ実行していくことにした。
そしてそれは、俺自身の楽しみとなり、実力と自信となった。
マヤには感謝している。
「愛してる」等という言葉では、到底足らない。
なかなか言えなくなったが、それでも。
「マヤ、愛してる」
俺は、眠っている妻に囁いてから眠りにつく。
完
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