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9 ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ
しおりを挟む高等部三年。
今取り組んでいるのは、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ。ソナタは10曲ある。有名な『クロイツェルソナタ』はもう少し大人になってから弾きたい。子供の頃に聴いた『スプリングソナタ』が好きだった。お母さんは、最初の部分から途中までと、最後の部分をつなげて楽譜が2ページに収まる程度に短くして、私にも弾けるようにしてくれた。弓の使い方やポジションは子供だった私ができる範囲の弾き方だったけれど、フルサイズのヴァイオリンで、文字通りフルサイズの曲に取り組めるようになったのは嬉しかった。
一番から順番にさらいながらも『スプリングソナタ』を同時に練習していた。いずれ全楽章さらうつもりだけど、1楽章だけでも、いつか何かの時に人に聴かせられるくらいの演奏をしたい。ピアノが弾ける人なら、この伴奏はそれ程難易度は高くない。いきなり『クロイツェル』の伴奏譜を渡して初見で弾いて頂くわけにはいかないけれど、『スプリング』なら。
ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ集の楽譜は二冊組で相当な厚みと重みがある。私は『スプリングソナタ』一曲だけの薄い楽譜をお母さんにお願いして買ってもらい、伴奏譜を持ち歩いて大切にしていた。お母さんは、私の珍しいおねだりに、ご機嫌だった。
秋のある日の昼休み。
仲良しの皆で中庭を散歩しながら銀杏を囲んでいた時、珍しくかおりが口を開いた。
「あのね、先生とデートすることになったの」
にこにこしている。そこまではよかった。かおりが「ピアノの先生」のことを大好きなのは、クラスの皆……いや、学年の皆が知っていた。お嬢様学校とはいえ女子校だから、皆知っている。彼氏が一度もいたことがないのはかおりだけで、未だに『幼稚部のマリア』と呼ばれている。
かおりが皆に話しかけるのはとても珍しいので、皆は懐の広さでかおりを持ち上げた。
「やったぁ、かおり。よかったね!」
「うん。それでね、えっと、あの、デートって、何をするの?」
にこにこ問いかけるかおりに、皆、ちょっと面食らった。それは、アナタが心配しなくても先生が考えてくれるのでは?こんなかおりにデートプランを丸投げする男はいないだろう。どこに行きたいか聞かれたんじゃないの?
「じゃあ、それぞれ思い出のデートとか、かおりにおすすめのデートを話すっていうのはどう?」
私が提案すると、皆は順番に話しだした。かおりは、まるで授業を聞いているかのように真剣に聞いていた。槇さんも大変だな、こりゃ……。だいたい、そもそも何のデートなんだろう。愛の告白があったのかどうか、何かかおりに対してご褒美かお礼みたいなものなのか。わからない。
全員話したところで、私は切り込んだ。
「ね、かおり。先生とは今どういう関係で、どこまで行ったの?」
かおりは、あの駅の隣のデパートの一番上の階のティールームと答えた。やはりそんなところか。皆もそう思っただろう。でもそこは『幼稚部のマリア』だから誰も指摘はせず、「それはもうデートだよ!」と皆は言った。でも、先生が受けたコンクールの結果を聞くのを待つために、電話で呼び出されたという経緯を聞いたら、「それはやっぱりデートじゃない……」となった。
ティールームではどんな話をしたのかも聞いてみた。頼んだケーキを、かおりが上手に食べられなくて困っていたら、かおりが好きなカスタードプリンを注文してくれて、ボロボロになったケーキを先生が食べてくれたと言ったら、みんなきゃーきゃー言った。それで結局閉店になっちゃったから、コンクールの結果を聞かずに一緒に帰ったという結末を聞いたら、「それは絶対デートだ!」と大騒ぎになった。かおりは明らかに混乱していた。
かおりが私だけに相談してくれたなら、また違った話をしたのにな。皆も、珍しくかおりが話題を提供してくれたので親切ごかしに楽しんでいるが、完全に遊んでいる。キスは何回くらいしたのかと、上手いかどうかもかおりに聞いていた。そんなこと聞いてどうする…………かおりは、いちいち大真面目に答えている。
「去年と昨日の2回で、上手いかどうかはわからない」
という答えが返ってきた。
え?うそ!いつの間にそんなことが?
「キスが上手いかどうかはどうしたらわかるの?」
かおりからの更なる質問に、皆それは楽しそうに、ずっとしてほしいようなのとか、とろけそうなのとか、気持ち悪くないのだとか、苦しくないのとか、口々に話した。じゃあ先生は上手いのかも……と、かおりはぼそっと言った。
先生の気持ちがわからない。チャンスなんていくらでもあるだろうに、二回って何。しかも、去年と昨日?昨日と一昨日ならわかる。シチュエーションがわからない……。先生が本当にかおりのことが好きで大切にしているならいいけど、先生は大学生でしょ?もしかして脈ナシ?かおりが泣くようなことにならないといいけど。あまり期待させないほうがいいのかな……。
「キスも上手くてすごーく優しい先生で、まだ二回しかしていないなら、彼女は他にいるのかもね」
私はさらっと言っておいた。他のみんなも、私がどういう思いでかおりにそう言ったのか、わかったのだろう。意地悪で言ったのではない。ごめんね、かおり。それから何も言わなかった。先生は大人だもんねって。大人は秘密が多いもんねって。聞かない方がいいかもねって、皆で慰めていた。ごめんね。かおりがつらい想いをしないかどうか、心配でたまらない。私は心の中で何度も何度も十字を切った。最近、祈ってばかり。マリア様、お願い!先生、お願い!
かおり、私だけに教えてほしい。真剣に答えるから。私は『槇さん』のことを知っている。私のお母さんと槇さんのお母様は同じ大学で教えているし、職業も特殊だ。普通の人からのアドバイスは、現実的ではないだろう。
それからしばらく、かおりの様子は特に変わらないように見えた。かおりからは特に報告はなかったし、デートがどうだったのかは、皆も聞かなかった。
高等部三年生の冬。
聖花女学院大学附属高等部の私達は、受験もない。一番大変なのは幼稚部に入園すること。
内部での進級試験で、今までの成績と総合して学部学科の進路が決まる。そんな大切な内部試験の日の二日目。かおりは生理痛で、保健室で試験を受けることになった。痛みが強そうで、何を言っても返事が返ってこなかった。もともと色の白いかおりの表情は真っ白を通り越して青白く、保健室の先生と私とで薬を飲むように説得した。かおりは基本的に健康で、薬という物に拒否反応を起こしているようだった。私は、自動販売機で温かいココアを買ってきた。かおりは濃い味が苦手なのを知っている。私は保健室の小さなキッチンを借りて、買ったココアを牛乳でのばして温めた。保健室の先生に、まるで無理矢理のように薬を飲まされて泣いたかおりは、私が用意したココアを飲んで「マヤちゃん、ありがとう」と言った。幼稚部の頃から変わらないかおりは、純粋で可愛かった。
その日の試験が終わった午後は、卒業アルバムの写真撮影が行われた。解放感にあふれる雰囲気の中、かおりは痛みを抑えて懸命に笑顔をつくっていた。家まで送った私は、その時初めてかおりの生活を見ることになった。
全く生活感のない家だった。そういう意味では意外なところはなかった。家具はある。でも、本当にここで人が暮らしているのか、首を傾げたくなるような雰囲気だった。かおりはほとんど槇さんの家で過ごしていて、寝るのと勉強とシャワーと朝ごはんの時だけ、ここなのだと言った。しばらくすると、痛みがなくなったからピアノの練習に行くと言って、まるで自分の家に入るような素振りで、一階の槇さんの家に鍵を開けて入っていった。
私は不思議な気持ちでそれを見送った。
そんな状態だったかおりは、毎日の予習復習のおかげで、それらも満点だった。学年トップであるかおりの努力の結晶ノートを見せてもらっただけの私は次点で、二人共好きな学部を選択することができた。かおりは迷わず文化芸術学部だった。かおりのママもそうだったらしい。私は教育学部でもよかったけど、初等教育課程と幼稚園教諭の免許がほしいだけなら後でどうにでもなるだろうと、かおりと同じ学部にした。文化芸術学部はフランス語の授業レベルが高く、外部からの一般入試の偏差値も高くて、一番人気の高い学部だった。
仲良しの皆も、希望と適性を鑑みてそれぞれの学部学科を選択した。中には他の大学に行きたい人が毎年何人かいるみたいだけど、私達の学年はいなかった。むしろ、かおりが音大に行かないのが意外なくらいだった。
皆、根が真面目なので、受験があってもなくてもそれなりにきちんと勉強をして、放課後や休日は彼氏とデートをしている子が多かった。婚約者とか、ずっと同じ人とつき合ってうまくいっているのは一部だけ。別れたらまた別の人とつきあう。
現在、何人か彼氏がいない子がいたから、私の……別れる予定の彼氏の友達と合コンを企画していた。かおりはいつも放課後はピアノの練習があるから、誘ったことはなかった。
今日の最後の授業は保健体育だった。男女交際、つまりセックスの話だった。何を今更な初歩的で、子供向けかと思うようなかわいらしい、ほのぼのした内容だった。知らないのはかおりくらいだろう。「アニメ教材」のDVDを見ている反応でわかる。知っていることをマジマジと見るのはバカらしいくらいだ。かおりは下を向いていた。そんなに恥ずかしがっているわけでもなく、微妙な反応だったけれど、知らないな、わかってないなと思わせた。
相手が大人の槇さんなら心配ないけど、それより他の人に何かされたりしたら危ない。大学に入ったら、私が守らなきゃと思っていた。槇さんは女子大に入れないし、高等部は勿論、私達が進学する聖花女学院大学は、合コンのセッティングに困ることはないくらいに人気だから。待ちあわせするそぶりで待ち伏せしてナンパする案件がどんなに多いか。守衛さんが守ってくれる範囲は狭い。
私が心配したことは、当然保健の先生もそう思ったらしい。かおりは一人で、居残りが決定した。無理もない。今時、大人の槇さんとでさえキスが二回とか……。全くないならともかく、二回ってどういう意味なのか、未だにわからなかった。好きなら、もっとするよね?チャンスはいくらだってあるでしょうに……。私達は先に帰ることにした。
もう、風が冷たかった。
高等部の生徒が使う通用門の少し向こうに、一人の男性がいた。地味な服装でガードレールに寄りかかり、背中を丸くしていたけれど、それでも背が高いのがすぐにわかる。女子校の前だし目立ちまくりだ。
え、もしかして、槇さん?
「失礼します。槇さんではありませんか?」
顔を上げたその人は、やはり槇さんだった。こんなラフな格好の槇さんを、初めて見た。私と一緒にいた8人の仲良しも立ち止まった。この人がかおりの好きなピアノの先生?と皆判ったようで、そこは沈黙。流石よくできたお嬢様方だ。余計なことは言わない。
「やっぱり!突然すみません。私はかおりの友人のマヤです」
私はきちんとお辞儀をした。
「あぁ、マヤちゃん。こんにちは。かおりからお友達と聞いている。初めまして、という気はしないな」
「えぇ、こちらこそ」
私は幼稚部の時から顔を知っていたけど、槇さんは覚えていないのか。私は槇さんを観察した。かおりをどう思っているか知りたかった。まさか聞くわけにはいかないし。
「かおりは?」
「かおりは今日、居残りです。今日はピアノがないんですって?」
「あぁ。居残り?かおりが?何か出来なかったの?」
お友達の皆がキャーッと叫んだ。何がわかっていないか、答える訳にはいかない。
「そうなんです。私からは言えませんが、多分あと一時間くらいで解放されると思います」
至極真面目にそう答えた。
「そうなんだ。教えてくれてありがとう」
「いえ、失礼いたします。ごきげんよう」
お友達の皆も口々に「ごきげんよう」と槇さんにお辞儀をして、私達は駅に向かって歩いた。
普通だ。とても自然体。格好つけたり、他の女の子を値踏みしたりしない。何か約束していた訳でもないみたい。私達の学校は、携帯持込が禁止だからかな。
読めない。読めなすぎる。かおりも、槇さんも。
二人ともどうなってるの!?
それなのに、かおりの結婚が決まったことは、意外なところで槇さんの口から聞かされた。
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