こんな恋がしたかった

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こんな先生になりたかった

25 最後の発表会

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 高校一年の夏から東京のるり子先生のレッスンに通うようになって、6回目の発表会。るり子先生の発表会は、毎年4月の始めに開催される。


 3月末に地元の先生の発表会があり、高校の同級生からいきなりプロポーズされ、4月から一緒に住むことになった。話し合った結果、籍を入れるのも結婚式も、大学の卒業式後と決めた。慣れ親しんだ、この名前で大学の卒業証書がほしい。就職も決まったから時間はある。大学院は諦めるけれど、良い成績で卒業したい。しっかり勉強しよう。


 今日のるり子先生の発表会には、内藤くんも連れてきた。ここのレベルを知って、地元の音楽教育のレベルアップに役立ててもらいたい。


「……わかってるよ」
「やだ、また声に出てた?」

「高校一年の夏から……な」
「やめてよー!もう……恥ずかしい」

「あきらめろ。ばっちり聞こえてた。それより手は大丈夫か?引っ越し作業で無理しなかったか?」 
 マッサージするように両手を包まれた。
「うん、ありがとう。大丈夫」 


 発表会の後、るり子先生に一緒に挨拶に行って諸々報告しようと考えていた。


 受付に行くと、慎一くんとかおりちゃんが並んで立っていた。
 慎一くんは今年中学二年生。ラヴェル作曲の『ソナチネ』を弾くらしい。かおりちゃんは、今年で小学四年生になる。プログラムにはバッハ作曲の『平均律』と書いてある。私が『平均律』を弾くようになったのは高校生なのに。今更ながら、二人ともすごすぎる。


「かおり、そっちにある、僕のペン貸して?」
「はい」
「……ありがとう」

 慎一くんが、いつの間にか『かおちゃん』呼びじゃなくなってる!いつからだったのだろう。声も低くなってるし、ますます背が伸びてすっかり大人っぽくなってる!お父さんに似ていて格好いい!

 かおりちゃんも、変わらずおとなしくて、絵画みたいな雰囲気もそのままに、極上のお人形さんのように可愛かった。何か、この二人とは近くで並びたくないな……。


「おい、一応言っとくけどな。俺はフランス人形より『こけし』の方が好みだから。心配すんな」

 隣からのささやきに、顔が熱くなった。

 あれ?照れるところばかりじゃないような?


 るり子先生がいらっしゃった。
 「さやかちゃん、調子はどう?よく眠れた?寮から引っ越すって聞いたけど、どうしたの?あら、そちらは?」
「るり子先生、おはようございます。今日はよろしくお願いいたします。あ、彼は内藤さんと言って……」

 私は、後で紹介するつもりだったから、どこから話をするか、まだ考えていなかった。

「るり子先生、初めまして。内藤と申します。さやかさんと婚約することになりました。後程お時間頂戴できましたら、改めて自己紹介させていただきます」
「まぁ、そうなのね?では後で」

 るり子先生は、とても嬉しそうな表情になって、客席に向かった。


 今年はメンデルスゾーン作曲の『厳格なるヴァリエーション』を弾く。演奏が終わるまでは、集中したい。心をこめて演奏したいから。

 内藤くんは、ずっと話しかけずにいてくれた。




 本番の演奏は、大成功………といっても、もともと自分が練習してきたことを全部出せただけでも上出来だ。努力して努力した自分の限界もここまでだ。何も思い残すことはない。

 客席に戻ってからも、なかなか興奮は冷めなかった。

 私も生徒の立場だったからわかる。
 この時期、地元の教室は毎年の発表会に、新年度と新学期に向けてのイベント、レッスンスケジュールの組み換えがある。生徒さんの立場だとレッスンは二週間だけ春休みになるが、それは講師が引き継ぎや会議や研修期間があるからだ。
 そう、来年からはもう参加出来ない。自分の勉強と練習だけの生活は、あと一年間ないのだ。私の『学生生活』という砂時計の砂が、音もなく急速にこぼれ落ちていくのを感じる。止まらない時間の経過に、待ってと叫びたかった。

 ずっとこのままでいたいのに…………。



 発表会の後、るり子先生が声をかけてくれた。

「この後、お話できる?」
「はい」

 るり子先生と旦那さん、内藤くんと私で控え室に集まった。控え室といっても、ここは公共のホールではなく、サロンだ。外国の家庭のリビングのような落ち着いた雰囲気だった。

 門下生の皆は帰宅し、慎一くんは発表会の後片付けをしていた。かおりちゃんは誰もいなくなったステージでバッハの『平均律』を弾いていて、控え室のモニターから様子が見えた。控え室のドアも開けてあるから音も直に聞こえる。響きを聴いて弾いているのがよくわかる。


「さてさて、どこから聞かせてくれるのかしら?」
 るり子先生はウキウキしている。私は報告したいことから話した。

「るり子先生に肖って、地元の発表会の演奏に、解説を書いてみたんです。先生と旦那さんとの出会いのエピソードが素敵だなって思ったので」
「さやかは、るり子先生が一番好きみたいで僕はずっと見守っていました」

 内藤くんも重ねた。内藤くんは、高校の同級生で地元の楽器店のオーナーの息子であること、楽器店を継ぐ為、現在大学で経営を学んでいること、私の地元の先生が内藤くんの叔母だったこと、この話がまとまっていなかったら楽器店から大学を通してスカウトに行く予定だったことも、るり子先生に話した。

「多分、さやかは小さくて可愛いから、楽器店からは『身近なお姉さんピアニスト』的な役割を求められると思うんです。もちろん、優秀な生徒さんの上級コースの講師もお任せできます。しかし、残念ながらそういう生徒は多くありません。子供のグループレッスンやイベントで裾野を広げる役割をお願いしたいと、個人的にも願っています。できるだけ演奏活動も……となると相当忙しくなります。就職活動がなくなる分、今年一年間で二人の絆を確かなものにしたいと、一緒に住むことにしました。両方の両親も了解済みです」

 るり子先生も旦那さんも、安心してくれたみたいだ。よかった。

「新しい門下生もいらっしゃって。初々しくて、何だか懐かしいです。そういえば、全員女の子なんですね」
と、私が言うと、旦那さんが
「男は俺が禁止してる」
と静かに言って、隣に座っていたるり子先生の両手首を片手でスッと掴んだ。るり子先生は、急にそんなことをされてびっくりしたのが瞬時に伝わった。

 丁度その時に慎一くんが来て、控え室の空気を見て足を止めた。


 旦那さんは、空いている右手で自分の隣のソファに座るように示した。慎一くんは黙ってその通りにした。かおりちゃんのバッハの音が、淀みなく聞こえてくる。

「利き手じゃなくても、男はこれくらい簡単なことだ。力も入れていないが、るり子は振りほどけないだろう。俺の知り合いで……」


 旦那さんは手を掴んだまま、るり子先生の手を下ろし、優しく握り直した。


 昔…………俺の知人で、若い女性の芸術家が、男性に対して怖い思いをしたことがあるそうだ。それからしばらく、創作活動ができなくなり、外にも出られなくなった。
 結果的に、その人は結婚して子供もいるけれど、精神的なサポートと、再び芸術活動ができるように、相手が時間をかけて心から寄り添っていた。特別繊細な女性だったとは思うけれど、そういう恐怖心はいつどこで思い出すかわからない。自由に表現できないどころか、自分を壊してしまうこともあるだろう。
 俺はるり子のピアノを、その辺りも含めて応援している。ピアノのレッスンは個室だし、相手に一方的に好かれたりしたら指導の方向性が変化する。お互いが想い合う関係以外は危険だ。俺が守りきるにも限界がある。
 るり子自身のことも、るり子の音楽も好きだから、自由に表現させてやりたい。

 るり子先生の目から涙がこぼれていた。





 ピアノの音が止んだ。慎一くんはサッと立ち上がって出ていった。モニターから、ステージでキョロキョロしているかおりちゃんが見える。慎一くんが近づいて、腕と肘と手首のことを伝えているようだ。ピアノのところに行って、自ら腕の使い方を示している。かおりちゃんはそれを見て、もう一度ピアノの前に座り直して弾きだした。

「ごめん、痛くなかった?」
 旦那さんは手を離してるり子先生の肩を抱いた。るり子先生は、小さな声で大丈夫、と言った。


「慎一も少し反抗期になってきたが……かおりのことは大切にしているみたいだ」
「そうね……」

 るり子先生は静かに微笑んだ。常に明るくて快活なるり子先生の、そんな女の子みたいな表情は初めて見た。


 旦那さんは笑顔で席を立って、控え室を出た。

 内藤くんも立ち上がった。

「るり子先生、ありがとうございます。旦那さんからも、貴重なお話をありがとうございました。よろしくお伝えください」
「先生、ありがとうございました。私、この発表会、来年からはもう……」

 私は言葉にならなかった。内藤くんは、私の肩を抱きしめた。

「ごめんな。演奏活動も応援するとか言いながら、さやかはあの地域の期待のアイドルだ。たくさんの制約があるだろう。女の職場だし、俺とのことで妬まれたり、いやな思いをさせるかもしれない」

 私は、今泣き崩れるわけにはいかない。体を離した。言わなければならないことがある。

「ううん、地元に恩返しできることだと思ってる。だからるり子先生、私がピアニストになりたい生徒を育てて、ここに連れてきます。そうしたら、レッスン引き受けてくださいますか?」

「待ってるわ。さやかちゃん自身のことも、もちろん応援しているから。最後の一年間、自分のために頑張りなさい。仕事はもちろん、子供ができたらそれ以上に時間は取れないのよ」

 口調は明るいけれど、いつもの厳しい先生の言葉になった。




 サロンを出てから、誰かが走って私達を追いかけてきた。
 慎一くんだった。
「さやかさん、……ありがとうございました。母のことだけでなく、かおりのことも。かおりは人見知りで、話すのが苦手なんです。でもさやかさんは、レッスンで会う度に、毎回優しく話しかけてくれて、特別大好きだったみたいです。今連れてきて挨拶させたら泣いて迷惑をかけるかもしれないし、すみません。それから、両親のことも……いろいろ気づかせてもらいました。ありがとうございました。どうぞ、お幸せになってください。内藤さん、どうぞよろしくお願いいたします」
「慎一くん、ありがとう」


 そして、さようなら。

 またいつか、会える日まで。














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