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こんな先生になりたかった
18 発表会
しおりを挟むもうすぐ高校二年生になる。
高校一年の夏から一週間おきに新幹線で東京までレッスンに通い、誰に何を聞かれても、
「◯◯音楽大学を目指して、槇るり子先生に習っています」
と堂々と言えるようになった。
毎回のレッスンは充実して、私は地元のお友達とは放課後すら遊ばなくなった。復習して、練習して練習して、次に先生が注意しそうなことを気を付けたり、次に先生が課題を出しそうなことを予習してからレッスンに行き、質問してから帰宅するようになった。そうまでしても、これで充分とは思えなかった。私がどれだけ練習していっても、るり子先生の要求が減ることはなく、更に難易度が高まったから、慢心するかけらもなかったというのが正直なところ。
地元の進学校では、一年生だとそんなに受験を意識していない。私は夏に志望校を決め、お友達に伝えた時からクラスで浮いてしまったようだった。少し寂しかったけれど、いじめられた訳ではなく、距離ができただけだった。二年生からは進路にそってクラス替えがある。何人かのお友達から相談されたりした。そして、私が早くから進路を決断したことに対して、勇気があって羨ましかったと、それぞれに打ち明けられた。
一番冷たい言葉を放ったお友達が、
「普段の勉強とか、視線がブレてなくて、ピアノのことはわからないけど、格好いいなって思った。ここ半年くらいの姿勢が、傍目にもわかるくらい。自分と戦って頑張ってるんだなってわかった。応援するね」
って私にお菓子を持ってきてくれたりした。
お母さんも、私の日頃の行いや態度が以前とは違うと言って、試演会や門下会、東京で行きたい演奏会がある時には一人でもホテルに泊まらせてくれるようになった。知らない街で迷ったりしないよう、毎回るり子先生のお宅の近くにある、◯◯◯ホテルと決めた。
夏期講習の最終日の試演会の後にも、試演会は度々行われた。私は出来るだけ参加した。初回はバッハのシンフォニア2曲にツェルニー40番を10曲だった。次に行われた時は、次のシンフォニアと次の練習曲を10曲、という風に進めていき、集中力を長い時間保つこと、人に聴いてもらうこと、せっかくだから自分でも本番を楽しむことを、少しずつ意識していった。目指すはかおりちゃんなのだ。慎一くんを目指すだなんて、とても言えない。
試演会には慎一くんもいて、やっぱり開始時刻前に前座みたいな感じで弾いていた。皆も、彼の演奏を聴くために集合時刻より早めに来て、熱心に聴いていた。そして、いずれピアノを教えるようになったら、このように生徒を教えていくのだということも伝わってきた。彼はまだ小学二年生で、驚く程たくさんのレパートリーがあった。その完成度は、教えたるり子先生もすごいけれど、慎一くんもすごいと思った。
私が慎一くんの演奏を初めて聴いたのは『ツェルニー24番の練習曲、全24曲』だった。それからは『スケールとアルペジオ全調と3度・6度の重音のスケール』の時もあった。『インヴェンション全15曲』の時もあった。『モシュコフスキーの練習曲』の時もあった。『バッハのフランス組曲』の時もあった。どれを聴いても、初めて聴いた時以上の感動と、新たな気づきを与えてもらった。とても敵わない。私は音大を目指しているのに、その途方もない道のりを投げ出そうとは思わなかったけれど、お友達や門下の先輩方、誰よりるり子先生がいてくれてよかったと思った。
初めて参加する、るり子先生の発表会で、私は『ベートーヴェン作曲ピアノソナタ第7番』を全楽章弾くことになっていた。夏から言われていたから、年明けにはもういつでも来い!という気持ちだった。
その2週間前に、地元のピアノ教室の発表会があった。私はるり子先生に習う事になってから退会して、生徒という立場ではなかったけれど、この楽器店の期待の星と言われ、皆に応援され、ゲストとしてソナタを演奏させていただいた。東京まで通い、何回も試演会に参加した成果があり、手や腕の疲れもなく、長い曲でも集中力を切らさず、アンコールであと何曲か弾くことも出来そうな感じだった。
地元の先生は「たった半年でこんなに立派になって……」と言って泣き、お母さんもお礼を言って泣いていた。地元だったから、お友達も来てくれた。男子も何人かいた。サッカー部の、私がちょっと気になっていた人もいた。このクラス、仲いいもんね。二年になったら皆クラス離れちゃうだろうけど、いい思い出になった。
新年度。
発表会は四月二日。この日は、慎一くんの誕生日なのだと先輩方が教えてくれた。何かお祝いをするのかなと思ったけれど「お気持ちだけで。この日に皆と家族と音楽があるだけで幸せなの」と、プレゼントなどは一切しないように言われているそう。お嬢様学校の出身だというるり子先生は、お気に入りらしいネックレス以外のアクセサリーをつけないし、旅行に行った話なども聞かない。もともとお顔立ちが華やかな美人だし、身なりは綺麗だけれど生活は質素で、常に私達門下生のことを気にしてくれ、旦那さんに愛されて、音楽と幸せに包まれているように見えた。
発表会の当日。
初めてのホールに着いた。
ホールよりも少し小さめで、サロンという雰囲気。控え室も外国のおうちのリビングのような、あたたかい雰囲気だった。
「いらっしゃいませ。さやかさん、こんにちは。女性控え室はあちらです。会費はこちらにお願い致します」
濃紺のスーツを着た慎一くんが受付に立ち、かおりちゃんはお行儀良く椅子に座っていた。お父さんも背が高いし、慎一くんはとても小学三年生には見えない、落ち着いた紳士たる態度だった。
かおりちゃんは胸の辺りまで伸びた真っ直ぐな髪の毛をそのままおろしていた。真っ白いブラウスに明るいグレーのボレロにフレアスカート、襟元には赤いリボンを結んでいて、お人形さんのような愛らしさだった。あれは幼稚園の制服なのだと誰かが教えてくれた。
一番最初に、かおりちゃんが演奏したのは、『お人形の夢と目覚め』の曲だった。三月末の誕生日で、四歳になったばかりだという。軽やかなタッチで歌心のある、神秘的な程に美しい音色の演奏だった。
慎一くんの凄さは試演会でもうわかっているし、何を聴いても驚かないぞと思ったけど、聞いてみたらとんでもなかった。『ベートーヴェン作曲ピアノソナタ第8番(悲愴)』は、子供にもこんな表現ができるのかと恐ろしくなった。
そうだ。私だってこの発表会のためにものすごく長い時間をかけて丁寧にじっくり取り組んで、今の自分の最大限を出しているんだ。この子たちも同じように、子供でも真剣に取り組んでいるんだと理解した。
次に演奏したのはみかちゃんで、ハイドンのソナタ。そして、私のベートーヴェンのソナタ。
高校二年生の先輩、三年生の先輩方、大学生、大学院生と続いた。
全員の演奏が終わった。こんなに全員の完成度の高い発表会は見たことも聴いたこともなかった。小さい子供ばかりの、地元の音楽教室の発表会とは全然違った。
この気持ちは何だろう。何故かどっと疲れた。半ば放心状態でお手洗いに行くと、門下生ではないらしい人達の会話が聞こえてきた。
「やっぱりここには入れない」
「聴きに来てって言われたけど、レベルが高すぎてお願いする気になれないわ」
「子供もいるって聞いたけど、あれは何万人に一人の天才よね。それが二人もいるなんて……」
私は出ていく気持ちになれず、何も言えなかったけれど、その中に自分が含まれていることを自覚した。子供は、明らかにあの二人のことでしょうけど、私だって最初からこうだった訳じゃない。るり子先生のおかげ、遠い関係でも繋げてくれた地元の先生のおかげ、レッスン代と新幹線の交通費、勉強に行くための宿泊費……。これからかかるであろう、大学の費用と下宿代と生活費は、それがどんなに大変なことなのか、私には想像もつかない。私は練習するだけ。
そして変な言い方だけど、まだ二年生なのに、大学受験で不合格になる気がしなかった。るり子先生に教わっているのだから。毎回、山ほどの課題をこなしているのだ。それくらいの自信がついたことを自覚した。
話していた人達は帰ったみたいだけど、それでも私は個室から出ていく気持ちになれなかった。
出ていくのが遅かったからか、お母さんが心配して探しに来てしまった。そういえば、まだ着替えてもいなかった。
「さやか、大丈夫?え、どうしたの?」
「何でもない。お母さん、ありがとう。私、まだまだだけど頑張るね」
「え?うん、いつもすごく頑張ってるじゃない。びっくりしたわよ。そんなに頑張らなくていいわよ、なんて言ったら変かしら」
「ううん、ありがとう」
まだお手洗いの中にいた私は、慎一くんとかおりちゃんの声が近づいて来たのがわかった。私が中から顔を見せると、慎一くんが私に話しかけてきた。
「さやかさん。すみません、かおちゃんをお願いできますか?一人でできますが、困ることがないか、見ていていただけますか?」
「うん!かおりちゃん、お姉さんが一緒にいるからね」
「はい」
かおりちゃんは小さい声で、きちんとお返事をした。
慎一くんから、ピンクのハンカチを預かった。平仮名で『かおり』という文字と、バラの花の絵柄が刺繍してあった。これはかおりちゃんのお母さんかな……素敵だなぁ。
かおりちゃんが個室から出てきて、蛇口の水をゆるく出してあげた。かおりちゃんを抱っこして水に手が届くようにした。なんて軽くて小さくて柔らかいんだろう。愛らしくてたまらない。慎一くんが可愛がるのがわかる。
かおりちゃんは、私が差し出したハンカチでゆっくり手を拭いた。
「かおりちゃん、『お人形の夢と目覚め』とっても素敵だった。また聴かせてね」
私は小さなピアニストに伝えた。
かおりちゃんは、
「ベートーヴェンのおねえさんでしょう?デードゥアの。あかるくて、たのしそうで、しわわせだった」
と、ゆっくりお話してくれた。
あまりにも可愛くて、さっきのまとまらない感情が溢れてきて、私は泣いてしまった。
「さやかったら、どうしたの?ほら、かおりちゃん、お兄ちゃんのところに行きましょうね」
お母さんは、かおりちゃんを連れて行こうとした。慎一くんは、『お兄ちゃんと妹』扱いされると嫌がるのを思い出した。
「お母さんダメ!私が預かったんだから、私が行く」
私は涙を拭いてかおりちゃんと外に出た。
「しんちゃん」
「かおちゃん……さやかさん、ありがとうございました。ご迷惑おかけしませんでしたか?」
「そんな、全然!私の演奏を、明るくて、楽しそうで、しわわせだったって言ってくれて、嬉しくて泣いちゃったの」
「……僕も、そう思いました。展開部からは、更に表現が広がったし……これからもよろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いいたします」
慎一くんは、かおりちゃんの手をつないで受付に戻っていった。
「格好いいわね~」
私は自分で声に出しちゃったかと思ったけれど、それはお母さんの声だった。
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