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新婚時代の想い出
33 芝居じゃない見せ場を演じる
しおりを挟む松本徹の講師就任リサイタルの日がやってきた。
慎一は招待席に座っていた。
僕の両親とかおりの両親もいる。
こんなシチュエーションは初めてだ。
何だか変に緊張する。いや、演奏自体に心配はないのだが。嫌な予感に近い。
開演のベルが鳴った。
松本がかおりを伴ってステージに出てきた。松本の黒いタキシードを引き立てるような、赤いグラデーションのドレスを着せた。かおりは何色でも似合う。逆に言うと、色に合わせた演奏もできる。儚い少女だったかおりは、慎一だけが教えていた頃より、様々な人間に関わり、様々な感情を経験した。良き音楽家との付き合いでたくさんのことを吸収し、大人のピアニストに成長していた。
松本は、自分のリサイタルではあるが、ピアニストを務めるかおりを、皆に紹介するように手をそちらに向け、会場の客に拍手を誘った。その時。
伴奏譜を譜面台に置いてにこっとお辞儀をしようとしたかおりは、タイミング悪く、揃えた楽譜の束の全てが手から滑り落ち、両手が宙に浮いた。
声楽の曲は短く、その為リサイタルとなると曲数が多くなる。
それらは、舞うようにしてステージ上に散らばった。
満員の観客は、ちょうど拍手をしようと思った矢先のことで、静まったまま、固唾を呑んで成り行きを見守った。
案の定、顔も体も固まってしまったかおりを見て、松本はステージ袖からサッとコードレスマイクを持ってきた。かおりの側へ来て、優しく手を握り、マイクで囁いた。つまり客席に聞かせるためだ。
「心配しなくていい。これは喜劇だ。もともと今日はこういう予定だっただろう?」
明らかにかおりに対して気にするなと言ったのだ。
客へのサービスでもあるだろう。客席からは、どっと笑い声があがった。松本のリサイタルだし、松本のファンばかりだ。松本はこういう奴だと皆知っている。
慎一の周りにいる招待客はかおりのことしか知らない為、おいおい大丈夫か……と目を見張った。
ステージのかおりも、自分で蒔いた種ならぬ、自分で撒き散らした楽譜を見つめ、呆然としていた。
松本は笑いながら楽譜を広い集め、かおりの手に乗せていった。面白トークを交えながら楽譜の上下だけは統一したようだ。曲順までは揃えていない。
プログラムはどうするつもりだ?
それにしてもプログラムといい、チラシの表題といい、読んでいるこちらが恥ずかしい。
「ラブ・ストーリーはテノールが主役。俺がいなければ、オペラは始まらない」
そんな副題に『松本徹』のオペラ扮装姿の写真。『ドン・ファン』だろうか。…………似合うな。
松本は、かおりの肩を抱き、まるで恋人にささやくように甘く語る。
「かおり、こういう予定だっただろう?心配しなくていい。今日起こることを、俺は全て知っている。かおりが今日、どんな失敗をしても、全て許す。大丈夫だ」
かおりは、心を落ち着かせるのに精一杯だったようだが、徐々に現実に戻ってきた。松本の方を向いて「ごめんなさい」と言ったようだ。もちろん、こちらまでは聞こえないが。
「いいんだよ、かおり。トーク入れるから、上から順番に弾いてくれ。いいな?」
「はい」
松本はかおりをピアノ椅子に座らせ、こちらに見せつけるように髪にキスをし、客席に向かってマイクで話した。
「という訳で、皆様お待たせ致しました。ショートコントにより、曲順がシャッフルされました。死んだ人間が生き返って歌う場面もあるかもしれませんので、解説を交えながら舞台を進めて参ります」
大きな拍手があがった。
「その方がいいぞー!」
などと、客席から同じ声楽仲間と思われる声が飛んできて、会場は笑いに包まれ、和やかな雰囲気になった。
簡単な解説の後、かおりのピアノで前奏が始まった。
演奏が始まれば、全く問題なかった。前菜のような小品から始まる予定が、プログラム後半のオーケストラも華やかな大曲から始まった。堂々とした、豊かなフルオーケストラの音色、一転して細い弦楽器のピアニッシモ。見事だ。
かおりの失態、演技とはいえ睦まじい様子に、慎一は内心落ち着いていられなかった。ああいう状態になったかおりを、自分以外の人間がステージ上であれだけ短時間に立て直すなんて。かおりは誰にでも心を開くわけではない。怖がりで、慣れない男にはちゃんと警戒する。そんなに松本に懐いていたなんて。
仕事相手と言えど、少々面白くなかった。そう、仕事だ。これは仕事だ。彼等はステージで音楽のラブシーンをすることが仕事なのだ。慎一は手を固く握りしめ、そう自分に言い聞かせた。
普段の松本のそんな姿を演技とは知らない慎一の父親は、
「おい、いいのか?」
と静かに聞いた。父親は昔から、かおりのことを娘のように可愛がっていた。慎一は「あぁ」と頷いた。父親は、慎一が強がっているわけではないのかと、意外に思った。
実は慎一の父親は、松本とかおりが一緒にいるところを、会ったことがある。
いつだったか、合唱団の指導者である松本と、合唱ピアニストのかおりは、知人の演奏会に行った。単に仕事の付き合いだった。帰りに飲みに行った。音楽家は呑む人が多い。幕間や演奏会後に気のおけない相手と酒を呑むことは、松本にとっては普通のことだった。かおりは、松本と出かけるのは初めてで、酒を勧められたことをわかっていなかった。色の綺麗なカクテルを口に含み、かおりは少し仲良くなった松本に心を開きかけていた。
遅くなると慎一が心配する。その日、慎一は夜遅くまでレストランの仕事だった。慎一のいない家に、松本に送ってもらうのはまずいかなと、かおりは慎一の父親と一緒に帰ることにした。電話をしたら迎えに来てくれることになった。そこで安心して気が抜けたのだろう。
勤務地の近かった父親が迎えに到着した時には、かおりは微笑んだまま眠りそうになっていた。かおりが慎一以外の、他の男の前でそんな姿を晒していたことに、父親は驚きを隠せなかった。
普通の男でも、かおりを優しく騙して、怖がらせないようにいけないことをするのは簡単なことだろう。
仕事仲間で慎一のことも知っているならと、父親は松本に軽く釘を刺してかおりを連れて帰った。
杞憂ならいいが…………。
そんなことがあった。
慎一はどうなんだ?
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