君が奏でる部屋

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藤原夫妻のエピソード

3 微笑ましくて二人とも好きだ

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 土曜日。
 午前中、会社の女子社員に教えてもらった新宿の洋服屋に行ってみた。


 男性の店員に「初めてのデートで……」と正直に打ち明けたら、上から下までコーディネートしてくれた。
 試着した鏡の中の自分は確かに僕だったけれど、何だか気恥ずかしいような気分だった。オッサンぽかった自分が若々しくなったようだし、お洒落になったような気がした。ウキウキするような、こんな気分は久しぶりだった。選ぶのは難しいかと思ったが、お任せしたら想像以上に早く済んだ。


 待ち合わせ時間にはまだ少し早い。
 本屋に寄ったが、何も手にする気になれず、約束の時間の20分前に着いた。僕は、自分の方が後に着いたり相手を待たせなくて済むことにホッとした。手に汗をかきそうだ。


 あと15分か。……あ、あの子達だ。じろじろと顔を見た訳でもなかったから、わからなかったらどうしようか不安だったことを思い出した。彼女たちもこちらに気づいた。


「こんにちは。来てくれてありがとう」
「こんにちは」「……こんにちは」

「込みそうだから店は勝手に決めて予約してしまったんだ。ひとまずそこに行ってもいいかな?」
「はい」

 二人ともついてきた。




 予約をしたのは、音楽ホールの上にあるレストランだった。メニューは和洋中なんでもある。それぞれの種類は少ないが、何も好きなものがないなんてことはなさそうな店だ。

「ホールの上なんて、来たのは初めて」
 るり子さんが言った。

「いろいろあるから、好きなものが食べられると思うよ。ごちそうするから遠慮しないで」
「それは申し訳ないです」

「じゃあ、後でお茶をごちそうしてもらうのはどう?」
「……わかりました。ありがとうございます」

「どういたしまして」

 礼儀正しい子達だ。彼女も、少しもじもじしているが、嫌とかそういうことではなさそうだった。


「今日は来てくれてありがとう」
 僕はまた言った。何度でも言いたかった。

「いえ。悦子も、誘ってくれて嬉しかったって」

 彼女は下を向いてしまった。長い髪が耳からこぼれ落ち、表情が見えなくなった。おとなしくて照れ屋さんか。

「参ったな。僕はあまり慣れていないから。来るまでに少し時間があったから本屋さんに寄ったんだけど、緊張していたのか、何も目に入らなかったよ」

 来るときにこの洋服を買ったことは話さなかった。

 何も話題がないのも変だが、初めて会った日の、嫌なことを思い出させないよう、慎重に会話を進めた。沈黙は、そんなに気まずいものでもなかった。心地良い、と言ったら言い過ぎだろうか。るり子さんも、自分からペラペラ話す人でもなかった。


 左に座っていた彼女が、僕の左側の何かを見ていた。 

「あの……」

 僕のジャケットのポケットに、仕付糸が残っていた。あっ、しまった……。

「……よかったら、お取りしましょうか?」

 彼女が鞄からソーイングセットを出して、小さな鋏を見せた。

「ありがとう。頼むよ。このままでいい?」

 僕は彼女の前に生地を伸ばした。彼女は、新しいジャケットのポケットの端にある糸を、丁寧に鋏で切り、糸を抜いた。ゆっくりだったけれど、とても甘やかな所作だった。やっぱり好みだ。彼女は、鋏も抜いた糸も丁寧にソーイングセットにしまった。

「ありがとう」
 僕は心を込めて伝えた。


 料理が運ばれてきて、再び沈黙になった。雰囲気は和やかで、二人とも、ナイフとフォークの使い方、ナプキンの使い方などテーブルマナーも良く、きちんとしたおうちの上品な女性なのだと再認識した。


 食後、二人は化粧室に行き、僕は会計を済ませた。女性に食事を御馳走したのは初めてだ。満腹感以上に満たされた気持ちだった。


 美術館への道を歩きながら、僕は美術館へ行くのが好きなこと、特に拘りもなく、見ていると心が安らぐこと、仕事が忙しくてなかなか行けなくなったことなど話した。

 いつの間にか、るり子さんは少し後ろにいて、なるべく彼女を僕の近くにしてくれているようだった。彼女は、僕のほんの少し後ろにいて、るり子さんに文字通り背中を押されたり「お返事しなさい!」などと言われたりしていた。


 僕には、そんな二人ともが、とても可愛らしく映った。


 美術館の中では話をしなかったが、こっちに行く?お先にどうぞ、などの身振り手振りはお互いに伝わり、無理している感じもなく、それぞれが相応に楽しむことができた。相性がいいってこういうことかなと思うくらいだった。僕だけだろうか。


 出口付近にある喫茶店の前で、彼女がるり子さんの手を引いた。

「ここにする?」
 彼女は頷いた。

「お茶にしませんか?今度は私達が御馳走します」
 るり子さんが言った。

「ありがとう。では、お言葉に甘えて」


 昼食を取ったレストランでは、正方形の四人席で一人ずつだったが、こちらは長方形で二人ずつだ。彼女達を奥に座らせると、僕はまるで面接をするような気分になってしまった。


 彼女たちは小さなケーキのついたコーヒーセットにした。 
 僕はコーヒーだけ注文した。

 僕は彼女の目を見て聞いてみた。
「質問してもいいかな?」
「……はい」

「大学は何の学部なの?」
「……女子大の、文化芸術学部です」

「なるほど。どんなことを学んだの?」
「……美術、音楽、演劇などの、歴史とか……鑑賞も多くて、毎日の授業が、美術館みたいなんです」

「それは素敵だ。女子大か。行ったことがないな」
 僕がそう言ったら、二人とも笑った。彼女が笑った。僕は、とても嬉しかった。


「るり子さんも同じ大学?」
「いいえ、高校の同級生なんです」

「そうなんだ。ずっと仲良しなんて、二人とも素敵だね」
 二人とも笑顔だった。


「あの」
 るり子さんが口を開いた。

「単刀直入に伺いますが、あなたは、悦子とお付き合いしたいってことですか?」

 僕は驚いた。同時に覚悟が決まった。僕から言わなければいけないと。姿勢を正して、ゆっくり落ち着いて打ち明けた。

「そうだ。今まで誰とも付き合ったことがない。いつも僕が好きになった人からは『いい人』って言われるんだけど」


 テーブルの向こうで、
「いい人だって」
と、彼女が小さな声で真剣にるり子さんに言ったのが聞こえた。

「それは……」
 るり子さんは彼女に言葉を濁した。るり子さんはわかっているが、彼女はわからないんだな。

「こんな僕だけど、付き合ってほしいと思って誘いました。嫌じゃなかったら、また会ってほしい。心配だったら、るり子さんも一緒に。二人とも、心配がなくなるまで」

 丁寧に伝えた。二人とも無言だった。僕は心配になった。いい雰囲気だと思ったけど、ダメか……。





「悦子、ちゃんとお返事して」
 るり子さんが、小さい声で彼女を促した。

 その後に、もっと小さな疑問文。
「……えっと、いい時は何て言えばいいの?」



 僕は聞こえてしまって、緊張が解けた。

「それをそのまま僕に聞いていいんだよ?」

 僕は笑ってそう伝えた。
 彼女は少し驚いたように、でも、さっきより少しだけ大きな声で僕に言った。

「いい時は何て言えばいいの?」
「伝わったよ。嬉しい答えをありがとう。よろしく」

「よろしくお願いします」
 彼女は小さい声でも、はっきりとそう言った。


「悦子をよろしくお願いします」
 るり子さんも僕に頭を下げた。


 それはまるで、彼女のお母さんに交際を許可してもらったような気持ちだった。

 いや、失礼。お姉さんだな。







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