君が奏でる部屋

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藤原夫妻のエピソード

1 大切にしたい人

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 秋。
 僕が初めて彼女を見たのは、美術館の中だった。


 休日でもない、たまたま仕事が空いていた訳でもない。入社以来の大失敗をし、上司から「頭を冷やせ」と時間をもらったのだった。
 後でそれは、僕が普段から真面目に頑張りすぎた故での失敗だから、丁度いいから休ませようと追い出したと聞いた。当時、そんなことは知らなかったから、自分が役に立たないことをひどく落ち込んでいた。家にも帰りたくなかった。家といっても独身寮だ。

 僕は、時間ができたらずっと行きたいと思っていた美術館に行くことにした。


 秋晴れの、過ごしやすい日だった。
 上野の駅を降りて美術館に行く間に、子供を連れた若い母親と思われる人がたくさんいた。幸せそうで、羨ましかった。僕は恋人もいない。今まで好きになった人がいなかった訳ではないのだが、僕はいつも『いい人』止まりだ。

「あなたはいい人なんだけどね……」とか。
「いい人だって……わかってる」とか。
 『いい人』って何だろう。


 美術館で行われている内容は特に拘りはなく、時間ができたらいつでも足を運びたい場所だった。学生時代はともかく、社会人になった今は、拘りたくてもそもそも時間がない。僅かな時間でも美術館に行ければ、何でもよかった。心が救われるというのだろうか。落ち着く場所だった。


 学生の頃、美術に興味のある友人はそんなにいなかったから、いつも一人で行った。だけど今日は誰かと一緒にいたい、そんな気分だった。だからと言って誰かに話しかけるなんてできる筈もないのだけれど。

 
 広い空間の中、僕はある一つの大きな作品の前で、ちっぽけな自分と向き合っていた。僕にもこんな物を産み出すエネルギーがあれば……。







 少し長い時間、そこで考え事をしていた。

 少し離れた所から、僕が見ているのと同じ作品を、同じくらい長く見ている人がいた。若くて綺麗な女性だった。自分の好みなんて考えたこともなかったが、あの人は好みだと思った。姿形のことではない、もっと内面的なものだろうか……。わかるはずもないのに、何故か惹かれる。
 話しかけてみたかったが、僕達が会話するところは想像できなかった。経験がない故、想像力が働かないのだろう。そこでまた、仕事での大失敗を思い出した。駄目だな。せっかく美術館に来ているのに。

 僕は静かにその場を離れ、外に出た。






 夕方だった。まだ時間はある。本来ならば仕事が忙しくなる時期なのに、自分だけ無駄に時間があることに戸惑いながらも、美術館の出口からすぐ近くにある、夕焼けが眩しくない、薄暗い場所にあるベンチに座っていた。まだ、帰る気にはなれなかった。






 どのくらいそうしていただろうか。妙な……嫌な予感がした。後ろから、この場に相応しくないような空気で女性が走ってきた。男が声を掛けながら執拗に体に触れていた。女性は嫌がっていた。僕は、それがさっき見かけた女性であること、長い時間同じ作品を見ていたから、知り合いなどではなく、一人で来ていた筈だと思い、いや、思うより先に体が前に出ていった。


「君、大丈夫? 一人で来てたよね? そいつ、知り合い?」

 男はすぐに逃げていった。よかった。僕は喧嘩なんてしたこともない。よかった。やはり彼女は困っていたのだ。


「す、すみません……」

 彼女は一瞬足を止めたが、僕にも近寄らないように、すぐにまたふらふらと歩き出そうとした。

「待って。危ないから、……少し座って」

 僕はできるだけゆっくり優しく言った。そんな状態で歩かせたら、間違いなく別の奴に目をつけられるだろう。彼女を、僕が座っていたベンチに座らせた。震えている。怖かったのだろう。それに、僕のことだって警戒して当たり前だ。

「誰かに迎えに来てもらえない?」

 優しくそう聞いても、彼女はまだ震えていた。

「本当は、僕が送っていきたいくらいだ。おうちの人は? 彼氏はいる? 仲良しのお友達とか」
「……お友達……」
「お友達に連絡して、一緒に帰ってもらったらどうかな。来るまで僕が一緒に待つから」

 僕が差し出した携帯電話を見ると、彼女はおそるおそるそれを受け取った。仕事で持たされた携帯電話だ。持っていてよかった。

「……るり子、……私」
「悦子? どうしたの? 外なの?」
「るり子、……あの、今……上野、あの……怖かったことがあって……それで」
「悦子? 大丈夫? どこの公衆電話? 上野駅?」
「ううん、あの……駅じゃなくて、助けてくれた人の、携帯電話で……」

 まだ震えている彼女に話をさせることも気の毒なくらいで、僕は電話を取った。

「もしもし、彼女のお友達?」
「はい、そうです。あなたは?」
「僕は通りすがりの者です。彼女が、ちょっと怖い思いをしていたところを、通りかかっただけなんだ。……僕が送っていきたいくらいだけれど、それも……彼女は怖いだろうから、お友達に来てもらえないかと思って電話させたんだ」
「直ぐに行きます。どこですか?」
「上野駅から美術館に向かう間のベンチにいる」
「わかりました。直ぐに行きます。あなたを信用します。お願いします。絶対に悦子といてください」
「わかった。君も気をつけて来てね」
「はい、ありがとうございます」

 勝手に決めて電話を切ってしまったが、彼女は明らかに安心した表情になった。よかった。僕は、ここから見えるすぐ近くにある自動販売機で飲み物を買ってくることにした。

「そこの自販機に行ってくる。何がいいかな」

 彼女は首を振った。僕は適当に選ぶことにした。




 温かい缶珈琲を買った。僕は彼女のところに戻って見せた。彼女はそれを手にした……と思いきや、熱さに驚いて落としてしまった。

「あ……ごめんなさい」

 僕は拾ってハンカチで拭った。ハンカチを裏返して畳み、珈琲の缶を包んで渡した。


 彼女は両手で大切そうに受け取った。……やっぱり好みだ。何か話したかったが、彼女は心を落ち着かせることに必死な様子だった。僕達は黙ってベンチに座っていた。


 少し経ってから、僕は、
「お友達が見つけやすいように、上野駅に近いベンチに移動しよう」
と促した。
 彼女は立ち上がって僕についてきた。


 見晴らしのよい場所にベンチがあり、そこに座った。しばらくして、さっきの電話の主らしき張りのある声が聞こえた。

「悦子!」
「……るり子」

 彼女は走っていき、お友達に抱きついて、しゃくりあげて泣き出した。僕にも警戒していただろうし、さぞ緊張していただろう。


「……僕の連絡先を教えてもいいかな。今度、一緒に美術館に行きたい。お友達も」

 僕は、名刺の裏に寮の住所と電話番号を書いて、彼女とお友達それぞれに渡した。


 僕は駅まで彼女たちを見送り、改札で別れた。


 期待はできないな。彼女にとって嫌な思い出は、早く忘れてもらいたい。僕のことだって、……忘れてもらって構わない。


 僕はまた「いい人」で終わるのだろう。



 













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