君が奏でる部屋

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新婚時代の想い出

22 音を重ねる

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 リサイタルの前に、奥様の知人のピアニストがレッスンしてくれることになった。

 この、恵まれた幸運に感謝するばかりだ。
 プログラムと解説を彼に渡した。リサイタルの順番に通し、最後に連弾をした。

 日本で勉強しただけの僕達は、パリに来て、少しでも表現の幅が広がっただろうか。フランス語はかおりが通訳してくれたが、こちらから英語で問い返しても問題なくコミュニケーションを図ることができた。

 褒めてくれたこともあったが、新しい手法やバランス、技術的なことについても客観的なコメントをもらった。連弾でレッスンを受けたのは初めてだったから、かおりと一音一音を聴きあうことは喜びでいっぱいだった。すぐにできない程の難しい課題、内容もアイデアも多岐に渡り、丸一日かけてもらって、相応に疲れた。


 今後腕を磨いていくにあたっての長期的なアドバイスも有り難かった。今回はフランスの作曲家ばかりだったが、他の曲も聴きたいと言ってくれた。学生に教えることが多くなった僕には、本当に嬉しいことだった。



 翌日は練習日。
 昨日の復習をした。連弾の練習の他、二人で代わる代わるピアノを弾いた。かおりは、僕が練習している間はベッドで寝ていた。自分の練習に集中するためだろう。そして、目覚めてからの練習は見事なタッチで、本番に向けて良くなっていくのが見えるようだった。時間の感覚、先を見越した調整が言わなくてもできるようになっていた。


 一日中二人で練習をして、夜にはそれなりに疲れた。前日までこんなに突き詰めていくことは、僕には珍しいことだった。僕はどうしてもかおりを抱きたかった。かおりも幸せそうに静かに応じてくれた。声を我慢している様子はなかったが、頭の中に絶えず音楽が流れているであろうことが伝わっていた。おそらく『水の戯れ』だろう。僕のことだけでいっぱいにならないことに悔しい想いもあったが、そんな自由でリラックスした状態のかおりをゆっくり高めることも、楽しかった。


 そんな僕を更に満足させてくれたのは、翌日のリサイタルで僕の好みのドレスを着てくれたこと、かおりが自分から奥様にお願いしてメイクしてもらったこと、何よりかおりがこれまでで一番の演奏をしてくれたことだった。


 かおりは、プーランク作曲の『ナポリ』『カプリス』、ラヴェル作曲の『水の戯れ』を演奏した。『水の戯れ』では、一緒に見た景色や、夕べの愛の時間を思い出させてくれたようで、それは手紙の事件の時よりも、余程恥ずかしいものだった。

 
 それから、僕の演奏になった。


 僕はラヴェル作曲の『鏡』。ここはホールではなく、お城みたいなところだから、舞台袖はない。かおりは一番前の一番端の座席に座っていた。僕の背中を見ている筈なのに、直ぐ近くの背後から横顔を見られているようだった。まるで、手を伸ばせば抱き寄せることができそうなくらい……。曲間で、思わず無意識に手が動きそうになった。


 これまで、お互いに穏やかな愛情をあたためて暮らしてきたことに、感謝と幸福を感じていた。かおりはいつまでもかわいくて、飽きるようなことは想像できなかった。しかし、結婚して年を経ても、こんなにも僕に愛情を向けてもらえることに、感謝以外の言葉が見つからなかった。そして、僕はそれを全て音に乗せた。かおりの得意技だ。僕の演奏は、そういう意味でも上手くいっているだろうか。かおり、伝わったかどうか、後で聞かせてほしい。


 終曲。僕は技巧で散りばめられたこの曲を、今の自分が持てる限りの技術と情熱を込めて演奏した。後ろにいるかおりの存在を、刺される程に感じながら……。


 気がついたら、ものすごい拍手だった。僕は夢中で……直ぐには立ち上がれなかった。かおりが泣きそうになっている。何だ?


 僕はやっと立ち上がり、拍手の中、頭を下げた。

 次の連弾を演奏するために、かおりがこちらにやってきた。

「何を泣きそうになってるんだ?先に謝っておくよ」

 かおりの頬にキスをした。かおりは、伏せた目から涙を溢れさせ、
「素敵だったから……」
と言った。

 僕はタキシードからハンカチを出してそれを押さえ、直ぐにかおりをピアノの椅子に座らせた。泣かせている場合ではない。

 後ろに準備してあったもう一つの椅子をかおりの隣に置き、ドビュッシーの『小組曲』を演奏した。


 高音部を担当するかおりは、いつものかおりの音ではなかった。他人から評される、僕の特徴である透明感のある音で、僕の音色に合わせて弾いていた。僕がそのパートを弾いたなら、そのように弾き、そのような音を出すだろう。一般的に、これは双子、兄弟姉妹、親子が上手くいくと聞く。骨格の問題なのか、育つ環境によるものなのか、思考の結果なのだろうか。次に上手くいくのは師弟関係や同門同士。今ほど、幼なじみであった運命に感謝したことはない。


 本来は、師である僕がかおりの音色に合わせるべきだろう。しかし、かおりが僕の一音目から僕の音色に寄せてきたことを察知した僕は、もう変えられる筈もなかった。

 かおりは僕の音色にするだけでなく、自由に歌っていた。パリに着いた日の夜、ベッドで一緒に歌った曲だ。あの時と同じように、ぴたりと合った。



 たくさんの拍手を頂いた。アンコールを演奏してもいいだろう。


 アンコールは、かおりが低音部、僕が高音部に替えてのショパン作曲『ムーアの民謡風主題による変奏曲』。これは、変奏部分が低音が伴奏、高音がメロディーの曲だ。伴奏はメロディーの歌に合わせて弾く。かおりは、僕の手や指ではなく、明らかに僕の顔を見て弾いていた。近くから視界に入る、少しだけ見上げた視線に、僕は嬉しさと恥ずかしさでどうにかなりそうだった。客席からは、かおりの表情がよく見えるだろう。かおりは、僕が欲しい音を、欲しいタイミングで与えてくれた。完璧な伴奏だった。


 その後の拍手は、演奏にというより、睦まじいものに対する応援に感じた。気恥ずかしかった。すぐにでも、何か仕返ししてやりたくなった。


 僕はかおりに言った。

「お礼の挨拶をするから、フランス語に通訳して。ちゃんと、皆さんに聞こえるように大きな声で」 
「はい」

 かおりは大きな声を出すことに慣れていない。明らかに緊張している。


 かおりは、僕が伝えた言葉をフランス語で皆に聞こえるように声を出した。


「皆様、本日はありがとうございます」
「Merci pour aujourd'hui」


 よしよし……。


「僕達は、初めてパリに来ました」
「Je suis venu à Paris pour la première fois」

「ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが……僕達は夫婦です」
「Je pense que certaines personnes savent……je suis en couple」


 皆様あたたかく見守って聞いてくれている。僕は続けた。


「一生、かおりと一緒に弾いていきたい」
 かおりは、それまでの挨拶と同じように、皆に向かって通訳した。


 次の瞬間の客席が湧いたことといったら……。かおりは、理由か判らないのだろう。びっくりして不思議そうにしていた。かおりには、やはり二人きりの時に、耳許で囁かないとダメか……。


 もう、キスをしておしまいにした。

 たくさんの拍手だった。

















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