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新婚時代の想い出
9 初舞台の成功
しおりを挟む初夏。
私は松本さんのCD制作で伴奏をすることになった。
シューマン作曲『詩人の恋』は、16曲から成り、ハイネの詩からできている。ピアノ伴奏の音数は少なく、弾いていて歌が聴きやすい。それだけに、音質を整えて一つ一つ揃えることに気が抜けない。私は毎日基礎練習をして、丁寧に指と音質を揃えて、松本さんと気持ちを合わせて弾くのをイメージした。
慎一さんに立ち会ってもらって、何回か伴奏合わせをした。
録音スタジオでは録画をしないから、弾きやすい普段着でいいと言われた。
何人かの音響スタッフさんがいて、少し録音しては聴き直し、調整し、録り直したり、保存用に録りためたりした。私が来てからの録音だけでもものすごく時間がかかったけれど、松本さんは声の調子を整えるために、私達より早く来て、朝からずっと発声練習をしていたという。
慎一さんは、私の譜めくりをしてくれた。紙をめくる音をさせないように、静かにめくってくれた。ピアノは、実際に音を出している場所より、常に楽譜の先を見て弾く。慎一さんは、私が見ている音符よりも更に先を見守ってくれて、次々と楽譜を開いてくれて、とても安心して弾くことができた。
『詩人の恋』の後、『ミルテの花』から『献呈』も録音した。いずれ全曲取り組みたいけれど、今回は『献呈』のみ、ということになった。
全ての曲を録音し、音響スタッフさんとそれを聴いて確認したり、どのテイクにするか話し合ったりした。私の音量や音質に関しても、目に見える波形で改善点がわかり、新鮮だった。全てが終わった瞬間、松本さんは、一気に緊張を解いて脱力したのがわかった。疲れは見えたけれど、いい表情をしていた。
「かおりさん、槇も、ありがとう。上手くいったら必ずご報告します」
そう言って私に封筒を渡した。そうだ、これはプロポーズのための音楽だったんだ。素敵なプロポーズになるだろうな。きっと良い結果になると思う。
外に出たら夜だった。
スタジオは外の光が入らなかったし、集中していて、どのくらいの時間が経ったのかわからなかった。
車を停めてある、少し離れた駐車場まで、慎一さんと夜の道を歩いた。私はまだまだ歌いたくて、頭は冴えていた。なのに体が疲れているみたいで、少しふらふらした。慎一さんは、私の肩を抱いて歩いてくれた。
車に乗ってから、慎一さんが体ごと私を見て話しかけた。
「かおり、伴奏の仕事はどうだった?」
「え?仕事?」
「仕事だよ。封筒を見てごらん」
私は松本さんに頂いた封筒を見た。
一万円札がたくさん入っていた。私は驚いて、慎一さんを見た。
「かおりの初仕事だね。どう?またやりたい?」
「こんなにたくさん……。私にできることなら……また機会があれば、弾かせて頂きたいです」
「そうか」
慎一さんが笑ってくれた。こんな笑顔、久しぶり。慎一さんのこの表情、大好き。最後にこの表情をしてくれたのはいつだろう。あ…………、私が『本番のピアノ』を弾いたから?もしかして、そう、なの?
「あの、私、慎一さんに何かプレゼントしたいです。何か欲しいものはありませんか?これで買えますか?」
「ありがとう。僕は、かおりがピアノの『本番』を弾いてくれて嬉しかった。何もいらない。でも、……何か思いついたら言うよ」
車が動き出した。
体に感じる、その僅かな振動は、慎一さんから与えられたもの。
私は安心して、久しぶりの充実感と幸せで胸がいっぱいになった。
緊張がほどけて、そのまま目を閉じた。
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