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講師時代の想い出
3 不安
しおりを挟む音楽大学の学部生と大学院生にとって一大イベントであるコンチェルトオーディション。
今年もピアノ部門が五月末に開催される。そのための試演会は、四月末の月曜日に決まった。
妻は別の大学に在学中だが、音楽大学附属音楽教室の特待生としてレッスンに通い、学内の公式行事に参加できる権利を持っていた。妻の担当教員は、フランスから招聘されたA氏で、僕が副担当となっている。下見とも言ったり、ダブルレッスンと言ったりする。
平山はファンが多い。妻が、僕や平山と接触するのを他人に見られたくなかった。結局、試演会はそれ以上の人数にならず、僕としてはそれでよかった。内心ほっとしたくらいだった。おとなしくて人見知りの妻に対して「この人は誰?」と聞かれたり、詮索されたり、いちいち「妻です」と説明するのが嫌だった。いや……妻をあまり人に見せたくなかった。
平山は、僕の妻を知っている数少ない人物だ。平山には、「妻には、試演会で弾いたらすぐに帰るよう伝えたから宜しく」とメールしておいた。
試演会は、妻と平山の担当教員であるA氏のレッスン室で、放課後に行われることになった。
コンサートサイズのスタインウェイのグランドピアノが2台並べてあるその部屋は、この音楽大学で一番環境の良いレッスン室だ。その部屋は、月曜日の最後の時間割が平山のレッスンだ。僕はレッスン終了時刻に合わせてレッスン室に行った。
ドアの硝子窓から中を見て驚いた。妻が既に来ていた。大学を早退したのだろうか。様子を伺っていると、平山のレッスンでオケパートを弾いていたらしい。高等部を卒業するまで皆勤だったが、大学は特に拘っていないようだ。おとなしい妻も、自分で考えて選択するようになったのか。それは新鮮な驚きだった。
僕はレッスンの腰を折らないようなタイミングで部屋に入った。
妻が一人で来られるか密かに心配していたのだが、姿を見て安心した。今更ながら携帯を見ると、
「今から音大に向かいます」
「音大の正門に着きました」
「エレベーターで6階に着きました」
と三件のメールが来ていた。
以前、僕に何も言わずに何処かへ出かけ、僕よりも帰宅が遅くて連絡が取れなかったことがあった。心配のあまり強めに注意したら、それからというもの逐一メールを送ってくるようになった。素直と言えば素直だが極端だ。まぁ、撤回するつもりもないが。
妻は大学生だ。お嬢様学校の幼稚部からそのまま内部推薦で女子大まで進んだ。妻のお母さんも僕の母親もその同窓生で、僕達は同じ社宅で育った。妻のことは、産まれた時から好きだった。大学講師になれることが決まった僕は、妻の高校卒業と同時に結婚した。それが、つい先月のことだ。
式は三月末だったが入籍したのは二月で、それから一緒に暮らしている。妻は子供ではない。ただ、大人とは言い切れないところがある。
大学生だからではない。お嬢様だからでもない。顔つきは日本人でも、外国の絵画に出てくる少女のようだと、それに似たようなことを複数の人から言われたことがある。とにかくおとなしくて、繭の中にいるような女の子だった。素直で純粋で、ピアノが好きだった。僕がイチから教えた、僕の音を聴かせて育てた、自慢の生徒だ。
しかし、最近は初めてのスランプか、元気がなかった。もともとおとなしいが、平山のコンチェルト以外はほとんど練習しなくなった。何を考えているのかわからない。見えない翼が透けていくように感じていた。
本当は、理由は判っている。
しかし、これでいいのかどうかはわからなかった。
「オーケストラの音、ココがよかった。コッチはこうした方がいい。ココを聴いて、ココを前に出して」
おそらく、そういったことを話しているのだろう。僕は、理解出来るだけのことを注意深く聞いていた。レッスンは、終了時刻を過ぎても終わる気配はなかった。妻にはフランス語で話すA氏、平山には英語で話すそれぞれの会話と音を聴きながら、妻を見た。今のところ、そう変わったことはない。
ソリストの如月さんとオケパートの小林さんがレッスン室の外に到着したのが硝子越しに見えた。中の面々も、あちらに気づいたようだ。
「カオリ、マタネ」
A氏は妻をハグして、レッスン室から出て行った。
僕に、紳士らしい微笑みを残して。
さあ、試演会だ。
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