君が奏でる部屋

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子供時代の想い出

1 心の彼女

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 これは、ちょっとした覚書。

 僕には、小さい頃から恋人がいた。
 妹ではない。

 将来は結婚したいから、恋人というだけだった。肝心な恋人の気持ちはわからなかったし、そもそも恋人という言葉の意味もわかっていなかった。後に「心の彼女」と呼ぶことにした。

 僕の母親はピアニストだ。僕が小さい頃は、まだ大学の講師をしていなくて、演奏活動も控えめにしていた。リビングのテーブルには毎日季節の花を飾り、僕が食べるおやつを手作りして、絵本を読んでくれ、ピアノを弾いてくれた。幼稚園に上がるまでの数年間、そうして一日中ずっと僕と遊んでくれた。

 ピアノに関しては、僕は丁寧に弾くことだけはあまり……全く気にしていなかったことを覚えている。平仮名や片仮名、漢字にも興味があって、幼稚園のお受験の勉強などは苦にならなかった。不思議なことに、楽譜を読むことはもっと楽しかった。子供用の簡単なテキストはすぐに物足りなくなり、進むのは速かった。

 同じ社宅の、母親の友人の家庭に産まれたのが彼女だ。産まれた時から、かわいくてかわいくて、僕はこの子と結婚すると決めた。

 名前は『かおり』という。小さい頃は『かおちゃん』と呼んでいた。

 僕のピアノの発表会に、かおりのお父さんが、産まれたばかりの彼女を連れてきてくれた。僕は『エリーゼのために』を彼女に聴かせるために、初めて気持ちをこめて丁寧に弾いた。それをきっかけに、普段弾く曲、普段の練習でも同じように丁寧に弾くようにしたら、面白いように上手くなっていった。母親がたくさんほめてくれるようになった。



 かおりのお母さんは病気らしく、かおりはほとんど僕の家にいた。
 かおりが2才になった頃のことだった。ベビーベッドの中から、僕がピアノを弾くのをずっと見ていたかおりは、全く言葉を話さなかった。ある日、ベビーベッドから出たがるようになった。出たいという意思を伝えることを思いついた、という感じだ。ベビーベッドから出して自由にしてやると、自分からピアノの近くに来て、僕に目で何かを伝えた。僕は、かおりも弾きたいのだろうと勝手に解釈して、僕の膝の上に座らせて、かおりの手を鍵盤に置いてやった。小さなかおりは、力が弱くて、鍵盤を押しても音が出なかった。泣いたり怒ったりしなくて、あきらめたみたいだった。僕はその表情を見て、とても可哀想に思った。

 僕は、かおりが落ちないように左手でしっかりだっこして、その場で思い付いたメロディーを右手で歌うように弾いた。かおりは、自分が音を出せなくても、僕にだっこされてそれを見たり聴いたりするのがとても気に入ったようだった。
 左手が疲れたら、今度は右手でかおりをだっこして、左手で即興のメロディーを弾いた。かおりはそれもよく見て、よく聴いていた。
 それからというもの、かおりはベビーベッドに入れられるのをいやがり、自分でピアノの椅子のところに行って両手を上げた。だっこしてピアノを弾いてほしい、の僕への合図だった。かわいくてかわいくてたまらなかった。
 おかげで、僕は片手の練習をものすごくたくさんすることになった。

 かおりは眠くなると、手の力が抜けて、頭がゆらりと動くのですぐにわかった。しかし、ベビーベッドに寝かせようとすると、途端にいやがった。おとなしいかおりの、唯一のわがままだった。仕方がないので床に寝かせた。だが、床に寝かせると母親に怒られた。
「だってベビーベッドに寝かせようとすると、かおちゃんは怒るんだもん」
と母親に言ったら、ベビーベッドの足に小さな車輪をつけて、ピアノの隣に動かしてくれた。それからは、かおりはベビーベッドに寝かされてもいやがらなくなった。本当にピアノが好きなんだな……。
 僕は、かおりが寝ている時だけ両手で弾いた。片手練習が多いからか、両手で合わせたら直ぐに弾けて、面白かった。

 そのうちに、片手でだっこしなくてもかおりは座っていられるようになり、僕はかおりを膝に乗せたまま両手で弾けるようになった。本当は弾きづらかったけれど、両手での練習が進んで楽しかった。かおりも僕の右手を見たり左手を見たり、楽譜を見たり、飽きずに僕の膝の上に座っていた。

 鍵盤に手を置いて音が出なかったかおり。それ以来ずっと手を出さなかった。



 ある時、久しぶりに手を出して、鍵盤をゆっくり押した。

 小さな音が出た。

 かおりが、自分で感動していたのがわかった。目を見開いて、驚きと喜びと、それから、手の感触……。

 僕も、嬉しかった。

 それからは、かおりが自分で音を出すことに飽きるまでつきあった。かおりは、なかなか飽きなかったので、僕の練習はできなかったけれど、僕はその様子を見ているのが幸せだったし、練習ができていなくても母親は怒らなかった。

 かおりが2才半頃から、指一本を一つの鍵盤に置いて、指を独立させて弾いて戻すことができるようになった。

 僕は、発表会で弾いたことのある、フランス民謡の『つきのひかり』をかおりに教えた。

 僕はその頃、メンデルスゾーンの『無言歌集』や、ベートーヴェン、モーツァルト、ハイドンのソナタを弾くようになっていた。

 かおりは、僕が弾くいくつかのソナタのメロディーを覚えて、ピアノに合わせて歌うようになった。言葉も話さないのに、かおりの歌う声は透き通るようなきれいな声で、鼻歌でもハミングでもなく、一生懸命声を発していた。

 愛しくて愛しくてたまらなかった。

 僕の母親の発表会までに『つきのひかり』を弾けるようにすることは、そんなに大変ではなかった。発表会の日までに、もっと長い曲や、もっと難しい曲でも大丈夫だと思うくらいだった。

 しかし、かおりは弾けるようになった『つきのひかり』を、宝物のように大切にして、丁寧に、まるで指が歌うようにして弾いていた。幼児のそれは、もちろんたどたどしいものだった。それでも、母親がよく言っていた歌心のある演奏そのもので、僕にはない物を持っているかおりを羨ましく思ったことを覚えている。



 かおりの初めての発表会は、3歳と3日めだった。
 僕は、かおりの手をつないでピアノの前まで行き、一緒にお辞儀をして、椅子の高さを調整してからかおりを椅子に座らせた。
 かおりは、可愛らしいワンピースの膝に手を置いて、目を閉じた。

 僕はステージ袖に戻った。

 『つきのひかり』の演奏が始まった。まるで、本当に歌を歌っているような美しい響きだった。僕はかおりの演奏に、負けたとすら思った。でも、悔しいとか、そんな気持ちはなかった。

 演奏が終わり、僕はかおりを椅子から降ろしてやり、一緒にお辞儀をしてステージ袖に戻った。


 僕は、
「かおちゃん、よくできたね」
と頭を撫でたら、それはそれは可愛らしい表情でにこっとした。

 かおりは、僕を見てゆっくり口を横に開いた。
「しん、ちゃん」

 初めて、言葉らしい言葉を発した。

 それは、僕の名前だった。
僕は、直ぐに母親に報告した。
「お母さん、かおちゃんが僕のこと、しんちゃんて言った!」
 母親は驚き、そして笑った。
「やだ、しんちゃんったら、お父さんにそっくり!女の子手なずけるの、巧すぎ!」

 僕は意味がわからなかったが、何か嫌な感じだった。

 もう、報告するの、やめようっと。
 だから、ここに書いておく。

 もしかしたら、将来……僕に息子ができて、同じようなことがあるかもしれないから。

 僕は、その後メンデルスゾーンの『無言歌集』から3曲を演奏した。

 最初に弾いた『春の歌』は、さっきの「しん、ちゃん」という言葉、かおりのにこっとした笑顔を思い出しながら弾いた。


 ステージ袖に戻ると、母親が言った。
「練習の時よりずっと良かったわ。暖かくて、幸せな音だった。何を考えて弾いたの?」


 もう、教えない。
 僕は横を向いた。

 かおりがにこっとして僕を見ていた。












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