君が奏でる部屋

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49 スランプ

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 大学で、音楽教室の生徒のレッスンが終わった。

 僕は4月から、音楽大学と大学附属音楽教室の講師になる。本当は4月からのカリキュラムだけど、春休みのオプションレッスンの希望者は多く、音楽教室で担当するほとんどの生徒のレッスンをした。親御さんも感じの良い方ばかりで子供達も真面目な子が多かった。

 4月からは大学1年生を何人か担当する。全員男子学生だ。

 僕が音大生だった頃、好むと好まざるとに関わらず女の子が近づいてきた。賑やかな子は母親みたいで好みじゃない。黙っている子以外は全員煩く感じた。しかし、いずれ講師になるからと、彼女達の手や骨格を意識して見ると、高校生のかおりと比べて手が小さくてびっくりした。あれでどうやってラフマニノフとかを弾くんだ?リストだってベートーヴェンだって、和音をつかめるのか?フォルテの連続はどうするんだ?

 講師になるにあたって、大学側が僕の希望を聞いてくれたので、ひとまず男子学生のみと書類に記入した。蓋を開けてみると、今年入学するピアノ演奏科の男子学生が全員僕を希望し、今年度の受け入れ人数の上限8人ぴったりになった。女子学生の希望者もいたが、第二希望の講師に空きがあったので全員そちらに回ってもらった。

 僕の教授の門下に、同級生はいない。僕が入学したことで大学の客員教授となった教授に、ピ演科トップの先輩が加わり、後に後輩の高橋……平山がいるだけだった。平山は、本当は同じ年だが、平山が僕を先輩と呼び、崩す姿勢を見せなかったので、僕は話しやすい『先輩』でいようと思った。

 僕の門下生……生涯切磋琢磨できるいい仲間になってもらえるといい。


 帰宅すると、かおりがいなかった。今日はどこかに出かけるなんて聞いていなかった。かおりがお父さんとやり取りしていた習慣の『お出かけ先のメモ』もない。靴もない。洋服は……買い足したばかりだからまだ把握していない。

 メールも来ていなかった。僕からメールしたが、返信はなかった。電話もしてみたが、応答はなかった。

 一緒に暮らしてからまだ少しだが、こんなことは初めてだった。まだ暗くなったわけでもないのに、すごく心配だったし、すごく嫌だった。練習する気になれなかったし、食事をつくる気にもなれなかった。かおりは子供じゃない。このくらい……自分を狭量だと思ったが、どうにもならなかった。

 少し暗くなってきた。かおりはまだ帰らないし、あれから何回かかけた電話も応答がなかった。苛立ちが募った。

 玄関の鍵の音がした。僕はすぐに玄関に出ていった。かおりはそこに俯いて立っていた。よかったと思ったのに思わず声を発していた。

「かおり、どこに行ってた!何故電話に出ない?」

 かおりに声を荒げたのは初めてだった。止まらなかった。言ってから、しまったと一瞬思ったが、かおりは俯いたまま小さな声で「ごめんなさい」と言った。かおりが言い終わらないうちに、僕はすぐにきつく抱きしめた。少し後ろにマヤちゃんがいたのがわかった。

「槇さんすみません。かおりは今日、うちに来てくれて」
「ありがとう。かおりから連絡がなかったから」

「そうだったんですね」
「平山はさっき大学で見かけた。電話するよ」

 僕はかおりを離して平山に電話した。

「あ、平山?マヤちゃんがこっちに来てるから、入れ違いにならないよう連絡してみた。……あぁ、代わるよ」

 マヤちゃんに電話を代わると、大学のロビーで待ち合わせることになったようだ。

「槇さん、ありがとうございました。今日はこれで。かおり、またね。槇さんにちゃんと話してね。大丈夫だからね」

 マヤちゃんは言うだけ言って、行ってしまった。

 何か話したいことがあるのか?

「かおり、入って」
「はい。……遅くなってごめんなさい」

 かおりをソファに座らせて、下を向いたままの手を優しく握り、ゆっくり静かに伝えた。

「大きな声を出して悪かった。心配したんだ。これからは僕に連絡して?」
「はい。ごめんなさい」

「それから?」
「えっと……ごめんなさい」

「違う、それはもういい。僕に何か話すことが?遊びに行ったわけじゃないんだろう?マヤちゃんに何か相談しに行ったのか?僕には力になれないことなのか?」
「あ、……うん。何て話したらいいか……」
「わかった。コーヒーを入れてくるから」

 コーヒーを入れて、かおりには少し甘くして、牛乳で温度を調節し、猫舌のかおりが飲める温かさのカフェオレを作った。

 僕はブラックでそのまま少し飲み、かおりが飲んで暖まったのを確認してから、優しく抱きしめてキスをした。同じコーヒーのブラックの僕と、砂糖とミルクで甘くなったかおりとのキスはとても離れがたくて、長く長くそうしていた。かおりはいやがらなかったし、ゆっくりと僕に体を預けてきた。珍しく甘えているようだ。そうだ、これを伝えてあげればいいのか。

 僕は、唇を離してかおりに伝えた。

「かおり、今みたいに僕によりかかったり、かおりからくっついてくれたりするのが、僕は堪らなく好きだ。二人の時は、そうやって、もっと僕に甘えてほしい」

 かおりは今、初めて何かを理解したらしく、黙って自分から僕にすり寄って、上を向いてキスを求めてきた。僕はそれに応えた。かおりが自分から体を離すまで。かおりからこんなことをしてくれるなんて。何があった?

 かおりは、なかなか話してくれなかった。









 かおりがようやく口を開いた。

「今日、…………慎一さんがいない時に練習したんだけど、11番が全然できない。全然、指がはまらないの。もう、何日も練習しているのに」
「ショパンのエチュード?あぁ、まだあまり見ていなかったね」

「慎一さんのDVDみたいに、全然弾けない」
「僕も、あれは少し時間かけたよ。ノーミスで弾くのは他の曲より大変だった。他の指が他の音を触っちゃうし。今からやろうか?」
「うん」

 かおりはピアノのところに行って楽譜を開いた。両手で通して、止まってしまった一小節をゆっくり繰り返して練習した。

「かおり、一小節が出来ない時はどうする?」
「その半分を練習する」

「はい、どうぞ」
 かおりはその半分をゆっくり繰り返した。

「かおり、半分が出来ない時は?」
「1拍……」
「やってみて」

 かおりは1拍をゆっくり弾いた。
 おかしいな。変だ。
「できない……」
 かおりはやめてしまった。

「かおり、何故だかわかる?」
「えっ?……難しいから」 
「違う。集中していないから」

 かおりは、固まったまま動かなかった。

「自覚はあるんだね。かおりが出来ない筈はない。どうして集中できない?理由は?」
「そ、それは……」

「理由がわかっているなら心を整理して。そうじゃなければ練習の無駄、かおりの時間も僕の時間も無駄。もうかおりは大人だからわかるだろう」
「わからない!できない!まだ大人になれない!」

 かおりは顔を歪ませて、ピアノ椅子から立ち上がり、どこかへ行こうとした。僕は咄嗟にかおりの両腕を掴んで壁につけて立たせた。逃さない。ピアノから、泣いても……僕から逃げるなんて許さない。

 珍しいな。教授のレッスンで、僕が見ていない時期にも、こんなことがあったのだろうか?教授の方がよっぽど厳しかった筈だ。同門だからわかる。レッスン後の憔悴した顔を見ればわかる。教授は女として甘くはしても、音楽には妥協しない。こんなことくらい、大したことではない。あそこまでの高みを目指したんだ。限界を超えさせるため、レッスンで泣かされたことだって普通にあっただろう。僕は、かおりに対してそこまでできない。そこまでのものもない。だからこそ究極の師に託したかったのだ。

 かおりは自分で理由がわかっているみたいだ。
 かおりがレッスンで言い返してきたのも初めてだった。何だ?僕は、何も言わずにかおりを見ていた。こんな表情は初めてだ。







 しばらくして、かおりは自分から口を開いた。


「……だから、私がまだちゃんとした大人じゃないから、ママになれないの?」
「え?……かおり、何?」

「……私が……まだ大人じゃなくて子供だから、慎ちゃんのママになれないの?」
「……そんなにすぐに、ママになりたいの?」

「……先生のことが頭から離れなくて、何も手につかないんです。指が動かないんです。楽譜を見ていても、どこを弾いているかもわからない……」

 僕は驚いて、何と言ったらいいか困った。指がはまらない、姿勢も背中も腰も決まらない。ここのところぼんやりしていたように見えたのは、そういうことだったのか。スランプか。真剣に取り組んでいるからこその現象だし、今までになかった壁だ。どうする?原因が僕だとは……。

 しかし……。入籍を早めただけで、結婚式だってまだだ。一緒に暮らし始めてから、たった数日だ。子供が出来るような事だって、まだそんなにしていない……。いや、かおりはこれから大学生だし、子供なんて、いくらなんでも早すぎる。経済的には何とかしても、まだ二人だけでいたい。かおりを独り占めしたい。……僕の考えの方が、よっぽど子供だろうか?

「シャワー浴びて考えてくる。今日は時間があるから、話の続きはベッドでしよう」





 シャワーを浴びて出てくると、かおりはさっきのところを練習していた。泣いてすっきりしたのか、僕に話して落ち着いたのか、集中していて、僕が見なくても練習は進んでいた。

 かおりには声をかけず、キッチンに行って軽食を用意した。僕だって今日はかおりの事が心配で、練習も料理もしていなかった。僕だって同じだ。

 かおりが好きなメニューを、かおりの好むように薄く味をつけた。かおりは、調味料をほとんど使わないくらいの味でいいと言う。それでも最初は薄味に作ってかおりの分を取り分けて、後で僕の分にだけ調味料を足していたが、面倒になったのと、慣れてくると薄味で十分だと思えた。今では同じ味つけ……素材のままの料理を食べている。

 かおりは、あんなに出来ないと言っていた11番の譜読みをあっという間に終わらせてしまった。まぁ、本来のテンポでノーミスで弾くにはあと少し練習が必要だが、これだけ集中すればできるだろう。

 曲が終わるタイミングで、野菜の入ったパスタをピアノの横のソファーに持っていった。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 かおりは、僕の横にぴったりくっついて座った。僕の左に座ると、かおりの右手は動きが制限されるだろうに、時々僕にぶつかっては具を落としている。……いつものかおりだ。

 夜、ベッドでかおりを抱きしめながら話した。僕もまだ子供っぽい面もある。かおりのことが大好きで、もっとデートしたいとか、一日中抱きしめていたいとか、ベッドでいろんなことをしたいとか、一緒にピアノを練習したり、聴いたり聴かせたりしたいとか、話した。

 まだまだかおりを独り占めしたいから、赤ちゃんはもう少しだけ考えさせてほしいこと。

 それから、僕が思っていたよりも、かおりが僕のことが好きなんだとわかって、嬉しかったと。ピアノと同じように、それ以上にそれを表現して?


 僕のために、もっと表現力を磨いて?
 僕は、もっと先に行ってかおりを受け止めるから。

 返事はなかった。
 かおり、いつ眠ったんだ?
 僕の言葉を、どこまで聞いてくれた?
 僕の気持ちは、伝わったのだろうか…………。











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