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45 高橋の部屋
しおりを挟む俺の名前は、高橋慎二。
関西の、……他人には略して関西と話すが、実際はもう少し離れたところにある地方都市の出身だ。
高校生一年の時に出場したコンクールがきっかけで、教授にプライベートレッスンを受けるようになった。高校生部門で一位になったからだ。
俺には少し年の離れた兄がいる。兄は普通にサッカーや野球といったスポーツが好きで、俺は音楽やピアノが好きだった。でも、俺の両親には音楽への理解がなかった。
月に一回の教授のプライベートレッスンでは、俺のレッスン時間の後に必ず槇慎一がいた。門下に女はいなくて、槇慎一は同じ学年の男子だったがタイプも違うし、ライバルだとも思わなかったし、親近感さえも感じなかった。
俺は関西から来ているから、朝早い時間や夜まで及ぶレッスンなど、交通事情と両親の理解がない為に不可能だった。レッスン代だって高額だ。月に一回が限界だった。
槇慎一は、教授の家から電車と徒歩合わせても50分だと言う。一度、高校時代に交通事情で帰れなくなり、槇慎一の家に泊めてもらった。羨ましいとか、そんなレベルではなかった。桁が違った。
都内の閑静な高級住宅地にあるマンション。グランドピアノが2台あるレッスン室、リビングには亡くなった作曲家が所有していた曰く付きと言われるコンサートグランドピアノが置かれていた。槇慎一の彼女とは、同じマンション……社宅らしいが……で、毎日子供の頃から一緒にピアノで遊んでいただけだという。
驚くことに、彼女の親にはピアノに理解がないというより全く関心がなく、家にピアノも楽譜もないとか。槇慎一は俺に弱音を吐いたり、人に弱味を見せたりもしなかった。しかし、彼女のピアノが花開くかどうかは自分にかかっている、自分の限界が見えそうで怖い、とそれだけ呟いた。その時俺は初めて、理解がないということは、ある意味理解があるからこそなのだということを知った。
俺は月一回のレッスンなのに、彼は毎週レッスンに呼んでもらえること、母親がピアニストで音楽に理解があり、教授のところには小学校高学年から通っていること、既に生徒がいることも……それは即ち人物に魅力があるということ、それにあれは彼女と言ってもいいのでは。
俺は185センチと身長にも自信があったが、槇慎一は190少しある。並ぶと、ほんの少し目線を下げられる。名前も、俺は二番みたいで不愉快だったが、何もかも仕方のないことだ。
俺が槇慎一と同じ学年なのに彼の大学の後輩なのは、現役では東大に行ったからだ。両親に、音大に行ってピアニストになりたいと切り出した時は、思い出したくない出来事になった。
東大に在籍しながら仮面浪人して、教授のいる私立音大に特待生で合格した。学費もかからないのに両親は反対したが、兄が間に入って俺のために説得してくれた。
特待生はピアノ演奏科で学年一人と決まっていて、一つ上の学年はもちろん槇慎一だった。槇慎一は、俺に言わせるとお坊っちゃまで、人を疑わないし、性格が良かった。
数年間、教授のプライベートレッスンで顔を合わせていたから、入学後も気軽に声をかけてくれたし、教授と三人で食事に行くこともあった。男子は少なかったし、音大の女たちから槇派とか高橋派とか騒がれたり、慎一&慎二とまとめて扱われることにうんざりしている気持ちは同じだった。女は好きだったが、何人かいればよかった。本当は、たった一人大切な女が欲しかった。
それから、
「身長伸びる時、痛かったよな。痛くて痛くて眠れなくて、父親もそうだったみたいだから言えなくて、反抗期は全部教授にぶつけていたが、それすら受け止めてもらって感謝している」
なんてことまで俺に話してきた。
本当に性格のいいお坊っちゃまだ。俺は、教授にそこまで甘えていられなかった。もちろん、槇慎一の次に大切にしてもらっていたのはわかっていた。
槇慎一のピアノは、教授の指導の賜物であるし、俺とは違うタイプのピアニストだからオトモダチになりたい訳ではなかったが、俺は槇慎一を尊敬していたし、彼は俺を良い後輩として信頼してくれていた。どんなに環境に恵まれていても、ピアノや音楽が好きで、それだけの努力もしてきた人だ。理想やタイプは違っても、槇慎一のピアノは素晴らしくて、俺の良き先輩だ。
槇慎一が、国内で一番レベルの高い件のコンクールで年齢無制限の一般部門で一位になり、次の年に槇慎一の彼女……藤原かおりが一位になった。彼女も教授のプライベートレッスンを受けていた事実に驚いた。それまで、教授の門下に女はいなかった。
槇慎一の彼女……藤原かおりのコンクール予選の演奏は全てチェックして聴いていた。それに、まだ17才だったとは驚いた。この部門では学年が記載されないので高校二年か、三年かわからないが、若くて、背が高くて、モデルというより人形のようだった。ステージマナーが少々慣れていなくて儚げな印象だったからだろう。しかし演奏はそれなりに深みがあった。教授のお得意とする豊かな音色の、短期間で準備されたとは考えられない仕上がりで、どの曲も完成度が高かった。印象と演奏のギャップにも、堪らなく惹かれる何かを感じた。
それから、槇慎一の彼女への気持ち……何も伝えていないし、時期が来るまで伝えるつもりもないという関係に崇高さを感じ、羨ましく思った。俺も遊びの女じゃなく、大切にしたいと思わせる女が欲しい。本当は、俺が誰かに大切にされたかった。
あいつに会ったのはそんな時だった。
槇慎一が入籍したことは、本人が軽く教えてくれたから、周囲では一番早く知っていた。それも、学食に新しいサイドメニューができてたみたいな感じの報告だった。名前も藤原になると。名前まで!何故?全くわからなかった。まるで、彼女と結婚するというより、保護者になるためのように見えた。まぁ、それはいい。
ある日、大学のロビーで女たちに囲まれている槇慎一を発見した。面倒そうに目を伏せて、自分のこめかみに手をあてた左手の指に、ライトが反射して光った。近づいてよく見たらやはり薬指で、指輪は細身だったが、女避けかと思うくらいにピカピカだった。
俺は、
「藤原先生!」
と声をかけてみた。彼はすぐに反応した。
「もう、名前が馴染んでいるんですか?早速指輪着けて、愛妻家ですね。向こうから光って見えましたよ?」
そこへ、知らない女が出てきて俺に相手をしてほしがった。最初は面白半分だったが、あいつの何か必死な感じが、俺の何かと同じ気がして、観察してみることにした。母親がヴァイオリンの小石川先生というのも良かった。
去年の冬の実技試験に、ヴァイオリン専攻の同級生の伴奏をした。その時に小石川先生のレッスンに同伴した。小石川先生の音楽への強い情熱、厳しい指導、美人で勝ち気そうな雰囲気は好みだった。その娘か。なるほどよく似ている。演奏も。音大には楽々入れるレベルだが敢えて選択しない。それでいて、情熱がある。
落とすのに、一番効果的な曲は何か考えた。普通の女になら『ラ・カンパネラ』か、いやもっと短時間ですむ『革命』を適当に弾けば充分だ。本気なら『幻想即興曲』を甘い雰囲気たっぷりに弾いてもいい。それでも5分だ。いや、それも飽きたな。
俺は、珍しく自分に勝負してみた。別にそいつが落ちても落ちなくても、次の教授の初レッスンの練習だと思えばいい。俺は一切おふざけ無し、格好つけも無しで、『ワルトシュタイン』を全楽章通して真面目に弾いた。
俺の母親は、威圧的な父親におどおどしているだけだ。父親は俺の音楽には反対だったし、母親が俺の味方にならなかったように、俺も母親を庇うこともしなかった。酷い扱いをされていた訳ではないが、あの母親の人生は、俺のおかげで更に悪くなったかもしれない。父親と上手くいかなくて、申し訳なかった。兄と父親、母親は上手くやっているから、逆に俺はすんなり東京に出してもらった。俺はもう、家には帰るつもりはない。
あいつはあいつで、父親の決めた婚約者……家柄がいいだけで面白くもかっこよくも若くもない、幼稚部からの女子校出身のブランド嫁が欲しいだけだとレストランでぶちまけてきた。安いワインで酔った訳ではないことはわかった。そして、独り暮らしの俺の部屋に誘った。俺の部屋ですぐに抱き合い、互いの何かをうめあわせるように求めあった。そして、互いに決意した。
それからすぐに、マヤは俺を小石川先生に紹介してくれた。小石川先生は、伴奏に同伴した俺のことを覚えていてくれたし、教授の門下なのも、特待生なのも、実家がどこなのかも知っていた。
小石川先生の名前は旧姓で、マヤは平山マヤというのだそうだ。
「マヤさんのように、明るい発音の、いい名前ですね」
槇慎一になったつもりで言ってみたら大当たりだった。
小石川先生は、
「高橋くん、平山になる気はある?」
と聞いてきた。
「はい」
俺は答えた。
実家で俺が欲しかったもの、それを全てマヤがくれる。俺は、マヤの望む、若くて面白くて格好いい男になろうと決意した。
今住んでいる、音大生向け防音マンションは今月末で引き払い、マヤの実家に入ることにした。今の部屋よりも広い、俺専用の部屋……別宅と、そこにスタインウェイのグランドピアノを用意してくれるようだ。
マヤと平山家を大切にしていこうと思う。
平山慎二になりましたと、槇先輩に言ったら驚くだろう。
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