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43 亜麻色の髪の乙女
しおりを挟むかおりのリサイタルは大成功だった。
3つのプログラム、それぞれ約50分のプログラムを一日かけて3公演行った。
リサイタルの準備は、コンクールの時のような厳しい緊張感ではなく、かおりは僕との生活に慣れていく過程と共に、音楽的にも安定していった。それよりも、精神的な落ち着きは明らかだった。カウンセリングで、可能であれば早めに結婚をと勧められたのも納得した。結婚式は3月末のかおりの18才の誕生日だが、入籍を早めてよかった。
今までかおりが苦手だった会話は、答えにくい類の質問にも、きちんと言葉を考えて僕に答えてくれるようになった。特に、ベッドの中で逃げないように抱きしめると、安心感から話してくれるようになった。今までの僕に対する想いも、僕にどう想われているか不安で悩んでいたことも、かおりはずっと片想いしていたことも、僕には他に彼女がいると諦めていたことも。もっと早く伝えればよかった。
リサイタルの日は、ホールを一日使わせて頂けた。午前中はゆっくりリハーサルをして、音の響きを聴きながら、丁寧に練習した。あまり弾かせすぎないよう切り上げさせた。開演準備の時間まで、控え室でかおりを寝かせることにした。
控え室は、一番奥の小さい部屋にしてもらった。誰も来なくて静かだった。僕は、かおりが眠るまで頬を撫でて、かおりを見つめていた。かおりは、演奏に集中するために眠るということが理解できていたから、僕に見つめられても照れたり笑ったりしないで、目を閉じて眠ることに集中した。
そして、時間もかからずに意識をなくしていった。……いい子だ。僕は眠ったかおりに、静かにキスをした。同じようにした2回目のキスも、かおりには内緒だったな……。
かおりのお父さんに招待券を贈ってあった。今まで、お父さんは仕事が忙しくてなかなかステージ姿を見に来てもらえなかった。かおりが10才で『愛の夢』を弾いた時以来だろうか。初めて教授に出会い、レッスンしてもらった『愛の夢』。可愛かったし、あの年齢の子供が表現出来る限界への挑戦……そんな憧れのような美しさだった。
僕は、かおりに一から教えた指導者として、かおりの音楽的な成長へも、お父さんに興味を持って欲しかったし、今日は某かの感想が聞きたかった。
支度する時間に、僕はかおりを静かに起こした。かおりは、ゆっくりと目を開けた。
僕はかおりのドレスのファスナーを上げて、後ろのリボンを結んだ。かおりは、いつか僕がプレゼントしたクリスタルの髪留めを持ってきていた。あの時と同じように、僕はサイドの髪を少しすくって捻って後ろに留めた。かおりはメイクもして、唇も綺麗に自分で仕上げた。僕とデートした時より色味の濃い口紅で、もう高校生には見えないくらい大人に見えて、綺麗だった。
僕は、開場してからステージ袖で目を閉じて精神を集中させているかおりの背中を見て、大丈夫だと確信できた。真っ直ぐに伸びた背中を見ればわかる。
僕はモニターから客席を見て、SS席にかおりのお父さんが来てくれているのを確認した。
かおりに、僕が5分くらい席を外しても大丈夫かどうか聞いたら黙って頷いたので、一階中央客席にいる、お父さんのところに行った。
「お父さん、来てくれてありがとうございます」
「慎一くん!ありがとう。ところでこれ何?この人数も何?今日は、かおりしか弾かないの?かおりが何曲も弾くの?かおりだけの発表会なの?」
「そうです。このホールは1997人収容の、新しくて人気の大ホールです。急遽実現したことなので、会場確保から告知、販売など困難が伴うかと思われましたが、主催のコンクールスタッフがかおりのために尽力してくれました。3公演とも、発売日から数日で完売しています。ほとんどの方が、3公演全て購入してくださっています。地方の方々は、都市部に演奏会に行くことが簡単に叶わないので、来年度、こちらから各地に演奏に出向く計画も進行しています。ご来場の皆様は、かおりの演奏を聴きたいといち早く情報を集め、かおりの演奏を聴くためだけに集まってくださった方々です。いかがですか?」
「……驚いて声も出ないよ」
「ごゆっくりお楽しみください。失礼します」
演奏を聴いて、上手いとか上手くないとかよりも、経営と顧客、集客に関わることからなら、かおりのピアノがどんなにすごいのか、理解してもらえただろう。僕は指導者としての満足感も得て、お父さんに挨拶をした。
かおりの元に戻る途中、
「槇さん!」
と声をかけられた。
マヤちゃんだった。高橋もいる。小石川先生、マヤちゃんの父親だろうか。四人で家族のようだった。
「小石川先生、お世話になっております。皆様、本日はありがとうございます。マヤちゃんありがとう、またね。高橋もありがとう」
僕は手短に挨拶をして、ステージ袖に戻った。
マヤちゃんと高橋は婚約した。マヤちゃんは、親が決めた婚約者がいたらしいが、ずっと不満だったのだそうだ。高橋のことは、名前は知っていたが、かおりと僕と一緒の時に会えて運命を感じたらしい。
そして、ヴァイオリンを持って行ってラッキーだったとか、きりりとした『ワルトシュタイン』に感動して完全に惚れたと後で熱っぽくかおりに話してくれたそうだ。
ヴァイオリン助教授の小石川先生も、はっきりものを言う我儘な娘が気に入らない当初の婚約者よりも、次男で婿に来てくれるという、真面目で優秀なピアニストの高橋を気に入り、円満解決だったそうだ。
かおりが一公演ずつ違う色のドレスでステージに現れた瞬間、客席から歓声が上がった。恥ずかしそうに中央に進み、にこっと笑顔でお辞儀をして、かおりは綺麗で可愛かった。168センチと背が高く、おとなしいので年齢より落ち着いて見えることもあるが、僕の前では泣いたり、まだあどけない表情もする17才の女の子だ。
そんなかおりも、ステージで演奏に集中したら一人のピアニストだった。豊かな音量と多彩な音色、安定した練習量に支えられた落ち着きのある音楽性に情熱的な表現力も加わり、今日まで毎日レッスンした僕でも、ステージ袖から目が離せないほど魅力的だった。
3公演の最後は『愛の夢』だった。1公演ずつ無理なく休憩を挟み、ステージでは疲れを見せず、どの曲も丁寧に心を込めて演奏するかおりに、僕は尊敬の念を抱かずにいられなかった。
合計150分とプログラムが多かったので、アンコールは無しと決めていた。だから、プログラム最後の『愛の夢』が本当に最後だった。
ステージのライトや客席上方からの照明も、予定通り強すぎない明るさにしていただいた。ホールだけを明るく、客席を暗くするのではなく、全体的に差をやわらげた、かおりの目に優しい明るさにしてもらった。
録音、録画もしてある。とてもいい記念になった。これで、かおりのCDやDVDをつくることもできる。今度はかおりのジャケット写真を撮ろう。プロフィール写真も必要になる。また、あのカメラマンにお願いしよう。
今日のリサイタルの、文字だけしかなかった簡素なプログラムに、あのカメラマンに急いで仕上げてもらったポストカードを、高橋に手伝ってもらって、朝早くから会場で一枚ずつ挟み込んだ。
ポストカードは、今は僕たちの新居である教員住宅の、外国人教授向けのヨーロピアンな内装の部屋でアンティークピアノを弾いているかおりを、僕がカメラにおさめたものだ。
僕がかおりを初めて抱いた日の翌朝、人肌のミルクのような音色が聴こえてきた。音を辿っていくと、かおりが朝の日の光の中で『亜麻色の髪の乙女』を弾いていた。
あまりにも綺麗で、広いリビングの遠くから、僕がこっそり撮った写真だった。
かおりが結婚祝いにお友達にプレゼントしてもらったという、部屋着というよりネグリジェというのだろうか……かおりが『おうちのドレス』と名付けた、体の線がそのまま浮かび上がるような柔らかい布を纏って弾いていた。その写真をカメラマンに頼んで、古い絵画のようにぼかして加工してもらったのだ。
レトロな部屋でピアノを弾く女の子。
自然におろしただけの長い髪。
少女のような笑顔。
いつまでたっても僕を先生と呼び、僕のことを名前で呼ぶのを恥ずかしがっていたかおり。
キスしかしていないのに、僕に似た男の子がほしいというかおり。
僕に大好きと言ってくっついてくるかおり。
初めての夜、
「慎一さん、愛してる」
と言ってにこっと笑い、僕に全てを委ねてくれた時のあの表情をして『亜麻色の髪の乙女』を弾いている写真だ。これは、僕だけの秘密。
僕は、かおりが産まれてからずっと見つめてきた。
僕は、その美しい音色に、教授が惚れ込んだかおりの才能を羨ましく思ったこともあった。
かおりは、
「先生が素敵だったから、ここまでついてきたんです。素敵だと仰る私の音は、先生に教えていただいたものです」
と真っ直ぐに答え、僕に自信を取り戻させてくれた。
それから、昨日僕の腕の中でこんなことも教えてくれた。
「あのね、『愛の夢』は小学生で弾いたコンクールの時も、教授にも、先生にも、本当は誰にも聴かれたくなかったの。弾いたら、私が先生のことを好きなのがわかっちゃうから。でも、もう、誰に聴かれてもいいの」
そう言って、にこっと笑った。
『愛の夢』をありがとう、かおり。もう、僕はその音色が誰に向けたものなのか疑うことはない。
かおりに愛されているかどうか、不安になることもない。
かおりを愛しているから。
リサイタルの最後の音が消えた。
そして、静寂。
あたたかな拍手が起こり、長く長く続いた。
かおりは、心を込めてお辞儀をして、真っ直ぐに僕のところに戻ってきた。
僕は何も言わずにかおりを抱きしめたまま、スタッフに終演の合図をした。
素晴らしいリサイタルだったよ。
おめでとう、かおり。
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