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23 スポットライト
しおりを挟む僕はすぐにステージに出て、かおりを支えた。
「かおり! かおり? どうした!」
「……う……ん、……」
顔が歪んで、苦しそうに見えた。
客席からかおりの顔が見えないように抱き直した。表情は少し和らいでいた。僕は思わず、かおりの胸に手を当てた。ちゃんと動いている。大きく息をしている。いきなりどうしたんだ。何があったんだ。
その時、僕の背中に客席の斜め上から、一際大きくて強い、刺すようなライトの光を感じた。あれだ、きっとそうだ。かおりは普段からよく眩しがっている。かおりはお辞儀をする時にあれを見てしまったんだ。
僕はかおりを抱いてステージ袖に連れて行った。
客席がざわめいていたのが聞こえた。
指揮者がこちらに来て、
「大丈夫か! 救急車が必要か?」
と聞いてくれた。
「ありがとうございます。多分、大丈夫だと思います。控え室に連れて行っていいですか?」
かおりは、肩も腕も背中も肌を露出させたドレスだった。僕はさっき受け取ったコートをかおりに被せて抱き直した。皆が道を空けてくれたり、ドアを開けてくれたり、控え室で横になれるようソファを整えてくれた。
「すみません、照明を暗くしてもらえますか」
僕はお願いした。
僅かになった灯りの中、苦しそうだったかおりの表情から、眠るような表情に変化したように見えた。よかった。スタッフも少しほっとしたようだ。
「どうぞ休んでいてください。何かありましたら外におりますので」
「ありがとうございます」
控え室でかおりと二人きりになった僕は、大きく上下する胸を見ながらかおりの頬を撫でた。
小さな声で、ゆっくり話しかけた。
「かおり、大丈夫? 心配だから、返事して。苦しくない? かおり……」
「……せん、……せい……」
「かおり、大丈夫? 気分は?」
「……うん、大丈夫。……あの……まぶしくて、たっていられなくて……」
「わかった。今は大丈夫?」
「……うん……」
少しだけ体を起こしてペットボトルの水を飲ませた。少し飲んだ。唇から水が喉を通っていくのを見た。よかった、大丈夫そうだ。
しばらくして、扉をノックする音がした。
「どうぞ」
僕はそう言ったがノックの主は入ってこなかった。ここは女性控え室だから男性だろうか。扉の向こうから声が聞こえた。
「すみません、槇先輩。高橋です」
教授の門下の後輩だった。
かおりをもう一度ソファに寝かせた。まだくったりとしている。
「かおり、まってて」
僕は外に出てドアを閉めた。
「槇先輩、すみません。藤原さんは大丈夫ですか?」
「あぁ、多分大丈夫。今は意識もあるし、水分取ったから。ありがとう」
「そうですか、実は、あの」
高橋が、急に小さい声で、僕に言った。
「槇先輩、教授が倒れたんです」
「えっ?」
「審査員席の奥様と一緒にいらっしゃったのですが、藤原さんの演奏が終わった時に、奥様が気づいた時にはもう……」
「な、何だって……開演前には普通に」
「えぇ、そうなんです。今、会場が大変なことになっています。演奏会は閉まりますし、教授のことは何かわかり次第僕からご連絡しますから、今日のところはすぐに楽屋口から藤原さんを送ってあげてください」
「あ、あぁ、すまない。ありがとう」
「いえ、失礼します」
僕は、側にいた女性スタッフにかおりの着替えと帰り支度をお願いした。走って駐車場に行き、楽屋口の近くに車を回した。
着替えたかおりは、僕のコートを掛けて目を擦り、小さく弱々しく見えた。ドレスの入ったスーツケースを後ろに入れ、かおりを抱くようにして助手席に乗せ、シートベルトを締めた。それから、クリスタルの髪留めをほどいて、かおりの右手首につけた。髪をおろすと、いつものかおりになった。頬に手を当てると、あたたかかった。
今は余計なことを考えず、かおりを送り届けなければ。横をちらっと見ると、かおりは目を閉じていた。眠ってはいないようだ。かおりの右手が、何か宙に迷うような動きをした。僕は、その手を優しく握って、自分の膝の上に乗せた。かおりの体温が伝わってくる。かおりもそう感じただろう。
それから、かおりの手の力が完全に抜けた。眠っただろうか。どうかそのまま、朝まで眠っていてくれ……。
かおりの家に着いた。僕のコートを肩から掛けたまま、かおりを部屋に運び、ベッドに寝かせた。車を駐車場に入れて、かおりのスーツケースを持って、もう一度かおりの部屋に行った。
僕はベッドの横でかおりの頬を撫でて、髪を掬って耳にかけた。かおりの手だけを毛布から出して握った。握ったまま、そこに顔を埋めた。素晴らしいシューマンを弾いた、かおりの手。
あれは、今日本当にあった出来事だったのだろうか。
これは……、現実なのだろうか。
教授、あなたは今どこにいるのですか。
かおりをほめてくれないのですか。
あんなに必死に頑張ったかおりを。
教授、あなたはどこから見ていたのですか。
目覚まし時計が鳴っている。こんなの僕の部屋にあったかと確認するために目をあけた。何だ? 5時? それに、かおりの部屋だった。眠ってしまったのか。僕の肩には毛布が掛かっていた。……お父さんか。それにしても早いな。かおりの学校までは徒歩10分だぞ。目を開けたかおりは、僕がいることにびっくりしていた。
「先生、え、あの……」
「かおり、毎朝こんなに早く起きているの? 今日は学校で何かあるの? 何時に出発するの?」
「……え? えぇっと、……勉強してるの。……学校の宿題と、予習。……あと、ロシア語の勉強も。放課後から夜までピアノだから、いつも朝シャワーしてる」
「毎日?」
「はい」
偉いな。そうだったのか。睡眠時間が足りないはずだ。それに予習か……。成績優秀なわけだ。
そうだ、あのことだけは伝えておかなきゃ。
「かおり、今日はピアノのレッスンはないから」
「はい」
掛けてもらった毛布を畳んだら、急に寒くなった。かおりの普段の生活の邪魔をしないように、僕は家に戻った。これからシャワーか……。
僕は、自分のベッドでもう一度眠ろうとした。こんな時なのに、かおりのシャワー姿を想像してしまう。僕の方がかおりに甘えたくなる。かおりの胸に、顔を埋めてみたい。僕は首を振った。
かおりの生活もタイトな日々だったろうが、僕もかおりの帰宅を待ち構えて教授のレッスンに連れて行き、上のフロアの新居で練習し、23時のレッスン終了時刻にかおりを迎えに行き、かおりを家まで送り届ける生活だった。疲れはもちろん感じていた。もう少し眠ろう。
目覚めてから、高橋に連絡をとった。やはり昨日のことは現実のことらしかった。おそらく教授は客席にいて、2楽章のインテルメッツォのあたりで静かに天国へ旅立たれたのだと。隣にいた教授の奥様が気づいたのは、演奏後にかおりがうずくまった直後で、教授の方を見たら、教授が座席に座ったまま……ということらしかった。
インテルメッツォを聴きながら……。
そして、神がかっていた終楽章……。
教授は、本当にかおりと一緒に演奏していたのかもしれない。
それから、2台ピアノのステージの日に、急にものすごく痩せていたことを思い出した。あれは、減量していたわけではなかったのか……。
奥様は、日本でいう通夜も告別式もしないと言っていたらしい。ロシア人の教授、フランス人の奥様。日本の生活は長いと聞いている。日本が好きだと言っていた。
3月のソロリサイタルまではもう少し時間がある。もともと安定しているプログラムだ。まだ大丈夫だ。少し休めるだろう。かおりが精神的に参ってしまわないといいけれど。
かおりの心を心配した。
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