灯台と怪物

真朱マロ

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おわり

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 月のない夜だった。
 ザァザァとうるさいぐらいに波が自己主張している。
 深夜、家を抜け出すようなヤンチャは、生まれて初めてのことだ。
 家族全員が寝静まった頃にそっと勝手口から出て、ちゃんと家の鍵も閉めてきた。
 猫のように足音を忍ばせ、息を殺して海岸へと急ぐ。

 誰もいない砂浜に立つと、トランクを片手にぶら下げた彼がいた。
 時間を決めていたわけではないけれど、さほど待たせたわけではないのは、雰囲気でわかった。彼もまた同じように少し後ろめたい顔をしているようだった。

 お互いに表情が見えるところまで近づいて、お互いにそっと唇で人差し指で押さえ「静かに」と行動で示すと、ようやく心が緩んだ。
 声もなく笑いあって、私たちは手をつなぐ。

 サクサクと踏みしめた砂はもろくて、歩くたびに崩れたけれど、つないだ手のぬくもりのおかげで不安は一切なかった。
 灯りひとつない砂浜を果てまで歩き、見えないのが少し怖かったけれど岩場をのぼり、海岸沿いからは陰になる隙間に私達は座り込んだ。

 暗くて視界は悪かったけれど、なぜか足を置くべきくぼみも見えたし、トランクのように片手がふさがっていても岩から落ちることもなく、何かに導かれるようにここまで来てしまった。
 どちらともなく顔を見合わせて、いけないイタズラが成功した子供みたいに笑いあう。

 背中からお茶のペットボトルや軽くつまむお菓子を出すと、彼は「良いね」と更に笑みを深くする。
 この長くて短い夏休みの中で、今だけは純粋に私は「私」で、彼は「彼」だったのかもしれない。

 そして彼はトランクの中から小さなオイルランプを。
 私は背負っていたリュックから曾祖母の日記を取り出した。
 ジリ、と小さな音を立てて炎が揺れると、なぜか海の香りもまた深くなった。

 私と彼は肩を並べて、オイルランプの揺らめく灯りを頼りに、曾祖母の日記のページをめくる。
 見るべきところはわかっている。
 隆之介さんの遺した手帳にある日付は、何度も何度も見返したので暗記してしまった。
 その日付を探す間に、ふと、思い出したことをつぶやいた。

「曾祖母は筆まめで日記を欠かさない人だったのに、亡くなる前に日記のほとんどを処分して、曾祖父との結婚当時と死に分かれる寸前の日常を綴った二冊だけは、自分の棺に入れるように言い遺しました」

 そして、遺された私たちは、本当にそうした。
 だから、愛が深いのだと思い込んでいたし、曾祖母は自分の伴侶との生活の始まりと終わりを抱いて、あの世への道行きを歩んだはずだ。

「曾祖父もそうですよ。こっちが恥ずかしくなるぐらい、自分の妻だからと言い訳しながら曾祖母の絵を描いていました。棺の中に入れる曾祖母の絵も、用意しておくぐらい周到な人でした」

 だから、遺されたトランクを開けたとき、思いがけない秘密に出会ったように動揺してしまい、中身を見たのが自分一人で良かったと思ったのだと彼は言った。
 その声は夜の海に似た暗がりを抱えていて、何か言葉をかけなければ……と思ったところで、見つけてしまった。

「ありました。二人の出会い」
「曾祖父の手帳と日付が一致しますね」

 その言葉で彼も暗記するほど遺された手帳を見ていたのだとわかり、私たちは息を殺してページをめくる。
 癖のない綺麗な曾祖母の文字はサラサラと流れる水のように美しく、そこに書いてある情景もありふれたものでしかないのに、なぜか、海底で渦を巻く見えない潮に似ていると思った。
 見えない想いを辿るのが、少し、怖い。

 二人の出会いも、逢瀬と呼べないほどの逢瀬も、空気のようだった。
 ただ、すれ違い、視線を交え、声をかけることもなく通り過ぎるだけ。
 絵を描くことになっても、浜辺と波打ち際に立つような距離感。
 それでも、挨拶と一言二言だけ言葉を交わすだけでも、ジリジリと身を焦がすような夏の日差しの強さと同じで、想いがにじみ出るようだった。

 現在とは違って、異性と近づく事すら不埒と呼ばれた時代の二人だ。
 お互いに家格が高く、過ちがないように気を配る者が、常に傍にいた。
 触れ合うこともなく、手を伸ばしても届かない位置で、二人はささやかに交流を重ねていたのはわかる。
 別れが決まっても、見送る事すら許されないはずだった。
 けれど喜惠と隆之介も別れの日の前日、今の私たちと同じように家を深夜に抜け出して、こっそりと岩場で逢引をしていた。

 ―――怪物に、手引きされたの。

 記された言葉を戯言だと嗤うのは簡単ではあったけれど、今日の私と彼は笑えなかった。
 まさにここにたどり着くまでの私たちも、同じ感覚に囚われていたからだ。

 ―――胸を病んでいるからと、口づけひとつ下さらない貴方を慕う私も、愚かで醜悪な怪物なのでしょう。

 人目を忍び、隠れて指先をただ触れ合わせるだけで幸せだった二人は、永遠の別れを前にこの岩場で何を思ったのか。
 私にはわかりようもない事だったけれど、ドウドウと岩場に叩きつける波の音が、怪物の叫びのようにも聞こえた。

 ハラリ、と一枚の絵がページの間から落ちて、風に流れて彼の膝の上へと落ちていく。
 小さいけれど、それは灯台を抱く少女の絵だった。

 そして絵の裏には、隆之介さんの文字で。
 ―――灯台の中で怪物は眠っている。

 その一文に並ぶように、曾祖母の綺麗な文字で。
 ―――貴方は私の灯台でした。

 別れた日から先には、隆之介さんの名前が出てくることはなかった。
 確かに居た事すらも嘘のように、彼に関する一切の記載がなされなくなった。

 それでも。
 天気や情景を淡々と書き残しているだけなのに、牙をむいて唸りを上げる獣が隠れているようで、美しければ美しいほど書き手の情感も透けて見えるのが怖い。

 ジリ、と音を立てて、オイルランプの灯りが消えた。
 たぶんオイルが切れたのだろうけれど、日記をちょうど読み終わったところだったので、不意に満ちた暗闇が怪物の謀のような気もして、硬く身をすくませる。
 月もなく、海風も耳元で渦を巻き、岩場のくぼみにいても潮の香りは湿りを帯びて重い。

 暗闇に押しつぶされそうな不安がわきあがり、閉じた日記が手から滑り落ちた。
 ブルリと震えると、横から伸びた手が確かなぬくもりとなり、強く引き寄せられた。
 肩を抱かれたのだとわかり、その体温に安堵する。

 頭をなでられ、私も彼の手に触れて、どちらからともなく顔を寄せ合った。
 辿る指先が緩やかに頬から唇へと滑り落ち、鼻先がくすぐるように触れ合う。
 感じた吐息で、火傷するかと思った。

「隆之介さん」

 ふと漏らしたその一言で、彼の動きが止まった。
 ただからかうように互いの鼻先を触れ合わせ、そっと離れたかと思うと、私の肩先にそのおでこをくっつける。

「隆之介は、胸を患っていて、口づけのひとつも贈れない愚か者でした」

 私はそれで、私自身の失敗を悟った。
 そんなつもりはなかったし、それでもその名前しか知らないから挽回の一手もなくて、オロオロとおぼつかなくなる私に、彼は「失敗なんかではないですよ」と笑った。
 間近で見た彼の表情は穏やかで、惑う私を灯台のように導いてくれる。

「僕は、貴女に触れるなら、僕自身でありたい」

 宣言するように告げて、ツン、とおでこを人差し指でつつかれた。
 言葉の意味を噛み砕いて理解する前に、悪びれなく「だから、今度にします」と唇に触れた彼の指が、未練がましく何度も形を確かめてくるので、私は実際に触れあわせるよりも恥ずかしくなった。

「今日のところは、隆之介でいいです」

 肩を抱く彼が強がっているような気がしたけれど、きっとそんなことはないのだろう。

 大切にされるのは嬉しいけれど、触れ合えないのは寂しくて……けれど、他の誰とも触れ合わせたことのない他人の熱を受け入れるのは、とても怖い。

 夜明けは、遠い。
 星があるので、満ちている夜の暗がりの中でも、彼がわかる。

 私の中にいる怪物が、目を覚ましそうだ。
 曾祖母も、こんな気持ちだったのだろうか。

 ―――口づけひとつ下さらない貴方を慕う私も、愚かで醜悪な怪物なのでしょう。
 ―――貴方は私の灯台です。

 なんでもない顔をしていたけれど、彼に告げたくてしかたない。
 告げるべきその瞬間を狙う私は、爪と牙を研ぎ澄ます獣と同じだ。
 肩を抱いてくれる彼に身を預けていたけれど、今にも腹の底から叫びをあげ暴れ出しそうな感情は獣よりも狂暴で、制御できない怪物と変わりなかった。

 今は眠れと、怪物にささやく。
 白い灯台の中で、私を導くために、今は眠れ。

 荒れ狂い、胸の奥まで暴き立てて叫ぶことを、今は許さない。
 夜明けを待つ暗闇の中で、胸の奥に息づいた怪物をそっとなだめた。

 曾祖母たちとは違い、私は再び彼と会うことができる。
 そのはずだから。

 私たちの愚かで不埒な夏は終わろうとしていた。



【 おわり 】
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