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そのいち
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「今でも灯台の中で怪物が眠っている、なんて言えば……おかしいかしら?」
自嘲に似たひどく乾いた声が、サラサラと砂のように頭上から零れ落ちてきた。
つい立ち止まってしまった様子の曾祖母を見上げると、目の前に広がる海よりも遥か遠く、まるでこの世に存在しない何かを求めるように、きらめく水面の果てを見ていた。
その時、私はたぶん4~5才で、曾祖母は80才を過ぎようかという頃だったと思う。品よく和装を着こなす曾祖母は、優雅な所作も手伝って実年齢よりもずいぶん若く見えたのを覚えている。
クルリ、クルリと回り続ける日傘のレースが、白い花のようだった。
穏やかな海風と迫る夕暮れ揺らめきが満ちた綺麗な世界に、迷子に似たおぼつかない表情をしている曾祖母がいて、私は何も言えなかった。
幼かった私はかすれた曾祖母のつぶやきを掬い取るように、キュッとつないだ手を握ったけれど、たったそれっぽちの事しかできなかった。
「結局、灯台の怪物は眠ったままだったわねぇ」
ふふふ、と乾いた笑みを浮かべて、遠くを見つめていた。
穏やかな海岸にも、ゆるりと弧を描く湾の中にも、左手奥にあるゴツゴツした岩場の先にも、この海のどこにも灯台なんてないのに。
曾祖母の目にだけは、姿かたちのない灯台が見えているのかもしれない。
遠く、遠く。
誰を想い、何を見ているのか。
わからなかったけれど、私や父や母も知らない、曾祖母だけのなにかなのだと、その面差しでなんとなく理解してしまった。
たぶんそれは問いかけてはいけない事なのだと、幼いなりに感じ取る。
もしも、尋ねてしまうと取り返しがつかなくなるような、波打ち際の砂の城のようなあやうい空気を、その時の曾祖母はまとっていた。
それでも、今を逃せばたぶん二度とは訪れない刹那にいるようで、今にも喉の奥からあふれだしそうな声を、吹き寄せる海風と一緒に私はゴクリと飲み込んだ。
「……隆之介さん……」
波の音に混ぜるようにポツンと落とされた名前を、私は聞こえなかった振りをした。
それは、曽祖父の名前でも、祖父の名前でも、父の名前でもなかったからだ。
どこの誰ともつかない、見ず知らずの関わることすらない誰かの名前。
そしてたぶん、大切にしている曾祖母だけの名前。
私が聞くべきではなかった名前のはずなのに、たった一度もらした曾祖母の秘密の名前は、白い半紙にポツリと落ちた墨に似て濃い染みを心に残してしまう。
その後は私たち二人そろって、何事もなかったようにゆるゆると砂浜を散策した。
穏やかな夕風に吹かれながら日が暮れる前に家に帰り、いつもと同じ日常に戻っていく。
曾祖母が見ず知らずの誰かの名前を口にしたのも、その日だけの事だった。
小学校を卒業するころに曾祖母は亡くなってしまったし、学校に通うようになった私は家族よりも友達と遊ぶ方が楽しくなっていたので、曾祖母との思い出は成長するとともに減っていった。
いつもと同じ、穏やかな日常を繰り返せば繰り返すほど、あの日の出来事は一滴の墨のように、心のどこかにこびりついて離れない。
忘れたほうが良いことだと感じているのに、どうしても心から消えてくれなかった。
クルリ、クルリと回る、白いレースのついた日傘の色と、手をつないでいる曾祖母が得体のしれない見ず知らずに代わったような不安感。
灯台に眠る怪物と見知らぬ誰かである「隆之介さん」という、当たり前だった日常を壊しそうな不穏。
思い出すたびに、めまいにも似たおぼつかない感覚に陥って、思考がグルグルと回る不埒さも、手放せたらどんなに楽になるだろう。
あのなんとも言えない感覚は緩やかに侵す遅効性の毒にも似ていたのに、いつも凛として愛情深く見えた曾祖母とは違う顔をしていた女の人のことを、私は祖母にも母にも言えなかった。
思い出なんて、シーグラスのように記憶の底で美しく磨かれることもあれば、積る他の記憶の砂にうずもれて掘り出すことも叶わないこともある。
触れて、手をつないで、確かに目をあわせて微笑みあった時間でさえも、時間がたてば日常に紛れてしまい、きっかけがない限り記憶の底に沈んでしまうのだ。
そうこうしているうちにいつしか、きっかけがあっても思い出せなくなってしまうのだろう。
私はたぶん、それほど優しく愛情深い人間ではないのだ。
惹かれて、引き寄せられて、怪物も灯台も私の中で命を持って生き始めていた。
けれど、どこにあるかもわからぬ灯台の中で、眠る怪物を起こせる曾祖母はもういない。
ぬるい海風にホロホロと崩れるように、灯台と曾祖母との思い出は、いつしか記憶の中に紛れ込んでいく。
怪物だって、眠ったまま時の渦に沈み込んで、消えてしまう。
悪い夢なのか、美しい幻なのか、判別をつけがたい夕暮れ時の出来事も、いつしかなかったことになるのだろう。
などと思っていたのだが、曾祖母とのアレコレを思い出したのは、高2の夏。
曾祖母とも歩いた海岸で、見知らぬ人から声をかけられた時だ。
「喜惠さん?」
それは、曾祖母の名前だ。
懐かしい。とても懐かしい名前だと振り返ると、若い男の人がいた。
同い年か、一つ二つぐらい年上かもしれない。
右手に茶色の古ぼけたトランクを下げて、白いシャツと黒のスラックスが爽やかだけど時代がかっている気がして、本当に曾祖母に会うため時間を越えて現れた書生さんのようにも見えた。
私は平成の女子高生で、彼もたぶん平成の学生だろうに、まったくもっておかしな感慨だった。
けれど夏が薫る海風の中に立つ、スラリとしたその人には、白い雲と空と海がとても似合う。
「隆之介さん?」
唐突に記憶の底から浮き上がった名前を、つい呼んでしまった。
確証があったわけではないけれど、なんとなくそうだと思ったのだ。
そして、私の勘は当たっていたようだった。
隆之介さん、という名前を聞いた彼の口元は弧を描いて、綺麗な笑みを形作っていた。
「違いますけど、そうです」
それだけで、わかった。
間違いなく、私と同じ。
「私も、違いますけど、そうです」
彼はとても良い笑顔をしていたから、私の口元もつられて動く。
きっと今の私も、同じ表情をしているはずだ。
喜惠さんではないけれど、喜惠さんの曾孫である私。
隆之介さんではないけれど、隆之介さんの曾孫である彼。
私たちは眼差しをあわせたまま、静かに微笑み合う。
まぁ、だからどうしたって話でもあるのだけれど。
当人同士ではない私たちが出会ったからといって、特別な何かが生まれるはずもない。
当たり障りのない挨拶をして立ち去るつもりだった私に、彼は綺麗な笑みを浮かべたままで問いかけてきた。
「貴女は、灯台を知っていますか?」
「いいえ」と答えたけれど、抗いがたい誘惑が背筋を駆けのぼった。
挨拶をしてほんの少しだけ話をしたとしても、曾祖母の秘密を暴き立てる行為は、おそらく不作法で美しくない。
それでも、歳を取っても美しい面差しだった曾祖母の名前で呼ばれてしまうと、これはもう「怪物の眠る灯台を探しても良い」という天啓ではないかとも思う。
彼のいう灯台は、怪物の眠っている灯台の事だ。
あの日の祖母が見ていた何かを、私も知りたい。
だから「いいえ」と答えると同時に、彼に告げていた。
「私も、灯台を知りたいと思います」
自嘲に似たひどく乾いた声が、サラサラと砂のように頭上から零れ落ちてきた。
つい立ち止まってしまった様子の曾祖母を見上げると、目の前に広がる海よりも遥か遠く、まるでこの世に存在しない何かを求めるように、きらめく水面の果てを見ていた。
その時、私はたぶん4~5才で、曾祖母は80才を過ぎようかという頃だったと思う。品よく和装を着こなす曾祖母は、優雅な所作も手伝って実年齢よりもずいぶん若く見えたのを覚えている。
クルリ、クルリと回り続ける日傘のレースが、白い花のようだった。
穏やかな海風と迫る夕暮れ揺らめきが満ちた綺麗な世界に、迷子に似たおぼつかない表情をしている曾祖母がいて、私は何も言えなかった。
幼かった私はかすれた曾祖母のつぶやきを掬い取るように、キュッとつないだ手を握ったけれど、たったそれっぽちの事しかできなかった。
「結局、灯台の怪物は眠ったままだったわねぇ」
ふふふ、と乾いた笑みを浮かべて、遠くを見つめていた。
穏やかな海岸にも、ゆるりと弧を描く湾の中にも、左手奥にあるゴツゴツした岩場の先にも、この海のどこにも灯台なんてないのに。
曾祖母の目にだけは、姿かたちのない灯台が見えているのかもしれない。
遠く、遠く。
誰を想い、何を見ているのか。
わからなかったけれど、私や父や母も知らない、曾祖母だけのなにかなのだと、その面差しでなんとなく理解してしまった。
たぶんそれは問いかけてはいけない事なのだと、幼いなりに感じ取る。
もしも、尋ねてしまうと取り返しがつかなくなるような、波打ち際の砂の城のようなあやうい空気を、その時の曾祖母はまとっていた。
それでも、今を逃せばたぶん二度とは訪れない刹那にいるようで、今にも喉の奥からあふれだしそうな声を、吹き寄せる海風と一緒に私はゴクリと飲み込んだ。
「……隆之介さん……」
波の音に混ぜるようにポツンと落とされた名前を、私は聞こえなかった振りをした。
それは、曽祖父の名前でも、祖父の名前でも、父の名前でもなかったからだ。
どこの誰ともつかない、見ず知らずの関わることすらない誰かの名前。
そしてたぶん、大切にしている曾祖母だけの名前。
私が聞くべきではなかった名前のはずなのに、たった一度もらした曾祖母の秘密の名前は、白い半紙にポツリと落ちた墨に似て濃い染みを心に残してしまう。
その後は私たち二人そろって、何事もなかったようにゆるゆると砂浜を散策した。
穏やかな夕風に吹かれながら日が暮れる前に家に帰り、いつもと同じ日常に戻っていく。
曾祖母が見ず知らずの誰かの名前を口にしたのも、その日だけの事だった。
小学校を卒業するころに曾祖母は亡くなってしまったし、学校に通うようになった私は家族よりも友達と遊ぶ方が楽しくなっていたので、曾祖母との思い出は成長するとともに減っていった。
いつもと同じ、穏やかな日常を繰り返せば繰り返すほど、あの日の出来事は一滴の墨のように、心のどこかにこびりついて離れない。
忘れたほうが良いことだと感じているのに、どうしても心から消えてくれなかった。
クルリ、クルリと回る、白いレースのついた日傘の色と、手をつないでいる曾祖母が得体のしれない見ず知らずに代わったような不安感。
灯台に眠る怪物と見知らぬ誰かである「隆之介さん」という、当たり前だった日常を壊しそうな不穏。
思い出すたびに、めまいにも似たおぼつかない感覚に陥って、思考がグルグルと回る不埒さも、手放せたらどんなに楽になるだろう。
あのなんとも言えない感覚は緩やかに侵す遅効性の毒にも似ていたのに、いつも凛として愛情深く見えた曾祖母とは違う顔をしていた女の人のことを、私は祖母にも母にも言えなかった。
思い出なんて、シーグラスのように記憶の底で美しく磨かれることもあれば、積る他の記憶の砂にうずもれて掘り出すことも叶わないこともある。
触れて、手をつないで、確かに目をあわせて微笑みあった時間でさえも、時間がたてば日常に紛れてしまい、きっかけがない限り記憶の底に沈んでしまうのだ。
そうこうしているうちにいつしか、きっかけがあっても思い出せなくなってしまうのだろう。
私はたぶん、それほど優しく愛情深い人間ではないのだ。
惹かれて、引き寄せられて、怪物も灯台も私の中で命を持って生き始めていた。
けれど、どこにあるかもわからぬ灯台の中で、眠る怪物を起こせる曾祖母はもういない。
ぬるい海風にホロホロと崩れるように、灯台と曾祖母との思い出は、いつしか記憶の中に紛れ込んでいく。
怪物だって、眠ったまま時の渦に沈み込んで、消えてしまう。
悪い夢なのか、美しい幻なのか、判別をつけがたい夕暮れ時の出来事も、いつしかなかったことになるのだろう。
などと思っていたのだが、曾祖母とのアレコレを思い出したのは、高2の夏。
曾祖母とも歩いた海岸で、見知らぬ人から声をかけられた時だ。
「喜惠さん?」
それは、曾祖母の名前だ。
懐かしい。とても懐かしい名前だと振り返ると、若い男の人がいた。
同い年か、一つ二つぐらい年上かもしれない。
右手に茶色の古ぼけたトランクを下げて、白いシャツと黒のスラックスが爽やかだけど時代がかっている気がして、本当に曾祖母に会うため時間を越えて現れた書生さんのようにも見えた。
私は平成の女子高生で、彼もたぶん平成の学生だろうに、まったくもっておかしな感慨だった。
けれど夏が薫る海風の中に立つ、スラリとしたその人には、白い雲と空と海がとても似合う。
「隆之介さん?」
唐突に記憶の底から浮き上がった名前を、つい呼んでしまった。
確証があったわけではないけれど、なんとなくそうだと思ったのだ。
そして、私の勘は当たっていたようだった。
隆之介さん、という名前を聞いた彼の口元は弧を描いて、綺麗な笑みを形作っていた。
「違いますけど、そうです」
それだけで、わかった。
間違いなく、私と同じ。
「私も、違いますけど、そうです」
彼はとても良い笑顔をしていたから、私の口元もつられて動く。
きっと今の私も、同じ表情をしているはずだ。
喜惠さんではないけれど、喜惠さんの曾孫である私。
隆之介さんではないけれど、隆之介さんの曾孫である彼。
私たちは眼差しをあわせたまま、静かに微笑み合う。
まぁ、だからどうしたって話でもあるのだけれど。
当人同士ではない私たちが出会ったからといって、特別な何かが生まれるはずもない。
当たり障りのない挨拶をして立ち去るつもりだった私に、彼は綺麗な笑みを浮かべたままで問いかけてきた。
「貴女は、灯台を知っていますか?」
「いいえ」と答えたけれど、抗いがたい誘惑が背筋を駆けのぼった。
挨拶をしてほんの少しだけ話をしたとしても、曾祖母の秘密を暴き立てる行為は、おそらく不作法で美しくない。
それでも、歳を取っても美しい面差しだった曾祖母の名前で呼ばれてしまうと、これはもう「怪物の眠る灯台を探しても良い」という天啓ではないかとも思う。
彼のいう灯台は、怪物の眠っている灯台の事だ。
あの日の祖母が見ていた何かを、私も知りたい。
だから「いいえ」と答えると同時に、彼に告げていた。
「私も、灯台を知りたいと思います」
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