「きゅんと、恋」短編集 ~ 現代・アオハルと恋愛 ~

真朱マロ

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再会(大学生・社会人)

夜間水泳

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「よう、久しぶり! 例の場所に、七月七日に集合だ。おまえ、絶対にこいよ」

 はぁ? と首をかしげたのは、別に私が呆けているせいではない。
 自宅にかかってきた電話に出るなり、見知らぬ男の声が一方的に告げるのだから、普通の反応だと思う。

「どちらにおかけでしょうか? セールスならお断りです」

 プチッと切ってやると、すぐさま電話がけたたましく鳴り始める。
 あら、即リターン。
 一つ深呼吸をして、受話器を取る。

「どちらさまですか?」
 自分が想定するよりもはるかに冷たい声になってしまったけど、先ほどと同じ声は明るく笑い飛ばした。
「佐久間! 俺、佐久間だっつーの! まさか、忘れたなんて愉快なこと、言わないよな?」

 佐久間、という名前に、私はそのままフリーズする。
 忘れてたわ~って愉快に笑い飛ばしたいわよ、と思った私は悪くないと思う。
 こいつのせいで貴重な中学三年生の夏休みが、罰掃除と夏期講習で埋められたのだ。
 その原因を楽しんだのは確かだけど、はっきり言って他人には胸を張って言えないような体験である。
 学級委員なんてしていたせいで、お説教の集中砲火を私が受けたのは痛い記憶だ。

 だから。
 諸悪の根源みたいに思い出深い佐久間のことを忘れるわけがないけどさ。
 中学卒業以来、年賀状すらやり取りしてないはずだけど?
 こうやって電話がかかってくること自体、違和感がある相手だ。

 ただ、よかったね、と心の中でポソッとつぶやく。
 この受話器を取ったのが私で。
 かあさんだったら「よう!」の時点で不審者扱いして、マシンガンのようにけたたましく毒舌攻撃し、自治会や警察に通報している。
 なんてことを考えている間も、佐久間はぺらぺらと自分の要件を話していた。

「なぁ、おまえ、予備校生なんて余裕のあることしてんだから、一日ぐらい付き合え。例の場所に二十三時集合。更衣室はないから、それだけは忘れんなよ」

 じゃな、とポンポンと歯切れよく言うだけ言って、佐久間は電話を切ってしまった。
 ツーツーと無情な通話不能の音を響かせるだけになった受話器を、私は思わず睨み付ける。
 相変わらず他人の都合を考えない奴だ。

 久しぶりに電話をしてきたと思ったら、連絡先も教えずに切ってしまうなんて。
 しかも私のこと、おまえ呼ばわりだし。

 好きで予備校生なんてやってないし、一度大学に落ちたぐらいだから、次もどうだろうと不安を抱えて夏期講習に通い、参考書とにらめっこしている日々なのでけして余裕があるわけではない。

 それも、例の場所に夜間集合って。
 犯罪でしょ、今はギリギリ未成年だけど。
 バカバカバカと百回唱えても足りないと思ったとたん、懐かしさとあきれで胸がいっぱいになった。

 それほど仲が良かったわけではない。
 とは言え、からむ時間は多かった気もする。
 バカばっかりやってハメを外しまくる佐久間を、私が学級委員の使命感にかられて追いまわして、やめなさい・よしなさいと叱り飛ばしていた気がする。
 ああ、こうやって思い返せば、受験勉強以外は佐久間まみれの毎日だったかも。
 ドツキ漫才みたいな思い出にしばし浸ってしまい、ため息と同時に薬と笑いを吐き出した。

 卒業してから四年かな?
 順当にいってれば、大学一年生になってるはずだけど……本当に落ち着きがない。
 佐久間の奴、ほんとに変わってないんだから。


 あれは、中学三年の夏。
 梅雨も終わって初夏の蒸し暑さに、クラス全体がぐったりしていた。
 エアコンなんて教室にはないし、窓を開けても風はそれほど入ってこない。
 勉強どころじゃないよね~なんて思うような日が続いていたある日の朝。
 教室に入ってくるなり朝の挨拶もそこそこに、佐久間はカラフルな短冊の詰まった箱をドーンと教卓の上に置いた。

「ただいま願い事を募集中~商店街の活性化だってさ。おれたち受験生だし、かっぱらってきた。ちょうどいいだろ?」
 はぁ? と思う間もなく、短冊とこよりにするらしい細い紙が配られていく。
「こいつをつるすのは商店街の中心広場だからな~いいか、間違えんなよ」

 なにそれ、とちょっと批判的な声があがったけれど、自分で願いは届けないと意味がないんだぜ、なんてもっともらし言い分に、笑い声が広がっていく。
 こういう唐突な行動も、佐久間らしいって許されるのは、ある種の才能かも。

 こよりの作り方と短冊の見本も書かれた紙が、短冊とともに配布物のように前から回ってくる。
 思わずその紙に見入ってしまったのは、夜間水泳の開催という妙な記載があったからだ。
 やたら汚い字で「先生には内緒だ」の但し書きと、どこからどう見ても夏休みまっただ中の日時が書いてある。

 佐久間の奴……真夜中の中学校で、プールに忍び込んで水泳大会を開く気なんだ。
 先生方の許可もなく、バカじゃないの?
 まぁ、申請しても許可は下りないだろうけど。

 受験前の貴重な夏の夜。
 内申書に響くような行為に、誰が乗るんだろう?

 それでも、妙に心に引っかかった。

 目の前にあるのは、色鮮やかな短冊。
 ともすれば暗くなりがちな受験前の一年なのに、毎日が佐久間の想定外の行動でいっぱいになっていく。
 図書館や塾の誘いではなく、夜間水泳ってどういうことなの?

 クルクルと、キリキリと。
 無意識のうちに配られた細い紙を、私は指先で堅く寄り合わせていた。
 今しかできないことと、今やっておかなくてはならないことの擦り合わせに似ていて、知らず念入りにこよっていたのかもしれない。
 出来上がるころには、夜のプールの誘惑にとりつかれて、結局参加してしまうのだけど。

 あの時の固く寄り合わせたこよりのしっかりした感じは、今でも指先に残っている。
 中学三年って微妙な時期だったけど、この一年は十年・二十年先でも忘れられない一年になるだろうな、と他人事みたいに思っていたのは確かだ。

 放課後までに願い事を書いて、商店街に短冊を結びに行った。
 クラスのほとんどの子が、その日のうちに行動していた。
 ひとりで行く子もいれば、連れ立っていく子もいた。

 私は仲のいい子と一緒に校門を出て、途中で後ろから追いついて来た佐久間たちと一緒になった。
 学校の外で佐久間のお守りはしたくないから、ゲッと思ったのは内緒だ。
 ゾロゾロと集団行動で移動するのはだせーと言いながらも、彼らは私たちに歩調を合わせて歩いた。
 特別な話なんて一つもしなかったけど、歩くだけで特別なことをしている気分だった。

 会場にたどり着くと、たまたま七夕セールの準備をしていた実行員会の人たちに、駄菓子をもらった。
 七夕といったら和菓子でしょ、とさらにねだる佐久間が、知り合いらしいおじさんにこづかれているのを見て、私たちは思い切り笑った。
 口に放り込むとホロリと崩れる白いラムネが、小さいくせに自己主張して、やたらとさわやかだった。
 佐久間も私たちもそのまま缶ジュースを買って、広場の椅子に座ってとりとめのないことを話しながら笑っていた。
 ただそれだけなのに。

 あの日。
 懐かしいあの時間は、思い出すと恐ろしい速度で記憶からわきあがり、まるで昨日のことみたいに迫ってくる。
 特別なことは何もない一瞬一瞬が、すべてが特別な威力をもってきらめいていた。

 何を話したか、何を思っていたかまでは、思い出せないけれど。
 ただそこにいるだけで、楽しくて、キラキラしていた。

 私はあのとき、何を短冊に願っただろう?


 そして、現在に戻る。
 約束した七月七日は今日だ。
 時間なんてあっという間に過ぎる。
 指定された二十三時まで、あと十分!

 そういえば、今夜は新月だっけ?

 月がないから真っ暗だ。
 こんな時間に出歩くだけで、いつもの私じゃない。
 何かあったら佐久間を恨んでやる。

 なんて思いながらも。
 誰にも会いませんようにと願いながら、自転車を全力でこぐ。
 水着の上にパーカーとショートパンツを着こんで、深夜に疾走するとは思わなかった。
 バーカバーカと百回言っても足りないのは、佐久間じゃなくて私かもしれない。

 知らず、笑いだしそうになっていた。
 変態に出会ったとしても、降りきれるぐらいの猛スピードで夜を自転車で疾走するなんて。
 そのありえなさが中学時代のあの頃にタイムスリップしたみたいで、楽しいとキラキラとで埋まっていく感じ。
 真夜中のプールに忍び込んで水泳大会をしても、見つかるわけがないと信じていた、あの無謀な冒険心に似た気持ちがムクムク湧いてくる。

 もちろん、そんな奇跡が起こるわけもなく。
 しっかり宿直の先生に見つかって、こってり絞られたのは痛い記憶だ。

 夏休みを棒に振ってしまうありえない体験になったのに、俺たちは休みでも離ればなれにならない無敵のクラスだなんて、調子のいいことを言う佐久間を恨む奴はいなかった。
 やっちゃった、とか、ばれちゃった、とかそのていどの認識で、運命共同体になったおかげかクラス全体が妙に仲良くなった気がする。

 真夜中のプール。
 懐かしいけど、ドキドキする。
 佐久間の奴、四年前から全く成長してないなんて。

 この角を曲がって、坂道を登れば、中学校だ。
 ダメよ。ここで爆笑したら、私が変態そのもの。
 さぁ、あともう少し!

 坂道を登りきり、固く閉ざされた校門が見えた。
 そのままフェンス沿いに自転車を走らせる。
 きっと、プール横にみんな集まっているはず。

 私の予想は、見事に当たった。
 懐中電灯がこっちだというようにチカチカと点滅するので、そちらに向かう。
 声をひそめていたけれど、結構な数の人影が闇の中にいた。
 クラスの半分とまではいかなくても、四割ぐらいは集まっているみたい。

 懐かしい顔ぶれ……のはずだけど、明かりがないので顔が見えない。
 それに大人サイズに育っているから、誰が誰だか体格では判別できないし。

「遅いぞ、今すぐ怖がれ」
 懐中電灯を顔の下から照らして怒った顔を作る、ベタな佐久間の子供じみた行動にあきれて、バカじゃないのと思わずつぶやいた。
 体格は大人になっているのに言動に成長がないので、おバカ丸出しの変な顔としか思えなかった。

「勝手なことばっかり言わないで。待ち合わせまであと二分あるもの」
 ほら、とスマホを取り出して時間を見せつけると、ブーッと佐久間は拗ねた。
「だって、おまえが最後なんだもん」

 あのね……だもんって。
 私よりもはるかに背も高くて、明らかにいかつい大人顔に成長した奴が、くねくねと身をよじっても気持ち悪いだけだから。
 理性を総動員して、そんなとがったつぶやきを私は封印する。

 久しぶり、とひとまずそろった面々とあいさつを交わす。
 ちょくちょく会う子もいたけれど、数年ぶりに再会する子も結構いた。

「もしかして地元に残った子、全員集まった?」

 そう聞いたら、うんそう、となんでもないことのように返事が返ってきた。
 それって、もしかしなくてもすごいことだよね。
 なんだか感動してしまった。
 ただ、小さな懐中電灯を回しながら自己紹介をする形なので、怪談とか肝試しに似て妙に落ち着かない。

「聞くだけムダかもしれないけど、ちゃんと、許可取った?」
 その答えによっては、これからの行動が変わってくる。
 なんて思っていたら。
 ブフッといくつもの吹きだす音と、やっぱり、という声がいくつも上がる。

「森ちゃん。今でも委員長やってるね~言うと思った」
 クスクスとさざめくようなたくさんの笑い声が非常にひそめられているから、私は肩をすくめるしかなかった。
「聞くだけムダだと思ってたけど、やっぱり許可、とってないんだ」
 バカじゃないの、と思わず本音が出ていた。

「許可なんてムリに決まってるだろ。まだ、夏休みにも入ってないんだぜ」
 言うだけムダムダと、妙に自信たっぷりで佐久間が胸を張るから、バカじゃないの、と連続で漏らしてしまう。

「いやだぜ、帰るなんて」
 ここまで来て引き下がれるか、なんて佐久間が言うので、わかってると私は答えた。
「いい? 飛び込み禁止。プールサイドには絶対座らないこと。とにかく水に同化。ゲームのミッションと同じだけど、リセットボタンはないからね。静かに決行するわよ。久しぶりに会ったからって羽目を外すと、私たち、見つかった時点で犯罪者だから」

 泳ぐのも音をたてず、歓声もあげず。
 密やかに水に同化するのよと、我ながらハードルの高い要求を述べてみる。

「いいじゃん、忍び込んだ時点で犯罪なんだから」

 けろっとしてそんなことを言ったのは佐久間だ。
 こいつ、やっぱりバカだ。

「よしてよ、騒ぐ気なら、私は帰る。犯罪者には一人でなって」
 ね? と周りに同意を求めると、集まっていた人たちがウンウンとうなずいた。

「捕まりたくないよな、さすがに」
「ちょっとスリルがあって、楽しければそれでいい」

 さすがは中学時代に夜間水泳をした仲間だ。
 誰一人帰ろうと言いださないし、私のむちゃな要求にも異議を唱えない。

 非難がましい声をあげているのは佐久間一人。
 ビーチボールを持ってきたのにと名残惜しそうにバックをなでているので、わざとらしく無視しておいた。 
 切り替えの早い奴だから、構うだけ無駄。

 行くわよと言ったとたん、よし! と先に立って歩き出すのは、やっぱり佐久間だった。
 変わらないね、と言うべきか、ポジティブだね、と言うべきかもわからなかったけれど、久しぶりに会った級友たちと苦笑したのは言うまでもない。

 私たちは夜のプールへと、侵入を開始した。 
 それはあっけないぐらい、簡単な作業だった。
 大きく育った男子の手を借りてフェンスを乗り越えると、十分もかからずプールサイドに難なく立っていた。

 中学時代はフェンスを乗り越えるだけで大仕事だった気がしたけど、やっぱりみんな大人になったんだ。
 背も伸びて、力もある。
 佐久間を先頭に男子が率先して女子の手を取って、片手で軽々と引き上げられるなんて思ってもみなかった。
 まぁ、不法侵入が楽にできるようになったって成長を、本当の意味での成長って呼んでいいかどうかはわからないけどね。

 パーカーと短パンを脱ぐ。
 速やかにプールに入って、外から見えないように水につからなくては。
 なんて思っていたら、懐中電灯がスポットライトみたいに私を照らした。

「おお、ビキニ!」

 ラッキー! いや、夜だからよく見えねぇ~なんて調子に乗っている佐久間に、私は駆け寄って懐中電灯をその手からはたき落とした。
 カツンと固い音があたりに響いて、懐中電灯の光がクルクルと回って床を転がると、そのまま水中に没してあたりは暗闇に支配される。
 俺の懐中電灯が……なんて悲壮な声を佐久間は上げたけど、知ったことではない。

「バカじゃないの。明かりなんてあったら、見つかっちゃうじゃない」

 声をひそめてその耳を引っ張ると、ニヤッと佐久間が笑った。
 暗闇の中でどうしてその憎たらしい笑顔が、くっきりと見えたのか分からない。
 でも、してやったりと言った、いたずら小僧そのままの顔だったのは間違いない。

 何かやらかす気だ。
 そう思った時には遅かった。
 腕を掴まれて、そのまま水の中に落とされていた。

 しぶきがあがる。
 ドボンと派手な音と同時に、全身を冷たい水が押し包んだ。
 はじけるような水泡と、気管に侵入してくる水。
 塩素のツンとした感じにむせて、悲鳴を上げることもできず、もがくことしかできなくて死ぬかと思った。

 グイッとすぐに身体は水面に引き上げられたけど、せき込むことしかできない。
 シーッシーッとひそめられた非難がいたるところから響いてきたけど、私のせいではない。

「なに溺れてんの?」
 私の腕をつかんだまま「あははっ」と笑うのが佐久間だとわかって、あんたのせいでしょーと言いたかったけれど、わきあがってくる咳を必死で飲み込んだ。

 もういやだ、こいつ。
 台風みたいで、落ち着かない。
 再会してからのほんの少しの時間なのに、どっぷりとつかれてしまった。
 それにしても派手な水音を立ててしまったし、大丈夫かしら。

「大丈夫、今日の宿直は伊丹先生だから、この時間には宿直室。来年、定年だからな~寝るのも早いんだよ。そのぐらいはチェック済み」

 へらへらと笑うので、ムッとする。
 伊丹先生は中学三年の時の担任で、温厚で穏やかなおじいちゃん先生だ。
 日頃怒らない分、怒ったら怖い。
 あの時の説教はビシビシと厳しい言葉が連続で飛んできて、かなりダメージを受けてしまった。

「同じこと言っといて、四年前は見つかったでしょう?」

 そう、あのときは本当にくだらない原因でみつかった。
 調子に乗った男子がはじけすぎたらしく、誰が今日の王様か決めるなんて流れになって、水泳大会を初めてしまい。
 タイムレースに白熱して本気になり、最後は見守る一同で大声で声援を始めちゃったから、あっさり御用になったのだ。

 自業自得とはいえ、バカすぎる。
 最後は夢中になって私も声援を送っていたけど、ソコはノーカンだ。
 まぁな、と笑って、佐久間は私の腕を放した。

「今日は大丈夫。ほら、みんな大人になったんだよ」

 そろそろと緩やかに水になじみ、いままでになく静かな行動なので、ちょっとだけドキリとする。
 ほんとの大人はプールに忍び込んだりしないわよ、と言いたかったけど、私も同類だし。
 少しは大人になったのかしら?

 佐久間は顔を空に向けて、プカリと水に浮かんだ。
 背泳ぎの要領でただ浮かぶだけだけど、なんとなく私もその横に浮かんで空を見た。
 お子様なのは佐久間だけね、とバカにしてやったら、まぁなと悪びれもせずうなずくところが、ほんの少し大人になった気がする。

 満天の星が、空いっぱいに広がっていた。
 月がないから暗いと感じていたのは、私の思い込みだったのかもしれない。
 暗闇に慣れた目には星がまぶしいほどで、鮮やかなミルキーウェイがはっきりと見える。

 あれがきっとアルタイルとベガ。
 彦星と織姫は天の川をはさんで、強く輝いている。
 綺麗だと、純粋に思う。

「なんで、今日を選んだかわかるか?」

 不意に、佐久間が言った。
 あたりまえだけど、あの頃よりは声が低い。
 知っているはずなのに、知らない人みたいだと、初めて思った。

「七夕だから?」

 久しぶりに中学時代の仲間と集まるには、ちょうどいいよね。
 なんて続けてみたら長い沈黙の後、まぁな、と気のない返事が聞こえた。

 あら、どうやら私は、佐久間の期待した答えを外したらしい。
 でも、何か言いたげな雰囲気を感じていたので、そのまま耳をすませる。
 しばらくの間、チャプチャプとかすかに揺れる水の音と、同じようにヒソヒソ話をする友達の声が、遠く近く夢みたいに押し寄せてきた。

 みんな、静かに語り合っている。
 はしゃいだりせずに、この時間を大切にしているって、全身で感じた。

 このまま夜に溶けたい。
 なんて、詩人みたいなことを思う。
 全身をつつみこむ冷たい水も、降り注ぐような星空も、確かな現実なのに。
 どうして泣きたくなるぐらい、綺麗なんだろう。

「森ちゃんが森ちゃんらしいのも当たり前か」
 と、気を取り直したように、佐久間は笑った。
「俺にとっても、七夕だっつーの。ほんとに嫌になるぐらい変わらないなー」

 星ばかり見ていると、耳に届くのは記憶の中にはない大人の声だ。
 それ褒めてないでしょ、と突っ込むことは、なぜかできなかった。
 そして、不自然な沈黙が落ちる。

「この後、ファミレスに行こうな。懐かし会、やるぞ」
 不意にそんなことを言い出すので、うん、と私はうなずいたけど、すぐに気がついた。
「ねぇ、佐久間。濡れた水着のままじゃ、ファミレスには入れないと思うけど」

 あ、返事がない。困っているらしい。
 更衣室がないって言ったのは自分のくせに、まったくもって詰めが甘い奴だ。
 しばらく無言だったけれど、ややあって現実を認めたようだ。

「仕方ね~な。今日のところはあきらめてやるよ。花火もちゃんと持ってきたから、公園にでも行こうぜ。とにかく懐かし会は決定だ」
 ひとりで盛り上がっている佐久間に、私はクスクスと笑った。
「相変わらず、台風みたいなことばっかり言うんだから。その前に、プールからの脱出ミッションがあるわよ」

 でも、誘えばきっとみんなうなずくと思う。
 こうやって夜に同化するのも悪くないけど、ちゃんと話をしたいもの。

 今夜はまだ始まったばかりなんだ。
 永遠にこの夜が続きそうで、ワクワクが止まらない。

「なぁ。他の奴らと別れる前に、彼女って言ってもいいか?」

 唐突だったから、私はその意味がしばらくわからなかった。
 星空の下の花火に意識を飛ばしていたので、よけいに理解しがたい。
 前後の脈絡がまるでなくてぶっ飛ぶようなことを平気でする奴だけど、ここまでいろんなことをすっ飛ばしてくるとは。

「好きなのかどうなのかわかんないけど、嫌なことや辛いことがあると、おまえのこと、思い出すんだ。商店街の笹の葉見たら、うずうずしちゃってさ。だから、会って自分の気持ちをはっきりさせようと思って」

 他の奴と連絡とりながらも、やっぱりお前に連絡するのが一番緊張したと佐久間は笑う。
 特別な意味が込められていると理解するまで、鈍いと自分でも思うぐらい時間がかかる。

 なんだろう?
 想定外って、こんな感じ?

「俺はずっと、お前に会いたかった」

 夜間水泳と、七夕の願い星と、突然の告白。
 そのすべてがつながっているのか、チグハグしているのか、どれもこれも私の日常からかけ離れ過ぎていて、脳がついていかない。
 冗談はよく言う佐久間だけど、他人の気持ちをひっかきまわす冗談は言わないので、本気なんだろうな。

「なんかさ、おかしいだろ? 俺が俺じゃないみたいで、すっげー笑えるけど、会えてよかった」

 星空がそのまま降りてきたようなひそめられた声に、私はしばらくボーっとしていた。
 夢じゃないってわかってるけど、いきなり告白なんて漫画じみていて現実味が薄くてクラクラする。
 好きなのかどうかわからないというあいまいさに加えて、視界を星空に酔っていたからかもしれない。

「おい、起きてるか?」

 うん、とぼんやりした相槌を打つだけで、かなり長い時間を要した。
 個人的に特別な感情を抱いていると宣言されたのに、どう答えていいのかわからなかった。
 水の中で立ちあがった佐久間が心配そうに歩み寄ってくるので、私は低く笑った。

 好きなのかどうなのかわからないのは、私も一緒だ。
 勉強だ予備校だと日常にまぎれた忙しい時間は、佐久間のことなんてすっかり忘れていたし。
 呆れて、バカバカと言い放って、もういい加減にしなさいよと文句をつけながらも、こうやって夜間水泳をするぐらい、気にいってる相手なのは確か。

 でも、いきなり会おうぜって誘われて、本当に会いに行く相手は佐久間だけだ。
 だから、ポロっと好意的な言葉が唇からこぼれ出た。

「私は楽しいことやドキドキすることが起こると、佐久間のこと、思い出すわよ」

 よし、と妙に喜んだ佐久間が、急に抱きついてくるのでびっくりした。
 反射的にグーでその顎を殴ってしまい、手が緩んだすきにすみやかに距離をとる。

 全く、油断も隙もない。
 今日はビキニで、私も無防備な姿だ。
 盛り上がるのは勝手だけど、いきなりハグされて喜ぶわけがないでしょうに。

「誰も好きだなんて言ってないから」
 あくまで夜間水泳の仲よ、と言い放つ。

 だけど。
 一瞬だけ触れた腕がやけに熱くて、佐久間の体温が焼きついて消えない。
 胸がドキドキして仕方ないから、声が震えてしまった。

 きっとこれは星空マジック。
 朝になると魔法が解けるかもしれないから、簡単にはうなずいてやらない。
 私の動揺を見透かしたように、ふふんと佐久間は鼻で笑った。

「ここで甘いこと言ったらほかの奴に聞こえるし、雰囲気に流されて、つられたように告白なんて恥ずかしい~とか思ってね?」
「いっぺん、プールの底に沈んでもいいわよ」

 つめてーなと抗議は受けたけど、無視しておく。
 勝手に言ってなさいよ、と舌を出すと、私は再びプールに浮かんだ。
 顔がほてる。
 冷たい水の中にいるのに、のぼせてしまいそうだ。

「俺は好きだって言っとくからな。だから付き合おうぜ」

 バカ、と言いかけたところで、流れ星が一つ。
 スウッと彦星から織姫に向かって流れた。
 迷うことなく流れた一筋の光に、懐かしい記憶がよみがえる。

 「お、流れ星! 森ちゃんと健全で不純な交際ができますように」

 恥ずかしげもなくバカ丸出しの願い事をする佐久間に、私は無言を貫いた。
 そうだ。
 ふうっと星の海から浮き上がってくる記憶。
 あの日の短冊に書いた願いがくっきりよみがえる。

 夜間水泳が成功しますように。

 受験よりも何よりも、あの日の私が祈りたかったこと。
 それは、自分の気晴らしのためじゃなくて、笑ってる佐久間を近くで見たかったから。

 中学三年のドキドキやワクワクにプラスして、ほのかに甘く胸が疼く。
 恋なんかじゃないけど、あの日の気持ちが今にちゃんと続いていた。
 名前を呼ぶだけで心の奥底をくすぐられるような、思わず笑顔になってしまうこの気持ちがずっと続けばいいのに。

 私たち、これからどうなっていくのだろう?

 好きだ、なんて簡単に言わないけどね。
 きっと明日も、佐久間と顔を合せて笑っているはず。
 そのためにもプールからの脱出は、速やかに静かに決行しなくては!

 緊迫の時間が、近づいている。
 中学時代みたいに、捕まるようなヘマはもうしないんだから。
 脱出経路は確保できていると言ってたけど、最後まで気が抜けない。

 ねぇねぇとしつこく話しかけてきていた佐久間だけれど、私が無言で星空を見ていたら諦めたのか、無言で再び水に浮かんだ。
 プカリ、プカリと漂う私たちは、まるで海月のようだ。
 佐久間との関係も、どう変わっていくかわからない。

 もしも。

 脱出ミッションが成功して。
 この後の花火で笑いあって。
 星空の魔法が解けて、朝になっても。
 ドキドキやワクワクが続いていくなら、新しい一歩を踏み出せるかもしれない。
 私も好きだよ~なんて、バカみたいな調子で言えそうな気がする、たぶん。

 今夜は短冊がないけれど。
 指先で固くこよりをより合わせたひたむきさで、星空を見上げる。
 中学三年の夏と同じことを、私は祈っていた。

 夜間水泳が、成功しますように、と。



【 おわり 】
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