「きゅんと、恋」短編集 ~ 現代・アオハルと恋愛 ~

真朱マロ

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再会(大学生・社会人)

狂おしいほど君に  ~ SKY ~  ※

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 白と黒の鍵盤に指先を走らせる。
 女性にはキーが低めなので、歌わずに軽くハミングするだけ。
 爽やかな旋律とともに、胸の奥で広がるイメージ。

 真っ青に晴れ渡る空の下。
 君に逢いたくて、逢いたくて。
 フルスロットルでスクーターを走らせる。
 叫びたくなるSKY。
 真っ直ぐに君へと続く道。

「先生、その曲、好きだね。私も好きだった~懐かしい」
 私はピアノを弾く手を止めて「うん」とうなずいた。
 朗らかに笑う彼女に目をやれば、窓の外に広がる鮮やかな青空。
 この曲の歌詞のように、圧倒的な夏の青さで広がっていた。

「音楽、好き?」
 私が問いかけてみると、うんとうなずく子と、う~んと首をかしげる子がいる。
 毎日のようにピアノを聞きにやってくる子どもたちも、特別音楽が好きではないらしい。
 もちろんちゃんと聞いている子もいるし、軽くハミングをする子もいるけど、BGM代わりにして本を読んでいる子もいる。
 ピアノの音に包まれて、ゆるりと流れる時間は居心地がいいのかもしれない。

 何年も続けていると、この曲が聞きたいと楽譜を持ってくる子も多い。
 音楽室は休憩時間になると年齢を問わず、何人も児童生徒がやってくる。
 昼休みなので、なおさら人口密度が上がっていた。
 とは言え、両手の指で足りる程度だけど。

 全校生徒は百人ぐらいだったはずだ。
 町立の中高一貫校かと思っていたら、小学校も同じ敷地にある。
 力いっぱいピアノを弾いても、誰にも迷惑をかけない。

 日常で気軽に音に触れる機会が少ないから、休憩時間はピアノをできるだけ弾いて欲しいと校長に頼まれている。
 それは自宅にピアノがない私にとってもありがたい話だった。

 陸の孤島。
 県内の中でもそう呼ばれるほどの山奥に、私は赴任していた。
 海から遠く離れているのに孤島って変……なんて辞令をもらった時は笑ってしまったけど、来たらなるほどと納得した。
 町内の八割を森林が占めていて、数軒ずつ集落としてまとまっているけれど、すぐそこのお隣感覚は数キロも離れている。
 商店と呼べる店もゼロではないけれど本当に少ない。

 不便だけれど、余分なものはない生活。
 それは小さな幸せだけど、環境のどかさが心をすぎる時間を緩やかにさせる。

 フッと脳裏をよぎった面影に、思わず唇を指先で確かめてしまう。
 高梨君。彼はどうしているだろう? 
 私の指も唇も、この曲を今も暗記している。
 楽譜を渡してくれた彼は、普段は私のことを先生とは呼ばなかった。

 呼んだのはキスをした一度だけ。
 明るく染めた髪もスッキリ通った鼻筋も、想い出の中だけに存在するのに忘れられなくて胸が痛い。
 生意気でつかみどころのないところもあるけど、真正面から私を見て「美鈴ちゃん、好きだ」と自分の気持ちを優先させる若さが怖かった。
 私は「君の自己満足に付き合わせないで」とはじき返すことしかできなかった。
 年上の教師に憧れるなんて高校生にとっては麻疹みたいなものなのに。

 SKY。
 ここにいる彼女たちにとっては数年前に流行っただけの曲。
 私にとってはほろ苦い想い出がつきまとう曲。

 今ならわかる。
 年甲斐もなく、私は彼が好きだった。

 ここは森と空がある場所。
 ゆっくりと流れていく時間の中で、高梨君のこともいつか想い出として昇華できるといい。
 人の少ない場所に赴任したことで、私はそう思うようになっていた。

 空があんまり青いから、今日はやけに高梨君を思い出す。
 居酒屋にでも立ち寄りたい気分の金曜なのに飲むなら家に帰るしか選択肢がない。
 車で市内に出るにも一時間以上かかるので、代行運転を頼む気にもならない。
 山のふもとにあるコンビニまで車で片道二〇分かけて行き、山道の運転にもずいぶん慣れたなぁと思いながら自宅に帰る。
 ここに赴任するまではほとんどペーパードライバーだったことを思い出し、クスリと笑ってしまう。

 教員用の住宅が茅葺きの古民家だったことは、最初の驚きだった。
 それまでの六畳二間の暮らしから一転して、一軒家はあまりに大きくて、一人でいることにずいぶん戸惑ったし心細い思いもした。
 もう大丈夫。そう思うまでに、一年はかかった気がする。
 田舎の暮らしにもずいぶん慣れた。

 なんてことを思いながら自宅に帰りつき、車から降りたけど足が止まる。
 玄関前に人が座っていた。
 抱えた両ひざに顔を埋めるようにしているが、真新しいスーツの男性。
 黒髪が夕日に照らされて艶々と輝き、黄昏色に染まった姿は不審者のはずなのに絵になる。
 訪問販売にしては小さなナップサック一つで、スーツ姿には不似合いだ。

 ジャリ、と私の踏んだ庭石の音に、彼は顔をあげた。
 思わず息をのむ。

 漆黒の髪は見慣れなかったけれど。
 スッキリ通った鼻梁も、まっすぐな眼差しも、笑ったときに軽く口角をあげる生意気な感じも。
 その全てが懐かしかった。

「高梨君」

 思わず名前を呼ぶと、高梨君はクシャリと顔をゆがめた。
 立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 私の知っている学生服姿ではなくて、真新しいスーツにネクタイ姿なのが戸惑いを深めた。
 間近で見つめ合う。

「美鈴ちゃん」
 懐かしいその声に、呼び方に、胸の奥が震えた。
 本物だ。本物の高梨君だ。

 どうしてここに? と問いかける前に、高梨君は両手を伸ばして、私を抱きしめた。
 耳の側で「やっと見つけた」とつぶやかれ、むせび泣くようなその声に私も手を伸ばす。
 ゆっくりと彼の身体に腕を回す。
 確かめあうように、お互いのぬくもりを感じる。

 こんなに近付いたのは初めてだ。
 いけないことをしているとは思わなかった。
 初めて見るスーツ姿が似合っていて、ネクタイが大人びていたからかもしれない。

「今夜、泊めて」

 不意にささやかれ、私は現実に引き戻された。
 元気でいてくれたことは嬉しいけど、教え子を簡単に泊めるわけにはいかない。
 抱き返していた手を離し、グッと突き放す。

「君の自己満足に、私を突き合わせないで」

 高梨君はムッと口を引き結び、その後でヘニョリと肩を落とした。
 またそれかよ、とぼやきながら右手で髪の毛をぐちゃぐちゃにかき混ぜた後、玄関横にとめてあったスクーターを忌々しそうに指さす。

「壊れちゃって帰れないの。野宿しろなんて言わないよね?」
 なるほど、と私は納得した。
 都市部ならオシャレなスクーターも役立つけど、高低差数百メートルが延々続く山道の連続に、エンジンがオーバーヒートしたのだ。
 私が乗っている軽乗用車もターボ付きである。
 ターボがないと登り道の負荷が大きくて、エンストまではいかないけれど必ず失速してしまう。

「なんなの? この殺人山道。行けども行けども山しかないってどんなとこだよ!」
 高梨君は半泣きである。

「俺のべスパが……」
「ちゃんと事前に調べないからでしょう?」

 バカね、と言いながら玄関を開ける。
 数少ない修理業者に電話をして、修理のために持ちかえってもらうことにした。
 日曜までにはなんとか直りそうだと聞いて、ひとまずほっとする。
 すぐさま動いてくれた業者の四tトラックに積まれて遠ざかっていく愛車に、高梨君はひどく落ち込んでいた。

 成り行きで泊めることになってしまった。
 けれど、高梨君にしてやったりの調子はなくて、夕食を食べ終わってもまだ落ち込んでいる。

「いい加減、元気出しなさい」
 ホラお風呂、ホラ布団しいて、と矢継ぎ早に指示を出して、後は寝るだけと用意を整えた。

 そして、じゃぁねと別の部屋に行こうとしたら、手を掴まれた。
 グッと引き寄せられて、抱きしめられる。
 冗談はやめて、と突き放す腕に手を入れかけたけど、高梨君の声が耳元におちた。

「俺、就職したんだ」
 それは独り言のようで、思わず出てしまった本音のようで、私の手を止めるだけの力があった。
「ちゃんと大学も出たし、就活だってまじめにやった。初めての給料でべスパを買った。一人で暮らすこともできる」

 それは私たちが顔を合わせなくなってからの時間の長さも表していたけれど、どうして泣きそうなほど声が震えているんだろう?
 トクトクと速度をました高梨君の鼓動がやけに大きくて、落ち着かない。

「俺、もう社会人なんだよ?」
 うん、と私はこわばった動きで、小さくうなずく。
 頑張った、と言うのも、おめでとう、とも言うのも違う気がして、ひたすら耳をすませた。
 私を抱きしめる腕に、ギュっと力がこもる。

「好きなんだ」

 トクン、と私の心臓が跳ねた。
 どんな表情をしているか見ようと顔をあげたかったけれど、強く押し付けられるように抱きしめられて身動きが取れない。

 高梨君の言葉はポロポロとこぼれ落ちてくる。
 想い出の曲みたいに。

 スクーターに乗って、迎えに来たって言って。
 逢いたいって言って、好きだって言って、ただまっすぐに向かう。
 走り出した心そのままに、君だけがほしいと言って。
 ただそれだけを伝えたかったなんて。

「なのに、かっこわりぃ……」

 バカね、としか言えない。
 高梨君にとってはかっこ悪いことかもしれないけれど、私にとっては違うのだ。
 本当に、どこまでもバカなんだから。
 そういうことを言われると、未来なんてどうでもいいから抱きしめたくなる。

「美鈴ちゃん……?」
「私の気持ち、あなたにわかる?」

 そっと大きな右手をとって、私の胸に押し当てる。
 激しく脈打つ心臓の音が、彼にまで響けばいい。

 こんなところまで追いかけてくるなんて、本当にバカだ。
 追いかけられた私の気持ちが動く方向なんて、決まりきってる。

 流されてる? ほだされてる?
 どっちでもいい。

 私は彼の教師だった。
 彼は私の生徒だった。
 どんなに背伸びしたって、私たちの間にある年齢差は埋まらない。

 不道徳なのか、倫理に反しているのか、真実はわからない。
 冷たい言葉で突き放さなければ、自分の足で立てないほど。
 私はずっと、高梨君が好きだった。

 未来なんて知らない。
 ただ今は、彼に向って一歩を踏み出すだけ。

 誘惑と知りながら、つま先で背伸びしながら深く口付ける。
 戸惑いごと、飲み込むように深く絡めながら、二人で夜に堕ちる。

 歌うように、私を愛して。
 鍵盤のように、滑らかに触れて。

 目を閉じれば、落ちてくるぬくもり。
 唇に、首筋に、どこまでも甘く。

 名前を呼んで。あなたを呼ぶから。
 甘く濡れるのは、どちらの声?

 終わらないこの夜に、壊れるほど強く抱いて。

 脳裏に繰り返すリフレイン。
 今は月が空を渡っているけれど、私たちに見えるのは突き抜けるような蒼。

 SKY。
 くるおしいほど、君に……



【 おわり 】
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