「きゅんと、恋」短編集 ~ 現代・アオハルと恋愛 ~

真朱マロ

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恋の始まり(大学生・社会人)

金魚姫

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「あのね、同じ講義をとってる人に、好きだって言われたの」

 突然訪ねてきた八重は泣きそうな顔でそう告げた。
 僕は驚きすぎて、そう、とぼんやり返事をすることしかできなかった。

 考えてみれば八重は女子大生なのだし、それほどおかしな話ではない。
 年頃の女の子だから、当たり前のことなんだけどさ。
 人見知りが強くて周囲と打ちとけにくい性格なので、告白してくるような奴が現れるとは思わなかった。

「告白、されたんだ?」
 確かめると、うん、とうつむいたままで八重はうなずいた。

「もしかして、嫌な奴なの?」
 なんとなく浮かない顔をしていると思ったからそう聞くと、ハッキリと首を横に振って否定した。
「そっか、よかったな」

 良いお兄さん役としては、そう言うべきだろう。
 内心の動揺を押しかくして微笑むと、八重は表情を曇らせた。

「翔ちゃんはよかったって思うの?」

 え? と思ったけど、返事に詰まった。
 突然やってきた八重が報告するくらいだから、もう決定事項だと思ったんだけど違ったんだろうか?

 しばらく気まずい沈黙が流れて、いたたまれない気持ちになった頃。
 不意に、八重が僕を見上げた。
 大きな黒い瞳が、涙でうるんでいた。

 何か言いかけて、それでも言葉にならなかったのか再び目を伏せた八重は、手にしていた大きな包みを僕に差し出した。
 布に包まれているけれど、形と大きさで中身はわかる。

 絵だ。
 八重は押し付けるように布に包まれたキャンパスを僕に渡すと、そのまま自宅に入った。
 うなだれたまま消えたその背中を、僕はぼんやりと見送ることしかできなかった。


   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 お向かいに住んでいる八重は、二つ年下の幼馴染だ。
 外見は清楚な感じで、性格は引っ込み思案で人見知り。
 口下手というよりは、話したいことが一気にあふれだすから大渋滞して、言葉に詰まる感じの子だ。
 じれったいと思う奴もいるようだけど、僕はそこが可愛くてほっとけないんだ。

 八重は他人と馴染んで普通にしゃべれるようになるまで、かなり時間を要する。
 恋愛どころか友達を作るのも大変そうだから、告白されたなんて衝撃の報告だった。

 いつまでも僕の後ろを追いかけてくるばかりの、小さな女の子じゃなかったんだ。
 そんな当たり前のことにいまさら気がつくなんて変だけど、生まれる前から知っている身としては八重が成人するだけで違和感がある。

 でも、告白されたなんて、なぜ僕にわざわざ知らせに来たんだろう?
 告白されるような間柄なら、それなりに八重を気づかえる奴だと想像したのだが、違ったのだろうか?
 返事の仕方がわからないとか?

 僕はもやもやした気持ちを抱えたまま、自分の部屋に入って布の包みをほどいた。
 現れたのは想像通り、八重の絵だった。

 胸から下しかないけど、少年らしい子供が大事そうに金魚鉢を抱えている。
 差し込む光の揺らめきの中で、手の中に収まった金魚が優雅に尾を揺らしていた。
 顔がないから少年の表情はわからないけど、きっと微笑んでいるはずだ。
 愛しそうに、慈しむように。
 きっと笑っている。

 そんな、透明で暖かな絵だった。

 天は無類の才能を、八重に与えた。
 画才だ。

 皮肉な話だけど、生来の人見知りが才能の開花を早めたように思う。
 外で走り回って泥だらけになるなんて論外で、屋外に出ても絵を描いていたから。

 八重の描く物は身近な題材が多いのに、とにかく色調が多彩でハッするほど綺麗だ。
 どこにでもあるものばかりなのに、そこから目が離せなくなる。
 この金魚みたいに、捜せば近くにあるものばかりだけど。

 それなのに特別な物に出会った気持ちになるのは何故だろう?
 こんな色をしていたっけ?
 なんて現物を後から見直すこともある。

 それでもジーッと見つめていると絵にある情景と同じ一瞬が、まどから射し込む風や光の具合で確かに見えた。
 これが八重の見ている世界なんだと思うたびに、胸が詰まるような感覚を覚える。
 何の変哲もない陶器のカップが光に溶ける瞬間をとらえるなんて、その眼差しが羨ましくて仕方ない。
 光があふれるような明るい絵は、油彩にはありえない透明感を持っているうえにやわらかな印象だし、天才ってこういうことだろうなんて美的センスのない僕でも思う。

 ふと気付く。
 アレ、この服。
 なんだか見覚えがある。

 空に溶けるような発色を気にいりすぎてしまい、子供らしい執着心を発揮して「そろそろあきらめて」という母さんの忠告も聞かず、色あせてピチピチになるまで着ていた。
 左肩のマークの色も形も同じだ。

 うん、間違いない。
 金魚を抱えているこの男の子、僕だ。

 一瞬、胸の奥がチリッとした。

「翔ちゃん、もう絵が描けないよ。どうしよう?」
 そんなふうに、八重が泣いたのはいつだったろう?

 まだ日は高いのに、泣いてる八重。
 地面に散らばった絵の具。
 僕は赤と青と黄色を拾いあげて……公園、だった?

 今、大事なことを思い出しかけた気がする。
 膨らんでくる落ち着かない感じに、ウロウロとしかけて、ふと気付く。

 あれ?
 そういえばさっき告白されたとは言ったけれど、相手と付きあうかどうかには触れなかったような?
 もしかして……いや、そんなはずない。

 美大に通う八重に比べて、僕はただの凡人だろう。
 取り上げられる特技もなければ欠点もない。

 特徴?
 そんな物があれば教えてほしいぐらいだ。
 僕にも一つぐらいは自慢できる事があればいいんだけどなぁ。
 なんてぐだぐだ考えながら、毎日をやり過ごすだけ。

 幼馴染のお兄さんだから会話をしてもらえるけど、八重に相手にされる訳がない。
 でも、もしかして、だったら。

 なんだか心がざわついて、息がつまりそうになり、僕は窓を開けた。
 庭に目をやって、ドキリとする。
 八重と目があった。

 うちの庭にいること自体は、別に珍しいことじゃない。
 母さんの趣味である園芸の最大の理解者は八重だ。
 僕の目にはありふれた花壇なのだが、なんでも別世界に変えてしまう八重は気にいっているようで、よくスケッチに来ている。

 だけど、こうして目が合うのは珍しい。
 花じゃなくて、僕の部屋を見ていたのだろう。

 物言いたげに小さな口は動いたけど声にならず、視線はフイッとそらされた。
 僕は窓を閉めて、階下に降りる。
 胸の奥がざわついて仕方ない。
 この落ち着きのなさ正体が何なのか知りたかった。

「八重」

 呼びかけると、ビクッとして八重は振り向いた。
 両手に何か握りしめている。

「八重」

 もう一度呼ぶと、うん、と小さく返事が返ってきた。
 そして、沈黙が落ちる。
 何をどう切り出せばいいのかもわからなくて気ばかり焦る僕の前で、八重はキュッと唇をかんだ。

「翔ちゃん。これ、覚えてる?」

 差し出された手の中には、三色の古い絵の具があった。
 さっき記憶に引っかかった赤と青と黄色。
 うん、と僕はうなずいていた。
 ふわっと八重の口元に微笑みが浮かんだ。

「いじわるな子にからかわれて絵の具を箱ごと盗られちゃった時、翔ちゃんが必死になって取りかえしてくれたの」
 必死だったかどうかは記憶にないが、確かにそういう事実はあったはずだ。
「結局、箱の中身は全部地面に散らばって、踏まれて半分ぐらいダメになったっけ?」
 うん、と八重は懐かしそうに手の中の絵の具を見つめていた。

「あの日、あたしがすごく泣いたよね。もう絵が描けないって」
「あったな、そんなこと」

 なんだか懐かしくて、話しているうちにくっきりと思い出してきた。
 確か、あの時の僕は。

「絵を描くなら、色はこのぐらいで足りるんだ」
 絵の具を八重の手に握らせたはずだ。

 赤・青・黄。
 色の三原色。
 驚きすぎたのか、八重の涙は一瞬で引っ込んだ。

「これだけ?」
「十分だろ?」
 びっくりした顔が、本当にかわいかった。
「色って作れるんだよ」

 ずっと家にいる八重より年上で、物心がつく前から保育園に通っていた僕は、先生に聞いて色の作り方を知っていた。
 混ぜたら変わっていく色が面白くて、お絵かきの勉強の時にたくさんの色を作った。
 絵を描くよりも、表情を変えていく色調に魅せられて、他の子の欲しがる色まで作ったから正しい色の作り方も感覚で覚えていた。
 もっとも絵はほとんど描かず色に夢中だったから、やりすぎて怒られたけど。

 色を作る。
 八重にはなかった発想らしく、それってすごい、となんだか頬を紅潮させていた。
 だから、ねぇねぇとおねだりされるまま、僕は拾ったパレットに絵の具を出して色の作り方を教えてあげる。

「本当は黒と白も、赤・青・黄で作れるはずなんだけどなぁ」

 絵の具じゃ綺麗な発色にならないのが悔しい。
 白は無事だったけど、黒は真っ黒な穴みたいに地面に暗く広がっている。
 混ぜた色は本物の黒にならないとぼやく僕に、涙を引っ込めた八重はクスクスと笑った。
 軽い笑い声に八重がワクワクしているのがわかって、僕まで嬉しくなっていた。

「ねぇ、あの色はどうやって作るの?」

 気持ちを変えるように、八重が次々に指差していく。
 近かったり遠かったりする視線と指先を追って、僕は筆をとりパレットの上にその色を作っていった。

 森の緑は青と黄色。
 スミレは赤と青。
 ガーベラは黄色と赤。

 混ぜ合わせることで、あっというまに生まれる別の色彩。
 草の色、ひなたの色、花の色。
 僕は絵を描くそのものは下手くそだったから、色を含ませた筆を八重に渡す。
 八重は丁寧な仕草で、その色を画用紙の上に載せていく。

「翔ちゃんは色の魔法使いみたいだね」
 心底感動している八重の感嘆に、僕は苦笑するしかなかった。

「魔法使いは八重だよ。八重の絵は本物より綺麗だもん」

 僕は色を作れても、それを活かすことはできない。
 画用紙に僕が筆を運んでも、のっぺりとした色の落書きができるばかりだ。

 それに比べて、八重の描く絵と言ったら。
 綺麗な色。鮮やかな色。命の色の連鎖。
 光が、風が、地面が息をするように、ちゃんと生きている。

 画用紙一面に広がる世界はとても綺麗で、既に子供の絵の域を越えていた。
 本当に八重は魔法使いみたいだ。

「ねぇ、翔ちゃんの色は?」
 不意に問いかけられて、僕は即答する。
「空の青だよ。僕の好きな色」

 今も着ている服の色でもある。
 ピッタリ、と八重は手を叩いて喜んだ。

「それなら、あたしの色は?」
 ちょっと考えたけど、すぐに思いついた。
「八重は金魚色」

 八重は驚いたように、目を大きく見開いた。

「金魚色……?」

 何度もまばたきして、何か言おうとして結局言葉にならなくて。
 口をパクパクさせながら、真っ赤になっている。

 ほら。やっぱり、八重はかわいい金魚だ。
 ヒラヒラしたワンピースが夕日に染まって、小さなお姫様みたいに見える。

 喋るのが苦手で、僕にしか懐かない金魚のお姫様。
 それは確か、春の日の出来事。

 懐かしいなぁと思い出にふけっていたら、不意に八重が僕の胸に飛び込んできた。
 手のひらに乗っていた想い出の絵の具が、バラバラと地面に散らばった。
 思わず後ろに下がりかけたけど、八重の手がそれを阻んだ。
 僕の袖をつかんだ八重の手は、小刻みに震えていた。

「お願い。他の人に告白されて、よかったな、なんて言わないで」

 トン、と僕の胸に八重のおでこが当たる。
 触れるぬくもりが震え続けているから少し不安になって見下ろすと、うつむいたままの八重は耳たぶまで真っ赤になっていた。
 こんなに近づいたのはここ何年もなかったことで、うなじの白さや肩の細さにめまいがした。

 心拍が、一気に跳ね上がる。
 小さな声だったけど、八重は迷うことなく続けた。

「翔ちゃんが言った、あたしの金魚色を探して、ずっと絵を描いてきたの。

 今でもあたし、この三色からいろんな色を作ってるんだよ?
 翔ちゃんが教えてくれた通りに、翔ちゃんが作ってくれた色を使ってたら、みんな褒めてくれたの」

 大好き。
 なんてわかりやすい台詞ではなかったけど。

 もっともっとたくさんのことを教えて、なんて。
 八重の体温がリアルすぎて、頭がクラクラする。

 届けられた絵の意味がやっとわかった。
 朱色の金魚は、僕の手の中でくつろぐ八重自身。
 キャンパスに描かれた金魚の絵は、僕への恋文だったんだ。

 混ぜ合わせることで、まったく違う鮮やかな顔を見せる色彩。
 僕が見た色を探して、絵を描き続けてきたのなら。
 朱色の金魚は、ただの金魚じゃない。

 手の中で護られて、安心している八重自身。
 言葉にするのが苦手だから、八重は自分の気持ちを絵に託した。
 読み解けるのは僕だけなんて、うぬぼれてもいいのかな?

「八重」

 名前を呼んで、そっと手を伸ばす。
 王子様なんてガラじゃないから、このまま触れてもいいのか少しためらってしまう。
 だって、八重はずっと僕のお姫様だったから、少し怖い。
 抱きしめたり触れたりしてしまったら、人魚のお姫様みたいに消えてしまうんじゃないかと、ずっと思っていたから。

「絵を描くことも。側にいてドキドキすることも。離れると寂しいって気持ちも。笑うことも泣くことも。私に教えてくれたのは、翔ちゃんなの」

 腕の中に納まった、八重の声も少し震えている。
 トクトクと手のひらに伝わってくる、駆け足の鼓動。
 側にいるだけで嬉しいなんて浅い付き合いじゃないけど、今から僕たちの距離は変っていくのだろう。

 八重にふさわしい王子様になれるかな?

 運命を感じるような二人じゃないけど、ずっと側にいてほしい。
 僕のかわいい金魚姫。


【 おわり 】

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