「きゅんと、恋」短編集 ~ 現代・アオハルと恋愛 ~

真朱マロ

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あなたを想う(大学生・社会人)

ただ、その笑顔を見たかった

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 すすり泣きが聞こえる。
 窓を開けているから、網戸から入ってくる風に乗って、かぼそい嗚咽が室内に入ってくる。
 また、お隣さんがベランダで泣いているらしい。

 別に聞く気はないのだが安普請なのでお互いに窓を開けていると、やっぱり生活音や話声がお互いに筒抜けになるのだ。
 電話の内容だって細やかな内容までは聞き取れないけど、その語調や雰囲気でなんとなく察する事ができる。
 いいのか悪いのかわからないけど、古い物件ならではの事情だ。

 賃貸マンションに越してきてから数カ月。
 お隣さんと交流はあるけど、特別に部屋を行き来するほど親しい訳ではない。
 だけど、知らない相手だ、とも言えない。
 会話はするけど、顔を突き合わせることのない、不思議な関係なのだ。
 
 俺が右隣に住んでる彼女と初めて顔を合わせたのは、引っ越してすぐの真夜中のベランダだった。
 引っ越しの片づけと、転勤してきたばかりの会社への顔見せと、とにかくバタバタとして落ち着かない一日がやっと終わり、寝る前の一杯と晩酌をしかけた時。
 シクシクと女の泣き声が窓から入ってきたのだ。
 押し殺したような嗚咽が、部屋にそっと染み込んできたのだから、その時の俺はかなり焦った。

 ここ、四階だぞ。寒い。寒すぎる現象だ。
 一気に血の気が引いたのも当然だろう。
 真夜中に若い女のすすり泣きが窓の外から聞こえてきたんだから、怯えないほうがおかしい。
 俺はビクビクしながら、旅先で買っていたお守りを持ってベランダに出た。

「誰かいるのか?」
 頼むから空耳であってくれよと願いながらの言葉に、まさかの返事があったのはその時だ。
「誰?」

 右隣から響いてきた涙にぬれてかすれた声に、驚くと同時に安堵した。
 なんだ。これはお隣さんで、本物の人間だ。

 挨拶に行った時は留守で、それからバタバタしていて挨拶の機会を失していたから、これがはじめましてになる。
 お隣さん、若い女の子だったんだ。
 声の感じからして、俺と同い年ぐらいだろう。

「俺は、先週引っ越してきた……」
「私、泣いてないから」

 俺が挨拶と説明をしかけたところで、彼女はピシリと遮った。
 ちょっと面食らったのは確かだが、それも一瞬のことで思考を巡らせる。

 え~っと、そうきたか。
 あきらかに泣いてるけどな。
 まぁ、泣いてることをあえて口にするのは、誰だって嫌だろう。
 どう返せばいいのかよくわからないが。
 
 返事に詰まる俺に、彼女はたたみかけるように続ける。
 可愛い声をしているのに、意外と気が強いのかもしれない。

「私、泣いてる訳じゃないからね」

 そっか、と俺は答えるしかなかった。
 彼女の声以外に物音一つしないし、ベランダに誰も出てくる気配がないから、俺と同じく一人暮らしなのだろう。

「なら、これあげる」
 なに? と彼女は不思議そうに返事を返してきた。
「お守り」

 ベランダは薄い板を無理やり壁にしているようなチャチな作りだったから、少し身を乗り出して隣に手を伸ばせば小物を渡すことぐらいはできる。
 もちろん、どんな相手か見えないけどな。

 彼女は、俺の差し出したお守りを無視せず、同じように身を乗り出して受け取った。
 白くて細い手が、チラリと見えた。
 桜色のマニキュアに、やっぱり若い女の子だと感じる。
 プッと吹き出すのが聞こえた。

「なんで、商売繁盛なの?」

 あ、笑った。
 そういうのがツボなわけね。

「それしかなかったんだよ。俺はホラーが苦手なんだ」
「ホラー?」
「真夜中に窓の外から、女のすすり泣きが聞こえてきたんだ。空耳ならいいなって思ったんだよ。悪いか?」

 彼女は、押し黙った。
 きっとバツが悪いと思っているに違いない。

 怒ったか? 
 不安になるほど長い沈黙の後。
 笑いをふくんだ、からかうような調子が返ってきた。

「お化けが怖いのに、確かめるんだ?」

 あ、あれだ。
 や~いや~い怖がり、とからかう子供みたいな口調が、なぜか心地よかった。
 
 彼女はもう泣いてない。
 今日の涙は、たぶん打ち止めだろう。
 
「訳も分かんないのに、一晩中、シクシク泣かれてみろよ。ここは四階だぞ? 安心して眠れないだろ?」
「ないそれ? 勇敢なんだか、憶病なんだかわかんない」

 そう言ってクスクス笑う声が心地よくて、訳もなくよかったと思った。

「どっちでも変わらないよ」
「全然、違うでしょ?」
「違わない。別に、どっちでもいいだろ~確かめてんだからさ?」

 俺もつられて、笑った。
 はじめましても言ってないけど、彼女は笑ってる。

 よかった。
 本当に、あの時はそう思ったんだ。

 あれから、数カ月。
 俺たちがどうなったかというと。
 
 特別に急接近するでもなく。
 かといって、距離を置くでもなく。
 真夜中に時々会話を交わす仲になったけれど、顔もまともに見る機会すらなく。

 彼女か俺がベランダに出ると、気が向いたら同じようにベランダに出て、どちらからともなく声をかける。
 ただなんとなく、壁越しに会話を交わす。
 いつも、それだけ。

 とんだヘタレだって? ほっといてくれ。
 友人でもないし、名字しか知らないし、隣人と割り切るには親近感を抱いているけど。
 この距離感が心地いいんだ。
 いまだにそんな不思議な関係でいる。

 進展といえる進展はない。
 だけど、少しづつ彼女のことはわかってきた。
 たとえば彼女の名字とか、同じ年齢だとか、ブティックの店員さんだとか、初めて言葉を交わした日に彼氏に振られてフリーになったとか、色々と。

 彼女は饒舌ではないけれど、無口でもない。
 大人しくもないし、快活でもないけれど、屈託ない感じでよく笑う子だった。
 意外といってはなんなのだがかなり意地っ張りなので、そうそう簡単に弱ってるところを見せたりしない。

 彼女が泣いているのは、二度目だ。
 これで気にならないほうがおかしい。
 俺はベランダに出て、彼女に声をかけた。

「なに、また泣いてるの?」
 すぐに、返事が返ってきた。
「または余計」

 想像していたよりも、かぼそい声だった。
 相変わらず憎まれ口は叩いているけれど、いつもと違って覇気がない。
 初めて会話を交わした日に、遠慮なく泣いていたことを彼女は恥だと思っているらしい。
 いつもはあの日のことをにおわすととたんにムキになるのに、今日は語尾が涙で溶けている。

「まただろ? 心霊現象かもなんて、もう間違えないけどな」
 ハハッと俺が笑うと、ズズッと軽く鼻をすする音がした。

「あのときは特別」
「なら、俺って特別に当たりやすいんだ」
 ラッキーだなぁと続けたら、彼女は本気でムッとしたらしい。
 
「なによ、宝くじみたいな言い方しないで」
「似たような物だろ?」
「似てない」

「また振られたの?」
 なんて余計なことをつけたしたら、グッと彼女は言葉を飲み込んだ。

 おお、ビンゴ!
 というか、いつの間に新しい相手を見つけてたんだろう?

「違うわよ。元彼により戻そうって言われたの。でも、今更なによって問い詰めたらオタオタしちゃて、次までのつなぎにするつもりだったって最低な話。私から振ってやったのよ~ほっといて」

 あいかわらずツンツンととがった台詞を吐くけれど、どこか甘えたような口調が耳にくすぐったい。
 きっと悲しいとか辛いとか傷ついたとかそういう心境なのだろうけど、彼女は悔しいとかもっといい男を見つけてやるとか、何やら憤慨しているような台詞ばかり選んでいる。

 相変わらずだな~気持ちと口から出てくる言葉が、マッチしてないぞ。
 どうしてこんなに素直じゃないんだろう?
 そこが面白くてかわいいなんて思う、俺も俺だが。

 もう少し、近づいてもいいだろうか?
 なんて、甘いことを考えたりする。

 お隣さんなんて、近づけそうで近づけない他人の代表なのに。
 彼女といると、もう少し、と思う瞬間が増えてくる。

「まぁいいか」
 ついそうつぶやいたら、彼女は誤解したみたいだった。

「よくないでしょ? さっさと中に入ったら?」
 別に彼女が泣いてることについて言った訳でもないのに、バカ、なんて露骨に追い払おうとする。

 振られてよかったな~なんて思ってない……訳でもないか。
 おお、口には出せないが、いいことだと思っている俺がいた。
 今の状況は宝くじよりラッキーだぞ、なんて自分の感情に正直でなにが悪い。

「いいの。お隣さんのよしみでここにいる」
「よけいに危ない」

 ポンポンと返ってくるセリフの連続に、俺はハハッと笑ってしまう。
 気が強そうなことを言っている割に、グズグズに壊れた涙声だったから。
 そんなに無理してつくろわなくてもいいのに。

 こういうときは、一歩ぐらい前に進んでもいいよな?
 弱っている時につけこまなければ、彼女に詰め寄る機会は永遠に来ない。

「俺、危ない奴になってもいいんだ? 名前、教えてよ」

 俺の名前はね、と続けると、彼女は少し黙った。
 あ、考えている。
 ずうずうしいとか思っているのだろうけど、それほど不快に思っていないのがわかる沈黙だった。
 しばらくして帰ってきたのは、あきれたような声。

「……バカ!」

 ハハッと俺は笑った。
 バカ、なんて悪態が可愛いなんて。
 まいったな~やっぱり彼女にはまってるみたいだ。

「バカだよ。いいんだ。だいたい、ベランダ越しになにができるっての?」

 そう、泣いてる彼女を前にしても、何もできない。
 背中をさすってやることも、大丈夫だって抱きしめてやることも。

 何一つできやしない。
 涙がおさまるまでここにいることぐらいしか、できないんだ。

 薄い壁一枚で隔たれた、まともに顔も見れないベランダ越し。
 その距離感はもどかしいけれど、ほんの少しだけ心地いい。
 ああでも、嗚咽は途切れた。

 しばらく彼女は無言だったけれど、ガタガタと大きな音がした。
 お互いのベランダを隔てている板がスライドして、猫が通れるぐらいの隙間ができる。
 人間は通り抜けられない幅だが、そこからニュッと白くて細い手が伸びてきた。

 缶ビールが一本。
 水滴がまとわりついたそれを、俺は無言で受け取った。
 古いっていいわね、となんでもないことのように言って、彼女はもう一本の缶ビールを開けている。

 この壁、壊れてたんだ。知らなかった。
 俺が本気で力を込めれば、完全に取り外せるに違いない。

 彼女を見ると涙でぬれている瞳が、薄明かりの中でジワリと浮き上がって見えた。
 ほのかに微笑んでいるけれど、やっぱり涙が今にもあふれそうな頼りない表情だった。
 初めて間近で見る彼女は大きな瞳がとてもかわいいけれど、やっぱり壁一枚を隔てた微妙な距離感があった。

 ああ、でも。
 この薄い隙間は、今の俺たちにピッタリの距離感だろう。

 彼女から空へと、俺は視線を移した。
 部屋の電気をつけたままだから星はあまり見えないけれど、それでも静かな夜だった。

「ここにいるから、気が済むまで泣いてもいいよ」

 空を見たままそういうと、彼女はしばらく無言だった。
 バ~カ、と非常にかわいくない言葉を小さくもらしたけれど、そのまま嗚咽を押し殺すようにして泣いているようだった。

 俺も缶ビールを開けて、口をつける。
 少しぬるんでいるそれはほろ苦くて、喉の奥で泡が小さくはじけた。
 どこかいたずらっぽいはじけ方をしているけれど、あふれる炭酸は止められない。
 軽ければ軽い感覚を残すほど、ほろ苦く感じる。

 彼女の涙も、こんな味なのだろうか?

 ビールみたいに、簡単に飲み干せたらいいのにな。
 詩人みたいな感傷を抱いていたら、ねぇ、と彼女が俺を呼んだ。
 ゆっくりと声の方を見ると、彼女も隙間から俺を見ていた。。
 
「私が泣きやんでも、すぐには行かないで」

 自分の名前を告げて、彼女は笑った。
 硬い蕾がふわりとほどけ、花がほころぶようだ。

 俺はうなずいて、笑い返した。
 ほら、やっぱり屈託なく笑えるじゃないか。
 
 はじめましてのその日から。
 ただ、その笑顔を見たかったんだ。


【 おわり 】
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