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再会(大学生・社会人)

朝よりも海よりも

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 駅の改札を出ると、記憶とはほんの少し違う風景があった。
 午後のまばらな人込みの中、私はゆっくりと歩きだす。
 目に見える景色の中に見慣れない物もそこかしこにあって、懐かしさを裏切る小さな変化に軽く驚いてしまう。
 足を運ばなかった間に、二年の歳月が経っていたんだと、目にした変化から実感した。

 できたばかりの新しい店と、消えてしまった自動販売機。
 知っている場所なのに、違う場所に迷い込んでしまったみたいで、ほんの少し心が落ち着かない。
 馴染んでいたはずの道がまるで違う場所になってしまった感覚で、足元がふわふわと頼りない気がするのだ。

 今日は同窓会だった。
 高校時代、同学年だった数クラスが集まる合同の同窓会。
 ホテルで行われた立食パーティー形式の同窓会は参加人数が多かった。
 乾杯のビールを一杯だけ飲んだけれど、慣れないアルコールより人の多さにあてられた気がする。

 学生さんが出席者のほとんどを占めていて、卒業してすぐに就職した私は一人浮いてしまった。
 懐かしいねって話はしても、今どうしているの? から先に広がらない。
 できるだけ聞き役に回っていたけれどずっと聞き続ける訳にもいかず、自分のことを話すと奇妙な沈黙や不思議な空白が生まれてしまって、気分的に疲れてしまった。

 同じ教室にいたことが嘘みたいに遠く感じて、会話の噛み合わなさは居心地が悪いばかりになる。
 二次会の誘いは断って、フラリと電車に乗った。
 気持ちのままに、迷うことなく想い出の場所に向かっていた。

 こんな気まぐれを起こすなんて自分でも不思議。
 たぶん、この先もないだろう。

 しばらく歩き、記憶の中と変わらない手作りのお弁当屋さんにほっと安堵した。
 のぼりは最後にみた日と変わらない場所にあったけれど、日に焼けて色あせている。
 駅前ということもあって手作りのお弁当はよく売れた。
 大きなお鍋も、フライヤーの油のにおいも、今では懐かしくてたまらない。

 私は高校に入学してから卒業するまでの三年間、平日は朝五時から七時までここの弁当屋さんでバイトをしていた。
 学校に通う日だけではなく、夏休みも毎日。
 長期休暇は早朝から正午まで働いていた。

 記憶の中よりほんの少しだけ色褪せていたけれど、変わらない店舗のままでいてくれたことがやけに嬉しかった。
 店頭に表示されたメニューが思い出の中と変わっていないことを、横目で確かめながら通り過ぎる。
 人のいい店長は相変わらずの調子で、忙しそうに働いている背中がガラス越しに見えた。
 元気そうでよかった。

 でも、声はかけない。
 今日の目的は違うから。
 そんな言葉がふわっと浮かんで、おかしくて笑いだしそうになった。

 目的と言えるほど、たいそうなものはなにもないのだ。
 すべてが気まぐれの思いつき行動。
 この場所に再び来るなんて、それだけで奇跡的なことだから。

 懐かしい道をたどる。
 想い出の場所を目指して、ゆっくりと私は歩く。
 次第にすれ違う人がまばらになって、遠かった波の音が近くなってきた。
 そう、私は海に向かっている。

 先生に今すぐ会いたかった。
 潮騒が、苦しいほどに胸をかき乱す。
 鼻孔をくすぐる潮の香りが次第に濃くなり、説教臭い横顔を思い出して泣きださないように唇を引き結んだ。

 本当は忘れたいのに、忘れることができない。
 想い出の中にしか先生はいないのに、今でもくっきりと覚えている。
 少しくたびれたスーツと、あまり恰好をつけない愛嬌のある顔。

 制服を着て教室に紛れ込むと、きっと教員であることに誰も気づかない。
 だけど真っ直ぐに生徒の顔を見る、新任の癖に妙に落ち着いた先生だった。
 私は高校時代と同じ歩調で、時間をさかのぼるみたいに歩き続ける。

 はじめて会ったのは高校二年生になったばかりの春。
 始業式より前に顔を覚えた。
 先生は私のバイト先のお弁当屋さんの常連だった。
 登校前に朝食セットと昼食用の日替わり弁当を必ず買う。
 そして晴れた日と曇りの日は海岸に向かい、階段に腰掛けて朝食のおにぎりをかじっていた。

 最初は迷惑だった。
 お気に入りの場所を横取りされて、姿を見つけると嫌な気持ちになった。
 私が海岸に現れると「また来たのか?」って先生はよく笑うから、わかりやすく不快な表情を見せたと思う。
 バイトの片づけをしてから海岸に来たから、後から来たモノ好きは私に見えるけれど、それは違う。
 私は高校に入学してからずっと、朝は海を見ながらまかないのおにぎりを食べていたのだ。
 入学した時から海岸に降りる階段は私の定番の食事位置だったので、お気に入りの場所に割り込んだのは先生だってはじくと「そうなのか?」とまた笑う。
「私の場所を返してよ」って言うと、カラカラ笑って「海は誰のものでもないさ」って鷹揚に応える。

 それが憎たらしくて、心の奥でほんの少し納得して。

 そして二人並んで、海を見ながらおにぎりをかじる。
 海を眺めながら少し冷めた味噌汁をすすり、食べ終わるとすぐに先生は立ち上がる。
 そしてなにもなかったように、私を振り返りもせず学校に向かうのだ。

 私も何もなかったように、海を見ながら食後のコーヒーを飲む。
 誰も知らない二人だけの、そんな朝が続いた。

 特別な話はしなかったと思う。
 私にとっては特別ではないだけで、先生にとっては特別だったのかもしれないけれど。

 小学生のころに父が亡くなったこと。
 それからシングルマザーとして母が奮闘していること。
 学費の足しにするために、早朝のバイトをしていること。
 勉強はわりと好きだから、週に何回か近所の小学生の家庭教師もしていること。
 だから部活には入らないこと。
 先生みたいに教師になりたいけど大学は経済的に無理だな~って笑うと、先生はとても複雑な表情になったこと。
 次の日から、なぜか走れと言われたこと。

 全部、覚えている。

 特に、走れと言われた事は忘れられない。
 突然過ぎて、心から驚いた。

 砂浜を走れなんて、バカじゃないの?
 弁当屋から出て海岸に突き当たった最初の階段を下りて、砂浜を走って俺のとこまで来いって変だよ。

 おばあちゃんに会った時に夢中で話してくれた古い青春映画でも見てしまって、その影響を丸ごと受けて頭がおかしくなったんじゃないかと思った。
 それに砂の上ってものすごく走りにくいし。

 蓋をしていても朝食用の味噌汁がこぼれたら嫌だし、朝から砂浜を走るって体力が必要だから、最初は断った。
 だけど、ものすごく真剣に何度も言うから、一週間後に私が折れた。

 バイトが終わって先生が言っていた場所から砂浜に降りると、私のほうを見て手を振っていた。
 早朝の海岸に先生がいることは見慣れていたけれど、その笑顔にドキリとした。
 少し反抗的な気持ちがわいて適当にダラダラ走って先生のところにたどりつくと、鼻先で笑って「遅い」ってタイムを見せられた。

「だらしね~な」

 どこか伝法な軽い口調に、イラッとしたのは確かだ。
 してやったりって表情や、子供扱いしたあしらい方が、私の負けず嫌いに火をつけた。
 
 次の日からムキになって走った。
 とにかくタイムを縮めてやろうと、なりふり構わずに全力疾走。
 じゃりじゃりした砂は走りにくくて、タイムはなかなか縮まらない。
 学生カバンも補助カバンも抱えたまま、思い切り砂浜を疾走するって、誰にも見られたくない姿だ。
 それでも天気のいい日は先生に向かって毎朝のように走った。

 朝の空気。
 生まれたばかりの太陽。
 迫ってくるような波と海の音。
 跳ねる心臓と肺を満たす潮の香り。
 一日のうち、一回だけの全力ダッシュ。

 私のゴールは先生。

 二人だけの秘密みたいな、朝の小さなやり取り。
 定型文みたいに私が「今日のタイムは?」って聞いた後、先生からご褒美代わりに渡されるのは安っぽい一口チョコ。
 子供扱いしないでって言いつつも、先生が甘い物は苦手だって知っている。
 私のためだけにお店で買って、私のためだけに用意した特別なチョコレートだった。

 その甘さを思い出すと、今でも泣き出しそうになる。
 口の中でとろけるチョコは、先生の言葉みたいに私の中に溶け込んで満ちる。

 一年経って、体育祭が近づいたある日。
 どんなに頑張っても朝のタイムが縮まらなくてイライラしていた私に、先生は笑って頭をくしゃくしゃとなでてくれた。

「お前の足なら陸上部の奴にも負けない」

 大きな手が触れたことに、全力疾走したみたいに心臓が鼓動の速度をあげた。
 壊れそうなほどドキドキ脈打って、一気に噴き出してきた気持ちが「好き」に染まる。

 先生。困るよ。
 先生しか見えなくなる。
 先生に向かってしか走れなくなる。

 卒業まで、朝の海岸ダッシュは続いた。
 いつも私を置いてさっさと登校する先生の後ろ姿を、そっと見送ることしかできなかった。
 朝の不思議な邂逅についてはお互い知らん顔で、校内ですれ違っても挨拶程度しかしない。
 砂浜を走る朝は私にとって特別になっていたけれど、先生にとっては特別な時間じゃないってわかっている。

 それでも、笑いながら待っている先生に向かって、思い切りダッシュする朝の一瞬が好きだった。
 他の誰かに気付かれて終わってしまうのが怖くて、膨らんでくる気持ちを抑え込むくらい、先生が好きだった。
 
 朝よりも海よりも、先生が好きだった。

 時間は止まらない。
 春が来て、夏が過ぎ、秋を通り過ぎたら、卒業が待っていた。
 卒業式の後に校内で、先生から「おめでとう」って言われた。
 私は「ありがとう」って答えただけだった。

 卒業したら先生に「好きだ」って伝えたかったけど、他の人がいる前で話があるとは言えなかった。
 それに次の約束をしなくても大丈夫だと思っていた。
 卒業してもしばらくの間は朝の弁当屋のバイトを続けることにしていたから、店舗や海岸で会えると思っていたのだ。

 だけど。
 先生は来なかった。
 弁当屋にも、海岸にも。

 在学生がいる時期も、修了式の後も、先生の訪れはパタリとやんでしまった。
 常連の先生が来なくなったねぇ~と店長がぽつりとつぶやくほど、唐突に姿を見せなくなった。

 学校には怖くて行けなかった。
 卒業した私が、先生に会うためだけに顔を出すのは、なにか違う気がした。
 在学中は好きだとばれてしまうのが怖くて、ほんの少しでいいから距離をとりたくて、ただ「先生」と呼んだ。

 あの頃の私は、先生を「真鍋先生」って名前で呼ぶ勇気すらなかった。
 あれこれ言い訳して、私は一歩を踏み出すことすらしなかった。

 だから。
 卒業式の日が、先生を見た最後の日。
 私の気持ちを伝えることもできないまま、あっさりと恋は終わってしまったのだ。

 唐突に終わってしまった二人だけの秘密は痛くて、割り切れない気持ちはずっと心に残っていた。
 新しい恋なんて考えられないくらい、卒業後は仕事が忙しかった。
 就職してから二年が過ぎ、やっとペースをつかんだと思う。

 大丈夫、このままいい思い出に変えていける。

 そう思っていた矢先に、同窓会のはがきが届いた。
 恩師が来るという一文を、思わず指先でなぞってしまった。
 もしかしたら先生に会えるかもしれない。
 そんな淡い期待で想い描いた人の姿を会場で探したけれど、見つけることは出来なかった。

 それでも探して、探して、勇気を出してみたのに。
 欠席だよって幹事にきいて、泣きだしたいぐらい切なかった。

 会えなかった。
 あたりまえだ。これがあたりまえなんだと思う。
 とっくに終わっていたんだもの。
 この先二度と会えないって、認めるのが怖かっただけだ。
 今日こそは、明日こそはと、淡い期待を抱いて座り込んだ私が、海岸で今もまだ待っている気がした。

 卒業後の早朝の海岸は、ポツンと一人で座るばかりで、ただ寒かった。
 行こうと思えばいつでも行ける距離なのに、今まで思い切りがつかなかった。
 想い出の中で泣いている私を、今日はちゃんと連れて帰ろう。

 懐かしい海岸通りに出て、高校時代と同じように手前にある堤防の階段を下りる。
 ジャリジャリした砂に足を下ろすと、八センチのヒールが沈んでしまった。
 制服とスニーカーとは違って、風にあおられたワンピースのすそは足にからまるし、かかとの高いパンプスは砂浜を歩くには不向きだった。
 歩きにくいな、と思いながら顔をあげて、息をすることを忘れた。

 想い出の場所に、ポツンと男の人が座っていた。
 所在なさげな様子で、海をじっと見つめていた。
 少しくたびれたスーツに、海風にかきまぜられた髪はぼさぼさ。
 見惚れるようなかっこよさはないし、鷹揚な性格そのままの表情で、ぼんやりと海ばかりみている。

 それでもその横顔は、私が会いたくてたまらない人だった。
 気持ちが高校時代の朝に戻って、勝手に足が走りだす。

 風が動いたように、ふっと先生が私を見た。
 必死で走る私に驚いた顔をして、そのまま目を大きく見開いたけれど、はっとしたように先生も動き出す。

 夢でもいいと思った。
 私に向かって、先生が全力で走ってくる。
 涙が勝手にこぼれて、胸が詰まって声が出ない。

 先生、先生、先生。
 走っている間に、パンプスが砂に取られていつの間にか脱げてしまったけれど、どうでもよかった。

 会いたかった。
 そう言いたかったけれど、胸がいっぱいで声が出ない。

 あっという間に私の前に立った先生が両手を大きく広げるから、勢いのままその腕に飛び込みかけたけれど、足がすくんだ。
 数歩離れた場所で立ち止まった私に、先生はちょっと困った顔をしたけれど、にこっと笑って右手を差し伸べてきた。

 そっと手を伸ばす。
 指先が触れた。

 恐る恐る重ねる私の手のひらを、先生は待っていられないとばかりにギュッと握りしめてくる。
 少しかさついてるけれど、暖かくて大きな手だった。

「鈴原……だよな?」

 名前を呼ばれて、コクリとうなずいた。
 握手するぬくもりは、本物の先生だ。

 嬉しいのに涙が止まらない。
 会えた喜びと、どうしてこんなところにいるのか湧いてくる疑問と、胸につかえた想いと、頭の中がごちゃごちゃして上手く思考がまとまらなかった。

「先生……!」

 ただその一言を絞り出すと、腕をグイッと引っ張られた。
 そのまま先生の胸の中に倒れ込んでしまい、そのまま抱きしめられる。
 幸せと、混乱とで、気持ちがあふれた。

 ねぇ、先生……先生も私のこと、少しは好きだった?

 声には出せなかったけれど、子供をあやすヨシヨシといった調子で先生は私の頭をなでてくれた。
 頭の上から小さなぼやきが聞こえてくる。

「同窓会、欠席した意味がなくなったじゃないか……」
 少なからず驚いて顔をあげると、鼻をつままれた。
「バカヤロー、大人になって帰ってくるなよ」

 毒のある言葉なのに嘘みたいな優しい口調で、悪戯っ子の顔の先生に悪態をつかれてしまった。

「好きです、私、先生が好き……ずっと会いたかった」

 やっと言えた。ずっと伝えたかったことを伝えられた。
 ただそれだけで緊張が途切れて、ワンワンと子供みたいに声をあげなげながら泣いてしまう。

 涙でグチャグチャのひどい顔になっているのはわかっているけれど、ずっとずっと先生しか見てなかった。
 朝よりも海よりも先生が好きだった。
 好きしか見えなくて、忘れることもできなかった。

 未成年だったお前にいけないことをしたくてずっと怖かったんだよ、と悪びれなく笑われる。
 説教臭い表情を作ってはいたものの、少年みたいなキラキラした瞳だったので、見上げながら私も笑い返す。

 夕方の空気。
 沈む太陽と顔を出す月に、迫ってくるような波と海の音。
 跳ねる心臓と肺を満たす潮の香り。

 瞳を閉じるから、その唇で捕まえてほしい。

 私のゴールはいつも先生。


『 おわり 』
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